第8話
小夜は重い表情を浮かべたまま、祈祷室を目指して歩を進めた。夕夜は何も言わずに彼女の後をついて行く。
二人とも慣れた様子で『洗浄』を済ませ、祈祷室の扉を開けた。二人は扉を跨がずに室内を見渡す。
時刻は11時を過ぎたあたりだが、空を覆う雪雲は厚く礼拝堂は薄暗かった。風が強めに拭いており、入り口から彼方に見える石像には、舞い上がる砂埃の隙間に、わずかに赤黒い部分が見受けられる。警察が来た時に備え、石像に残された血痕は消さずに残されたままとなっていた。
入り口から石像まで続く足跡は砂に埋もれつつあり、あと数時間で完全に消えてゆくだろう。入り口付近は足跡が集中するためか砂の乱れが激しく、足跡を判別することはできなかった。
他に足跡はなく、今朝以降だれも祈祷室の砂漠の中に足を踏み入れていないことは明らかであった。
「狩羽さん、居ませんね。食堂でしょうか」
中に人影が無いことを確認し、小夜は扉を閉じた。
二人は食堂まで降りる途中、狩羽の部屋に再度寄ったが不在であった。そして食堂に降りてきたが、やはりそこにも彼の姿は無かった。食堂は無人であったが、奥の厨房から水の流れる音が聞こえていた。
「どこに行っちゃったんでしょう? お父さんのアリバイを確認しながら、狩羽さんについても聞いてみましょうか」
小夜は食堂を横切り、彼女と同じ栗色の髪をした肖像画の下にある扉を開く。彼女に続き夕夜が入室すると、流しで入念に手を洗っていた野村が驚いたように顔を上げた。
「今、皆に話を聞いて回ってるの。一昨日の夕食以降から、どこで何をしてたか夕夜さんに話してあげて」
「そうかい。だが小夜、彼を振り回すのはあまり感心しないな」
「大丈夫。考え事してるけど体は暇だって言ってたから」
野村は顔色が悪く、急に老け込んでしまっていた。手を動かすのも億劫そうに、ゆっくりと水道の蛇口を閉じる。野村は思い出しながら話すように、慎重に自らの行動を振り返る。
「一昨日の夕食後、小夜と一緒に食堂の片づけと次の日の仕込みをしました。それが済んだ後は部屋に戻り、テレビを眺めておりました。就寝したのは、日付が変わった後だったと思います」
「ちなみに私も仕事が済んだ後は部屋に戻ってゴロゴロしてましたよ。10時くらいには寝ちゃったと思うけど」
二人の声を聞いているのか、夕夜は特に反応を示さず黙っている。野村は話しにくそうに続けた。
「朝は5時に起床しました。それから朝食の準備を整え、宗善様の部屋へお伺いしたのですが不在のようでしたので、礼拝堂に行きました」
「なんで礼拝堂に行ったんですか?」
夕夜が突然口を挟み、野村は驚いたようだ。彼は鼓動を静めるように胸に手を当てた。
「宗善様は早朝から礼拝堂に行かれることがありましたので。昨日もそうではないかと考えたのです」
「そうですか」
夕夜は質問したにも関わらず、あまり興味を示さなかった。
「礼拝堂で宗善様の遺体を発見したので、私は一度厨房に戻って小夜に女性たちを呼ぶように言い、自分は男性たちを呼びに行こうとしました。最初に秤様の部屋に行きまして、礼拝堂に向かって頂くように伝えました」
野村はその後、狩羽にも礼拝堂に行うように言い、夕夜の部屋にも訪れていた。ノックをするも返事がなく、もしや夕夜もと思い鍵の開いていた部屋を覗くと、彼はただ寝ているだけだった。入り口から呼びかけたが起きなかったため、野村は礼拝堂に行き集まった者たちに発見状況を説明しつつ、小夜に夕夜を起こしてくるように申しつけた。
そこで小夜が口を挟み、自らの行動を補足する。
