第6話 秋原晴人は女神様を暖めてあげたい

 水琴さんはこの家しか行き場がないという。

 どういうことだろう?


 前に住んでいた家を追い出されたということなんだろうか?

 そうだとしたら、理由は?

 

 いろいろと疑問が浮かんだけれど、そのとき、水琴さんが可愛らしく小さなくしゃみをした。


 この部屋は暖房のスイッチが入れられていなかった。

 俺は帰ってきたばかりだし、水琴さんはリモコンの位置がわからなかったんだと思う。

 

 壁にかけたデジタル式の室温計は3℃を示していて、部屋がかなり寒いことを示している。


 しかも、水琴さんはセーラー服しか着ていない。

 こんなに冷え込んでいる夜に、コートもマフラーもつけずにここまで歩いてきたみたいだ。


 水琴さんが小刻みに震えているのを見て、俺は慌てて自分の黒いダウンコートを水琴さんに差し出した。


「とりあえず、これ着なよ。部屋のなかでコートってのも変だけど、部屋が暖かくなるまでのあいだは、着ないよりマシだからさ」


「……いらない」


「風邪ひくよ? 俺みたいな男が着たコートなんか嫌なのかもしれないけど、そこは我慢しようよ」


「そうじゃなくて、借りを作りたくないの」


 水琴さんは震えながら、でもはっきりとした口調でそう言った。

 借りを作りたくない、か。


 別にコートを借りるぐらい、大したことではないと思うんだけれど。

 どうして水琴さんは借りを作りたくない、なんて言うんだろう。


 俺はちょっと考えてから言った。


「借りだなんてさ、思わなくていいよ。ここは俺の家だし、俺の目の前に寒さで震えている人がいると俺自身が居心地が悪くて困るんだ」


「べつにあなたが困ってもわたしには関係ないもの。それに、わたし、全然寒くないし」


 水琴さんは両手で肩を抱いて、かすれた声でそう言った。

 寒くないわけがないと思う。

 歯もガタガタと震えているし、さっきまでより顔色も悪くなってきている。

 

 こんな状態でいたら、本当に凍え死んでしまうんじゃないだろうか。

 俺は困惑して言った。


「頼むから受け取ってよ。これは俺からのお願いだから、むしろ俺が水琴さんに借りを作ると思ってくれればいい」


「でも……」


「あ、コートより毛布のほうがいいか。どっちがいい?」


 水琴さんはちょっとためらった様子を見せて、それから小声で「両方」と言った。

 俺はうなずくと、まず水琴さんにコートを押し付け、押入れのなかから毛布を取り出してそれも渡した。


 食卓に座っておくように伝えると、水琴さんは小さくうなずき、椅子にちょこんと座っていた。

 俺はテレビ台の下からエアコンのリモコンを取り出し、暖房をガンガンに効かせはじめた。


 次に、食卓近くの冷蔵庫を開けて、中をのぞきこむ。

 なにか温かい飲み物を水琴さんに飲ませてあげたい。

 俺は水琴さんを振り返った。


「ココアとはちみつ入りホットミルクなら、どっちが飲みたい? 牛乳が嫌いならコーヒーとか淹れるけど」


「わ、わたし、そんなことまで秋原くんにしてもらうつもりはないわ」


「俺も寒いから飲むんだ。ただのついでだよ。それに、客に飲み物を出すのは当然のことだからね」


 俺は「ただのついで」というところを強調して、水琴さんの心理的抵抗を小さくしようと試みた。


 本当は水琴さんのために用意するわけで、どちらかといえば俺のほうがついでに飲むと言った感じなんだけれど。

 そんなことを言えば、さっきみたいにまた「借りを作りたくない」と言い出しかねない。


 氷の女神様は人の善意を受けとるのが苦手らしい。


 ともかく、まだ水琴さんはこの家ではお客さんだ。


 水琴さんはこの家に住むというけれど、決まったわけじゃない。

 事情も何もわからないのだから。


 水琴さんはうつむいて、「はちみつ入りホットミルク」と短く答え、俺は「了解」と答えた。

 マグカップ二つに中身を注ぎ、電子レンジに入れて温める。

 時間は一分。

 このぐらいがやけどもせず、温かく飲めるちょうどいい時間だろう。


 それから俺は風呂場に移動した。今日の朝に掃除はしてある。

 やや熱めの温度に設定して、湯を張り始めた。

 こっちはしばらく時間がかかるから放置。


 俺がふたたび台所に戻ってくると、ちょうど電子レンジの温めが終わっていた。

 

「どうぞ」


 と言って、俺はマグカップを水琴さんに差し出し、俺自身も食卓についた。

 水琴さんはおそるおそるマグカップに口をつけた。


 その様子を見て、一瞬、どきりとする。

 水琴さんのみずみずしい唇が、俺の普段使っているマグカップに触れている。

 なんだか水琴さんがミルクを飲む姿も妙に色っぽい。


 やっぱり、女神様は何をやっても綺麗に見えるなあ、と思っていると、水琴さんはつぶやいた。


「おいしい」


「ただのホットミルクだよ」


「でも、さっきまですごく寒かったから、すごくおいしく感じる」


 そう水琴さんは言ってから、はっとした表情で口に手を当てる。

 やっぱり寒くないというのは大嘘だったわけだ。

 けれど、そんなことを指摘すれば、また水琴さんが態度を固くしかねないだろうから、俺は何も言わなかった。

 代わりに別のことを言う。


「湯船にお湯を張ってるからさ。それ飲み終わったころに準備できると思うから、入ってきなよ」


 水琴さんは行く場所がないと言い、今日からこの部屋に住むと言った。

 どこにも帰ることができないということなら、ここで風呂に入るしかない。

 銭湯はかなり遠いし、それに行き帰りの道で身体を冷やしてしまう。

 

「でも……」


 水琴さんはちょっと考え込んだようだった。

 男の家で風呂に入るなんて水琴さんには抵抗感があるかもしれないけれど、本当にこのアパートに住むということであれば毎日ここの風呂を使うことになるはずだ。

 

「身体を温めるなら温かいお湯につかるのが一番! 水琴さんはそう思わない?」


「……そうね」


 結局、水琴さんは素直にうなずいた。

 その後、水琴さんは何かに気づいたようで、少し困ったような顔をした。


「秋原くん」


「なに?」


「着替えがないの」


 水琴さんは防寒具を身に着けていなかっただけじゃなくて、何一つ荷物も持っていなかった。


 本当にどうしたんだろう?

 身一つで高校生の女の子が冬の夜に放り出されるなんて、普通じゃない。


「着替えぐらい貸すよ。その代わりにさ、どうして水琴さんが俺の家に住むなんてことになったのか、教えてくれない?」


「わたしと秋原くんははとこ同士なの。遠い親戚ってこと」


 水琴さんはマグカップを机に置き、碧い瞳で俺を見つめて言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る