第7章 惑星バレンシア
16 死んだのか 殺したのか
船は惑星バレンシアに定刻より少し早めに着陸した。
俺は、この二日半というもの、泣いたり押し黙ったりを繰り返しているスノウに声を掛けた。
「スノウ、ちょっと出かけてくる。二日後の出航時間までには、戻ってくるからな」
スノウは黒い瞳を陰鬱そうに光らせて、膝を抱えソファーの上に座っている。俺の言葉に対する答えはない。俺は溜息を耐えながら、荷物を小さなトランクにまとめると、それと杖を持って部屋を出た。
廊下では、腕組みをしたアンナが俺を待っていた。スーツケースふたつの大荷物を携えている。彼女はこのバレンシアで下船するからだ。アンナは菫色の瞳を光らせると、俺に合わせてゆっくりと廊下を下船口に向かって歩み始めた。
「スノウは?」
「船で待っている、つもりだろ」
「つもりって何よ」
アンナの声には棘がある。それ見たことか、と言わんばかりだ。
「仕方ないだろ、あれから俺と口をきかないんだから」
「当たり前よ。好きな男が昔の恋人とよろしくやって朝帰りしてきて、怒らない女はいないわ。しかも」
アンナはそこで言葉を句切って、俺の目を見据えた。
「そいつがこれから、奥さんに会いに行く、となったらね、口をきくどころか顔すら見たくないでしょうよ。そのくらい想像できないの、あんたってば」
「分かっているさ」
やがて、下船口から、バレンシア特有の生暖かい大気が船内に吹き込んできた。俺はタラップをゆっくり降りながら、久々の有人惑星の空気を胸いっぱい吸い込む。
そうだ、スノウの心の内は、今、ボロボロだろう。そして、そうさせたのは当の俺だ。俺の胸は罪悪感でいっぱいだ。
だが、死んだと思っていた妻が生きていて、しかも妻がいる惑星に来てしまったからには、会わずに素通りするわけにもいかないだろう。だらしない俺にも、そのくらいの倫理観はある。
アンナと俺はバレンシアの宇宙港を出ると、タクシーでターニャが入院しているという病院に向かうことにした。アンナが運転手に病院名を告げる。俺はその病院名を聞いて、おや、と思った。
「ターニャは、軍用病院にいるのか。あいつが最後に巻き込まれたのは、市街地への空襲だったはずだが」
「そうよ。でも、終戦後、転院したの」
「転院? 一般の病院では手に負えないような、そんな酷い怪我だったのか?」
「それは」
そこまで言ってアンナは口籠もった。心なしか菫色の瞳は暗さを帯びている。
「それは行けば分かるわ」
アンナはそれ以上、詳細を喋ろうとしなかった。俺もつられるように黙りこくり、車内を沈黙が支配する。
車窓から見える、これまたバレンシアならではの、オレンジ色の雲に覆われた空が禍々しく感じられて、俺は心なしか悪寒を感じた。それは予兆だったのかもしれない。それからの妻との再会における、寒々しい時間の。
宇宙港から四十分ほどかけて、タクシーは病院に着いた。山の中腹にある人里離れたその病院の窓には、揃って冷たい鉄格子が光っている。それを一瞥して、俺はアンナが口籠もった理由を悟った。
そこは軍の精神病院だった。
なぜだ?
おぼろげにだが、ターニャは底抜けに明るい女だったと記憶している。
そんな、彼女の精神に、一体何が起こったというんだ?