「私は最初にエティアさんを起こして、一緒に葵様と奏様を礼拝堂にお連れしたの。礼拝堂の入り口で待ってたら、秤さんと狩羽さんが来て、ちょっとしたらお父さんが来ました。そこで夕夜さんを起こしてくるように言われたので、部屋に行った訳です」
その後、野村は休憩を挟みつつ厨房で食事の準備をしたり、館内の掃除を行っていた。そして昨晩は遊戯室で皆に給仕を行い、日付が変わった後も小夜と後かたづけをしており、就寝したのは2時を回ってからのことであった。
「以上ですが、何かありますか?」
「いや。特に何も」
話を切り上げようとする夕夜を、小夜が小突いた。
「大事なこと忘れてますよ。ねえ、狩羽さんを見てない?」
「いや、朝食の後はここには来てないよ。また礼拝堂に行ってらっしゃるんじゃないのかい」
「それが居なかったのよ。部屋も確認したんだけども空っぽ」
「そうか。万が一があるかもしれない。皆で探した方が良いかもしれないね。小夜、皆さんをここに呼んできてくれないか」
小夜は頷き、厨房を飛び出していった。夕夜はそれに続かず、野村と共に食堂で待つ。野村はそわそわと浮き足立っていた。夕夜は思考に集中しているのか、焦点の合わない目をしている。
しばらくすると、食堂に狩羽を除く全員が揃った。野村が彼らに事情を説明し、そのまま揃って狩羽を捜索することとなった。
五人で食堂を後にし、狩羽の名を呼びながら一階を回る。返事が得られないまま上階へと捜索を続けていくと、一行は礼拝堂に辿り着いてしまった。一枚目の扉をくぐり、全員で『洗浄』を受ける。
「開けます」
これまで二人人の遺体が発見された場所。得体の知れぬ不安感に包まれる中、野村が扉に手をかけた。
ゆっくりと扉が開かれる。礼拝堂の中は無風で砂嵐はなく、開いていく扉の隙間から反対側のガラスの壁の向こうが、雪の降り続く白く壁であることまで見渡すことができた。
皆が固唾をのんで見守る中、扉が開ききると野村は安堵したように息をもらした。
「誰もいないようです」
そこに狩羽の姿は無かった。もちろん、彼の死体も。
扉の可動域にあたる場所は、開閉により平らにならされていたが、室内の砂面には波打つような砂の文様が広がっている。規則的でありながら崩れがあり、しかし全体として見るとその崩れすら規則を持っているという、自然界だけが造り出せる秩序があった。そこには人が進入した形跡も、それを誤魔化そうとした形跡もない。残っているのは、今朝彼ら自身が入った時の足跡が砂に埋もれつつあるものだけである。
「もしかしたらどこかで入れ違いになってしまったのかも知れませんわ。もう一度戻りながら探しましょう」
最悪の事態を目の当たりにせずに済んだからか、緊張していた体から力を抜きながらエティアが提案する。一同は、彼女と同じように緊張を解きながらその言葉に頷いた。
「そろそろチャイムが鳴りますので、急いで閉めましょうか」
「そうだな。あれはうるさすぎて適わん」
秤は野村の言葉に応じ、二人は急いで扉を閉ざした。再び始まった『洗浄』の暴風の中、チャイムの音が密閉されている扉越しに漏れ聞こえてきた。秤はそそくさと出て行き、皆がそれに続く。
再び狩羽の名を呼びながら、階を下る。三階を過ぎた頃には、やはり何かあったのではと皆が不安を抱きだしていた。狩羽を呼ぶ声が、どこかヒステリックになっていく。
結局、彼を見つけられないまま一同は食堂にたどり着いてしまった。
「あいつは何で出てこないんだ!」
