15 痴話喧嘩

 間違いない、と私は確信した。


 朝方、フラフラと頼りない足取りで、杖を突き船室に帰ってきたイヴァンからは酒の匂い、そしてそれでも隠しきれぬ、あの私が嗅ぎ慣れた匂い、男が放つ情事の後特有の、体臭がした。


 間違いない。イヴァンはアンナを抱いてきた。


 イヴァンがアンナに引っ張られて姿を消してから、悶々と夜も眠れぬまま、膝を抱えていた私の気持ちも知らないで。そしてもう、船内時計の針は十一時を指そうとしているのに、ベッドから起き出す様子もない。

 私と顔を合わせづらいのは、よーく、よーく分かるけれど、流石に私の堪忍袋の尾も切れつつある。私はイヴァンのベッドに駆け寄ると、勢いよく布団を剥いで、彼の耳元で怒号を上げた。


「イヴァン! もう十一時! いい加減起きて!」


 イヴァンは動く左目を瞬かせて、ぼんやりと私を見た。今日ばかりはその美しいブルーの色が憎たらしかった。

 そしてようやく口を開き吐いたその言葉は、憎たらしいを超えて、腹立たしいに尽きるものだった。


「二日酔いなんだ。もうちょっと寝かせてくれ、スノウ」

「何が二日酔いよ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 私の気も知らないで!」


 私は怒りを爆発させて、イヴァンの頭の下から枕を奪うと、力いっぱいイヴァンの顔を枕で殴りつけた。枕のカバーが破れて、なかの羽がふわり、ふわり、と部屋に飛散する。イヴァンは私の剣幕に押されて、白い羽毛が舞うなか、ばつの悪い顔で黙りこくっていたが、やがて思春期の少年のように拗ねた顔で、私から視線を逸らしつつ呟いた。


「悪かった」

「悪かった? 何が悪いと思っているの? 朝帰りしたこと? 酒に酔い潰れたこと? それともアンナと寝てきたこと? どれよ!」

「スノウ、君に心配かけたことだよ」

「心配かけた、ですって?」


 私は泣き叫ばんばかりだった。


「それが分かっていながら! どうして! アンナと寝たのよ! 私は抱いてくれなかったくせに!」

「君みたいな子どもを、抱けるわけないだろう!」


 私につられるようにイヴァンも大声を出した。廊下から騒音をとがめる他の客の声がするが、私たちには、それにかまっている余裕もない。もう滅茶苦茶だ。


「私が子どもなんかじゃないのは、あなたが一番よく知っているくせに!」

「君は子どもだよ! それに!」

「それに何よ!」

「俺には妻がいる!」


 私は頭から冷水をかけられたような気がして、一瞬、怒りも忘れて、息をのんだ。喉を締め付けられるような痛みが私を襲う。

 イヴァンはそんな私と目を合わせぬまま、さらに残酷な一言を吐いた。


「妻が生きていたんだ。バレンシアの病院にいる。昨夜アンナが教えてくれた」


 そう言うと、イヴァンはふらふらとベッドから起き上がると、立ちすくむ私の脇を無言ですり抜けて、バスルームに入っていく。


 私の目から涙が噴き出した。わぁぁん! と子どものように声を上げて泣き叫んでいる自分をもう押しとどめることが出来ない。私は怒りと哀しみと、嫉妬と絶望がまぜこぜになった激情に身を任せて、号泣し続けた。指先のアクアマリンの指輪を粉々にしたい衝動を堪えるのがやっとだった。


 私は船室から飛び出した。私たちの怒鳴り合いに何事かと集まってきた船客たちが、私を囲んで、一斉にからかいの声と口笛を寄せる。


「見世物じゃないわよ! どいて!」


 私は乱暴に野次馬を押しのけて、廊下を駆け出した。

 頬を伝う涙はまだ止まらない。だが、ふとあることに気が付き、足を止めた。


 バレンシア。確か次の寄港地は、そんな惑星名でなかったか。


 私は廊下に掲げられていたインフォメーション・ボードを、泣き腫らした顔のまま見上げる。果たしてボードの上に躍る蛍光色の文字には、こうあった。


「次の寄港地 バレンシア 到着まであと二日と十四時間と四十五分」

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