アンナが言った。
「私はここで待っているわ。イヴァン、あなたひとりで向き合ってらっしゃい、現実に」
俺はトランクを片手に、病院の玄関にひとり降り立った。
窓口で用件を告げると、あっさりと妻への面会は認められた。ということは、そんなに病状は深刻ではないということか。俺はそれに少し、ほっ、とした。
妻の病室まで案内してくれた看護士は、何も俺たちの事情は知らないようで、ただニコニコしながらこんなことを話しつつ俺を先導してくれる。
「ターニャさんったら、お喜びになるでしょうね。これでもうあんなことすることなくなるでしょうよ」
「あんなこと?」
俺は杖を操る手を止めて、立ち止まった。すると看護士は、いくらか、しまった、というような顔になって俺の顔をのぞき込んだ。
「旦那さん、本当に何もご存じないのですか?」
鉄格子越しの窓から、ざわっと、バレンシアのぬるい風が流れてくる。まるで俺の心を騒がせるかのように。看護士は途端に小声になった。
「ターニャさん、何度も前の病院で自殺を図って、ここに来られたんですよ。幸い今は落ち着いていますが。これが、ひと月前だったら、とても旦那さんとはいえ面会は無理でした。そのうえ」
俺の首を、喉を、真綿で締め付けられるような嫌な感触が這い上がる。
「そのうえ?」
「おかしなことを言うんですよ。亡くなられたお子さんは、事故でなく、殺された、って」
「俺たちの子どもが?」
どういうことだ? 俺は混乱しながら、妻の病室のドアをゆっくり開けた。
黄色い寝間着姿のターニャは、静かにベッドに腰掛けていた。
俺の顔を見ても、驚く様子もなかった。俺が突然やってきたことにも、おれが眼帯姿で左目のみの顔になり、杖を突いてよろめきながら現れたことにも。
見慣れた、そうだ、飽きるほど見慣れていた亜麻色の髪が、鉄格子越しの陽を浴びてきらりと光る。だがその口から出る声は、底抜けに明るいあの妻の声ではなかった。
「いつか来ると思っていたわ」
そして俺の顔と不自由な身体を見て、ははっ、と冷たく笑った。
「罰が下ったのね、いい気味だわ」
俺は背筋が、ぞくり、としたが、聞き返さずにはいられなかった。その意外な言葉に。
「罰?」
「しらばっくれる気? 私たちの子どもを殺した罰よ!」
彼女は急に大声を上げて、確かに、そう言った。
そしてベッドサイドのキャビネットから何やら取り出すと、ただ呆然と立ち尽くす俺に向けて、何かを投げつけてきた。拾い上げてみるとそれは白い封筒だった。訳の分からぬまま、ひとまず中身を確かめようとすると、彼女が再び甲高い声で叫んだ。
「もう来ないで! 人殺し!」
「ターニャ、なんなんだ、俺にはさっぱり事情がのみこめない!」
すると彼女は、声を落として、俺を暗い目で睨み付け、語を継いだ。
「あなたは、人を殺しておいても、平然としていられる人なのね」
ターニャの瞳に躍るのは、紛れもなく、底知れぬ憎悪の光だった。そしてそれは、間違いなく俺に向けられている。俺は迫り来る憎悪の念に、どんな戦場でも感じたことのない猛烈な恐怖を感じ取り、後ずさりした。
「もう来ないで!」
いったい、どういうことなんだ。
俺の精神ももう限界だった。子どものことを言い出された瞬間から、あの発作が頭の中で渦を巻きつつあった。
子どもが死んだ?
しかも俺が、
子どもを殺した?
俺は混乱する思考を逸らすように、震える手で拾い上げた封筒を開き、中身を確かめる。
はらり、と俺の手に舞い降りたのは、一通の離婚届だった。
妻の署名が記入されている。愕然とする俺の顔を叩くのは、ヒステリックな妻の笑い声だった。
よろけながら俺は妻の病室を出た。情けないことだが、一刻も早くここから逃げ出したかったのだ。まるで悪夢そのもののような、この場から。
玄関前のタクシー内にいたアンナは、病院から出てきた俺を見ると、菫色の瞳を光らせながら車から降りてきた。
「どうだった?」
「どうもこうも、話にならない。いったい、何がなんだか俺には訳が分からない」
ぬるい風が俺とアンナの髪を、ざわっ、とかき乱す。そのなかで俺は疼くこめかみを押さえながら、アンナに向き合った。
「アンナ。教えてくれ、俺は、本当に、自分の子どもを殺したのか?」
「殺してないわ、それは彼女の妄言よ」
華やかな金髪を風に乱しながら、きっぱりとアンナは断言した。
「じゃあ、なんで、俺の子どもは死んだんだ?」
「終戦直前、あなたがどこの部隊に所属していたかは、私は知らないけれど。学童疎開船が撃墜された事件も、あなたは全く覚えてないの?」
俺は息をのんだ。記憶の空白が少しずつ埋まる感触が脳を這いずる。だが、それは決して、心地の良いものではなく、むしろ。
なおも渦を巻く風のなか、アンナの声が俺の耳に突き刺さる。
「あなたの子ども、ナターシャは、その船に乗っていたと聞いているわ」
俺の手から杖が離れた。
病院の玄関を、杖が、からん、からん、と転がっていく光景を、俺はまるで、子どもの頃博物館で見た、大昔のフィルム映画のようだな、と他人事のように思った。
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