秤が大声を上げたが、誰もそれに答えることが出来ない。秤は椅子を乱暴に引くと、音を立てて座った。続いてエティアが静かに椅子に腰掛けると、それに習うように葵と野村も着席する。小夜は、部屋を出て行こうとしていた夕夜を引き留め無理矢理座らせると、監視するように彼の隣の席に着いた。
「もしかしたら、狩羽さんが犯人だったのかしら」
エティアが呟くと、視線が彼女に集まった。エティアは注がれる視線に余裕の笑みで応えつつ、だってそうでしょう、と言葉を続ける。
「これだけ大勢に呼ばれて出てこないなんて、見つかりたくないからじゃないかしら。今の状況でそこまで見つかりたくない理由なんて、一つしかないわよね」
長い足を組み、机についた肘に顔を乗せて、エティアは嬉しそうに話している。勝ち誇った様子の彼女に、小夜がおずおずと反論した。
「でも、隠れてたらそれこそ怪しまれるだけじゃないでしょうか? ここで居なくなったら自白しているようなものですし、そんなことするでしょうか? 他に何か声を出せない理由があるのかも」
「声を出せない理由ねえ。でも館内は全部見て回ったわよ。口を塞がれてたり、それこそ殺されていたとしても何も見つからないのはおかしいでしょう。きっと一緒に居たらその内ばれると思ったんじゃないかしら。貴方たち、何やら探偵みたいなことしてたんでしょ?」
「いえ、狩羽さんにはお会いできなかったんです」
「どこかで話を聞いてたのかもしれないわ。それでまずいと思って隠れてしまったのよ、きっと。焦って隠れたものの、今頃出てくるわけにもいかず追いつめられてるのかもしれないわ」
「そうでしょうか。狩羽さんが足跡とか一番調べてましたし、犯人だったらそんな事するでしょうか」
「逆よ。自分の都合の良いように調査とやらをして、嘘の情報を言ってたのよ」
「それはない」
エティアと小夜のやりとりに、夕夜が口を挟んだ。その声音や表情に感情は感じられないが、それ故に事実を断定している響きがあった。彼はその声と同じく、何の感情の籠もっていない目でエティアをまっすぐに見据えた。
「そこで偽の情報を述べれば、誰かが追認試験をしたときに致命的になる。それは危険過ぎるだろう」
「誰も確かめようなんてしないと考えたのでしょう」
「そんなリスクを取るくらいなら、最初から分からないと言っている方がマシだ。自ら危険を招くだけだろう。よって少なくとも、彼の言っていた足跡の調査結果は事実に基づいているはずだ」
「まあ、彼の言っていた事が真実であろうと嘘であろうと別に良いのですわ。私が言いたいのは、彼が犯人である可能性が濃厚であるということですから」
エティアは、一歩も譲らない夕夜の態度にわずかに気圧されているようだ。彼女は夕夜から視線を外し、一同を見回した。
「この吹雪では外には逃げられないでしょう。このまま館内を徘徊されたのでは薄気味悪くて夜も眠れませんわ。皆さんで力を併せて、彼を捕獲しましょう」
エティアの言葉に、秤が不安そうな声を上げる。
「捕まえられるなら越したことはないが、どうするんだ?」
「簡単です。昨日、外部からの侵入者がいるかも知れないと捜索した時のように半分に分かれ、片方は階段で待機し、もう片方がその階を回るのです」
「向こうだって必死だろう。返り討ちにされるかもしれないぞ」
「別に取り押さえる必要はありませんわ。発見したら大声で皆に知らせて人を集めれば良いのです。多勢に無勢、人が集まれば彼は逃げ出すでしょう。それを追いかければきっとどこかに逃げ込むはずです。後はそこから出られないようにしてしまえば、捕獲完了ですわ」
「本当にそんな上手く行くのか」
「何事にもリスクは付きものですわ。ですが殺人犯がうろうろしているような状況では単独行動なんてもっての外、自分の部屋に戻ることすらできません。ここで助けが来るまでずっと固まっているのも良いでしょうが、結構なストレスでしょうね」
彼女の言葉に秤はしばし考え込んでいたが、気合いを入れるように一声発し、顔を上げた。
「そうだな、奴を捕まえないとならんな。だが班分けは慎重にしないといかんだろう。特に探し回る方は遭遇する可能性が高い。若くて体力のある奴が行くべきじゃないか?」
秤は夕夜に向かってにやりと笑いかけるが、彼は無視した。野村が助け船を出すように手をあげた。
「私は捜索の方に回ります」
「料理は体力勝負というからな。野村は体力がある方だろう。そうだな、あと一人男手があれば捜索班は十分じゃないか? 多ければ良いってもんでもないしな。なあ、小僧?」
秤の言動には保身がありありと伺え、女性たちは彼に蔑んだ視線を送っている。秤は己の安全を確保することに必死の様子で、それに気づいていないようだ。
「好きにすればいい」
「そうか! じゃあ決まりだな。捜索は野村と小僧。他で階段を固めるぞ」
夕夜のどうでも良さそうな返事に、秤は膝を打って立ち上がった。
小夜は、何か武器になるものは無いかと野村に尋ねている秤を横目で睨みつつ、夕夜に耳打ちする。
「本当に狩羽さんが二人を殺したんでしょうか?」
「さあ。興味がないな」
「結構重要じゃありません? 下手したら夕夜さん、人殺しと追いかけっこですよ」
「どうだかな。どちらにせよ、階段で待機してようが迫って来られたら逃げ切る自信はない。もし彼が殺人者で、ここに居る全員を皆殺しにする気ならば、固まって行動しなければ全滅だろうな」
「やっぱり狩羽さんが!」
「仮定の話だ。他意はない」
「危険過ぎますよ。夕夜さん、運動は不得手でおられるようですし」
代わりましょうかと申し出る小夜に、彼は首を横に振った。秤はフライパンやら鍋を持ち出しているが、夕夜は何も手に取ろうとせず、黙して座っている。小夜は夕夜を心配そうに見つめ、残っていた金属製の柄の長いおたまを手渡す。
「せめて何か持ってた方が。剣道三倍段ですよ」
「重いからいらない」
「格好つけてる場合じゃありません」
若い男女がおたまを押しつけあっている姿は、このような状況でなければ微笑ましくもあったかもしれない。
「こう見えてこのおたま強いんですから。私、これで花瓶を粉砕したこともありますよ。お父様に怒られましたけど」
「お前が持つのも危険だな」
そう言って夕夜は、フライパンを握りしめ、緊張した面もちで立っている野村におたま渡した。野村は一瞬困った作り笑いを浮かべたが、小夜のように強引に持たせようとはせず、厨房に戻しに行った。小夜はその背中を、頬を膨らませて見送っている。
「さて、行くか」
野村が厨房から戻るのを待ち、秤が号令を出した。頭に鍋をかぶり、手にスコップを持った秤の姿は滑稽であったが、本人は至って真面目らしい。彼ははじめ包丁を手にとっていたのだが、誤って刺してしまえば逆に危ないと周囲から諭され、スコップに落ち着いたようだ。それは頑丈に作られている代物で、片手では重すぎて扱いきれない様子であったが。
それぞれ鍋蓋やトング、スコップやらを持ち、食堂を出る。
「私たちはここで待ちますわ。野村さん、神沼さん、お願いします。何かあったら大声を出して下さいな」
厨房の扉の前、階段の見える場所に陣取り、エティアが二人を促した。野村は周囲を警戒しながら足を進めているが、その隣を歩く夕夜は普段通りの様子だ。
二人は遊戯室、使用人部屋、厨房、食堂を順に見ていくが、狩羽はどこにも居なかった。それぞれの部屋の窓から外を伺うが、積もった雪に埋もれており、誰かが外に出た様子はない。
続いて入り口の『洗浄』スペースを確認したが、そこにも人影はなかった。風が止まるのを待ち、外へ通ずる扉を開く。
玄関の周囲には、夕夜の目線よりも高く雪が積もっていた。野村と夕夜は外気に体を震わせながら辺りを確認するが、そこには足跡はおろか雪をかき分けた形跡もなかった。二人は肩に雪を積もらせながら、エティアらと合流した。
小夜は不安そうな視線を夕夜に向けているが、彼はそれに気づいていないようだ。誰に言われるでもなく、夕夜が先頭に立って階段を登る。
狭い螺旋階段を一列になって登り、二階に到着すると夕夜と野村以外は階段付近に残り、手分けして階段の上下と左右の廊下の見張りについた。
夕夜と野村は、夕夜の部屋から順に時計回りに調べていき、また各部屋の窓から見える雪面に足跡などの痕跡が無い事もあわせて確認していった。夕夜らは狩羽の部屋も隅々まで調べたが、彼の消息を示す情報は無かった。
野村は緊張しているのか、一言も発さない。夕夜は元より会話をする気が無いようで、捜索は無言のまま淡々と進んでいく。
上の階へと捜索を続けるが、どこにも狩羽の姿はない。そして再び、一同は礼拝堂まで戻って来てしまった。
一枚目の扉をくぐり、全員で『洗浄』を受ける。荒れ狂う風になぶられている最中、今にも二枚目の扉が開くのではないかと誰もが警戒し身構えていたが、結局目の前の扉は開くことなく風が収まる。
「皆さん、扉が開かないように押さえていて下さいませ」
エティアの声に従い、他の者たちは扉を内側から押さえつける。中から開けられないようにしたところで、エティアは扉の脇のガラスの壁から室内をのぞき込む。透明なガラス越しに見える砂漠の砂はわずかに風にそよいでいる程度で、視界は良好であった。内部に人が居れば見逃すことはないだろう。
ガラスに顔をつけ静かに視線を動かしていたエティアは突然、腰を抜かしたように倒れると、ひきつった表情を浮かべて扉を指さした。
「そ、そこに!」
彼女の反応を見て、扉を押さえる者たちの腕に力が籠もる。
秤がそこにいるのか、と聞き返したが、エティアはよほどの衝撃を受けたのか目を見開いて体を震わせており、泡を吹いて倒れそうな状態だ。
「と、扉の裏に、くび、首!」
エティアはようやく言葉を取り戻し、自らの目撃した不可解な状況を伝える。
「扉の、裏に。狩羽さんの、首が。首だけが、ありますわ」
彼女は言葉の途中で何度も唾を飲み下しながら、途切れ途切れに語る。その表情が驚愕から恐怖に変化していく。
「首だけなのです。首だけが地面に置かれていて、胴体は見あたらないのです」
犯人を除き、彼女の言葉の意味を瞬時に理解できた者はいただろうか。予想もしていなかった状況を告げられ、秤は混乱した様子でエティアに詰め寄った。
「お前は一体、何を言ってるんだ! もっと分かるように説明しろ!」
秤が怒鳴ると、エティア却って平静を取り戻したようだ。秤を見つめ、突き放したように応える。
「ご自身でご覧になれば良いでしょう。扉を開けて下さいな。危険はありませんわ。ただ、奏ちゃんと小夜ちゃんは一旦後ろを向いていた方が良いわよ」
そう言われるが、秤は扉を開けようとはしない。動かない秤の体を、夕夜が退け、扉に手をかける。エティアは急いで立ち上がると、戸惑ったまま固まっている奏と小夜の手を強引に引き、二人を胸に抱き寄せた。
礼拝堂の扉が開かれる。視界にまず飛び込んでくるのは、一面の砂漠。先ほど訪れた際に残っていた足跡は全て消えており、砂に描かれた高価な絨毯のような美しい幾何学模様が一糸乱れず礼拝堂の床を覆ってた。その風景を捕らえる視界の隅、扉を開けたその足下に、非現実的なものがある。
「こ、これは、一体」
野村が体を仰け反らせながら、口の中で呟いた。秤は声も出さず、口を大きく開いて立ち尽くした。
夕夜は眉一つ動かさずにその非現実的なもの、忽然と砂漠に生えたように存在している狩羽の生首を見つめた。砂漠の風紋という自然が造り上げた、人の手が介入していない景色。そこに覇王樹の苗木の如く生えている人間の首。その光景はあまりにも日常から乖離しており、これが現実であるとは受け入れ難い状況であった。
首だけの狩羽は、空気を求めるように顎が外れるほどに口を開き、大きく見開かれた瞳は濁っていた。その苦悶の表情が、彼の死に際の壮絶さを想像させる。咥内には大量砂が入り込んでおり、開いた口には赤黒く変色した舌が砂に埋もれながら僅かに覗いていた。砂粒は髪や睫にもからみ、その頭部が砂の下にあったことを感じさせる。砂から露出している首には、細いひも状のものが巻きつけられた跡が、青黒く浮かんでいた。
「前にここに来た時、ちょうど正午のチャイムが鳴り出した時には、絶対にこんなモノはありませんでしたわ。そうでしょう?」
誰にともなく問いかけるエティアの言葉に、夕夜だけが首肯して応じる。
「一体何があるの?」
エティアの胸に抱かれていた奏が顔を上げた。尋常でない事態が起きていることを察したようだ。彼女の顔は青ざめ、振り向くことに強い恐怖を抱いていることが伺える。同じくエティアに抱かれている小夜も顔面を蒼白にしていた。
「狩羽さんの、首ですわ。かなり苦しんで亡くなったようですから、見るのなら覚悟して下さいませ」
エティアの言葉に、奏と小夜は驚いた表情を見せた。だが居合わせている者たちが発する暗鬱とした空気を感じて覚悟していたのか、取り乱すことは無かった。
小夜は一度きつく目を閉じてから、意を決したように振り向いた。そして体を硬直させ、微動だにしない。彼女は瞬きすら忘れ、茫然自失となっている。
小夜に続いて体を反転させた奏は、直ぐに口を押さえてうずくまった。その背中をエティアが優しく撫でる。
「こんな馬鹿なことがあるか! 俺たちは全員一緒に居たんだぞ! どうやったら狩羽を殺して、しかもこんな事ができるんだよ!」
秤の言葉に説明を返すことのできる者はいない。秤自身、回答があるとは思っていないだろう。彼は小刻みに震え、ひどく怯えていた。
「スコップを貸してくれ」
皆が思考停止に陥っている中、夕夜はそう言って秤の足下からスコップを拾うと、扉の直ぐ内側にある生首の周辺を掘り起こし始めた。皆の訝しげな視線を背に受けながら、彼は淡々と砂を掘る。
「まさか、そこにあるのは狩羽さんの首だけではなくて……」
スコップが砂を掘る音が響く中、野村が驚愕の声を上げた。夕夜が掘り進める内に、狩羽の肩や胴が露わになっていく。彼は首から下を埋められていたのであった。
狩羽が行方不明であることに気づいたのは、夕夜と小夜が聞き込みを開始した時である。その後全員で捜索し、正午時のチャイムが鳴り響く直前に礼拝堂を確認した時には、狩羽の首は無かった。それ以降、全員は固まって行動し、今再び訪れた礼拝堂には生首が出現していた。ここに居る誰一人として、この状況を造り上げる機会は無かった。
もし目の前にあるのが首だけであれば、隠して持ち込むなどの手法が可能であるのかもしれない。しかし、狩羽は首から下が埋められている。衆人環視の中で狩羽の体を抱えて移動し、かつ誰も気づかない早業で首から下を砂に埋める。そんな芸当は不可能であろう。
部外者の関与については、狩羽捜索時に完全に否定されている。館の内部には潜んでいた者はなく、また外部からの侵入や逃亡の痕跡も残されていなかった。
「これは、不可能犯罪ですわ」
皆の心を代弁するように、エティアがかすれた声で囁く。その小さな声は礼拝堂に吹くそよ風に霧散したが、佇む者たちの心に毒牙の如く突き刺さった。
夕夜が狩羽の死体を掘り起こすのに要した時間は半刻ほど。その間、他の者たちは凍りついたように動かず、砂漠から死者が掘り起こされるのを呆然と眺めていた。夕夜は穴の縁に寄りかかる死体の脇を抱えて引きずり出すと、砂に横たえた。
狩羽であったその物体は、気をつけの姿勢のまま固く硬直していた。その右手は爪が手の平に食い込むほどに強く握られたままであった。夕夜はその手を開こうとするが、いまわの際に渾身の力が込められたのか開けることができない。
彼は奏の足下に落ちているトングを手に取ると、狩羽の指の間にその先端を入れて無理矢理こじ開けた。死体の指が傷つき、弾力を失った皮膚が破れて筋繊維が覗き、一部では骨が露出する。死亡して時間が経っているためか、血液の流出はわずかであったが、トングの先端は赤黒く汚れていった。それを見ていた者たちはうめき声を上げ、奏と小夜は口に手を当てている。
夕夜は遺体を傷つける行為に何も感じていないのか、固まった五指を一本ずつ曲げていった。それは生者の手のようには開かず、それぞれの指がバラバラの方向に曲がる。なまじ人間の手のとして認識されるが故、できあがった惨状はグロテスクであった。
夕夜は額に流れる汗も拭わず、狩羽の握りしめていた物体を手に取った。それは銀色の光沢を放っており、楕円形の、大きさの異なる二枚の金属板が短い棒で繋がれ折りたたまれている。小さな金属板にはレンズがはめ込まれていた。
「それはなんですか?」
夕夜の行為を顔をしかめながら見つめていた小夜が問いかけると、彼は短く、ルーペだ、と答えた。
「ルーペ? 虫眼鏡みたいな物ですか」
「概ね当たっている。虫眼鏡はレンズを動かしてピントを合わせるが、これは対象を動かしてピントを合わせる。岩石に含まれる結晶を観察する時などに地質学者が用いるものだ」
小夜は、なんでそんな物がと首を傾げる。夕夜は肩をすくめ、両手を挙げた。
「さあな。よほど大切にしていた品だったか、何かのメッセージか。あるいは偶然持っていただけか」
夕夜はどうでも良さそうに告げると、ルーペを懐に仕舞った。彼は軽く黙祷を捧げて立ち上がると、右手をかばうような仕草をしながら部屋を出ていく。他の者たちは顔を見合わせたが、ここに残る意味は無いと判断したのか彼の後に続いた。
何事も無かったかのように階段を降りていく夕夜を追いかけ、小夜が声をかける。
「夕夜さん。その手、手当した方が良いですよ」
小夜が示す夕夜の右手には、先ほどトングの先端が当たったのか、短い傷が数条刻まれていた。傷口が痛むのか、彼は奥歯を強くかみしめている。
「自分でやるからいい」
「消毒とかあるんですか? 食堂に行きましょう。私の部屋に救急縛がありますから」
小夜は彼の背を押すように、食堂へと導いていく。夕夜は迷惑そうな顔をしているが、先ほどの肉体労働で体力を使い果たしたのか、反抗する気力もないようだ。
食堂に到着し、夕夜は小夜に促されながら椅子にどさりと座る。彼は疲れたように机に肘をついた。
他の者たちも食堂に入り、それぞれが適当な椅子に腰を下ろした。これまでのように固まって座るのではなく、お互いが距離を取った場所を選んでいる。
救急箱を手にした小夜が、夕夜の世話を焼いているが、他の者達に会話が生まれることはなかった。
夕夜の手当を終えた小夜は彼の隣に座る。彼女は話をしたそうにしているが、場の重苦しさに気押されたのか口をつぐんだ。夕夜は腕を組んだまま目を閉じている。
野村は小夜を心配そうに見つめているが、声をかけることはしなかった。
秤が貧乏揺すりを始めると、それが気に障ったのか下を向いて考え事をしていたエティアが彼を睨んだ。その視線に気づき、秤は彼女を睨み返す。二人が口を開こうとした時、奏が椅子を蹴って立ち上がった。
「小夜! あんたがやったんでしょ! お父様とお姉ちゃんを殺して、次は私って訳?」
奏は小夜に指を突きつけ、ヒステリックな声をあげた。
小夜は驚いたように目を丸くし、他の者達も突然の大声に驚いた様子で奏と小夜を交互に見る。夕夜だけは目を閉じたまま微動だにしていなかったが。
「アリバイなんて嗅ぎ回って、私は犯人じゃありませんアピール? 私は騙されない!」
「違います。私は犯人じゃありません」
「嘘よ! 私たちを殺してお父様の財産をかすめ取るつもりなんでしょ!」
小夜に掴みかかろうとする奏を野村が止める。秤とエティアも駆けつけ、腕を激しく振り回して暴れる奏を押さえつけた。小夜は椅子に座ったまま震えており、その隣に座る夕夜は顔をしかめて目を開けた。
「そんな怪しい男に取り入って何するつもり? そいつに私を襲わせようとでもしてるんでしょ!」
三人がかりで拘束されながらも、奏は歯を剥き喚いている。狂犬のごとく正気を失った彼女を、夕夜は冷めた目で見た後、おもむろに口を開く。
「警察」
短く告げられた夕夜の言葉に、水を打ったように狂乱が静まった。警察という単語に、皆の思考が現実に引き戻されたようだ。
「警察に連絡はしたのか? 何時になったら来るんだ」
「今、確認して参ります!」
野村は電話へと駆けて行った。それを見送りながら、夕夜は奏に問いかける。
「電話はどこにあるんだ?」
「え? の、野村の部屋に」
激高していたところを急に現実に引き戻され、奏は混乱しているようだ。突然声をかけられた奏は、彼の問いに反射的に答えた。
「他には無いのか」
「あと、お父様の部屋に」
「そうか。もう離してやっていいんじゃないか」
夕夜は未だ奏を押さえているエティアと秤に声をかけた。二人は慌てて奏から手を離す。何度も詫びる二人に対し、奏も恥入るように俯きながら謝っている。その姿を見て小夜は胸をなで下ろすと、夕夜に小さく礼を述べた。
気まずい時間が流れ、しばらくすると野村が戻ってきた。彼の顔は蒼白なままであったが、興奮した声で報告する。
「雪は止んで、天候は回復しつつあるようです! 警察は明日の昼過ぎには到着できるだろうとのことでした!」
それを聞き、誰からともなく安堵のため息がもれる。奏は小夜に歩みよると、その肩に手をおいて失言を詫びた。まだ完全に疑いは晴れていない様子だが、平静は取り戻したようだ。
小夜と野村が飲み物を用意し、明後日までの過ごし方について話し合いが始まった。そこで基本的に全員が食堂で過ごすことが決まり、どこかへ行く時には最低三人で行動すること、睡眠は三人ずつ交代でとることが決められた。夕夜が喫煙について訪ねると、全会一致で彼の禁煙が決まった。
「皆さん自分の部屋から取ってきたい物もありますわよね。一度部屋を回りませんか?」
エティアの提案により全員でそれぞれの部屋を周り、寝具など必要な物を食堂に持ち込むこととなった。
まず四階にある奏の部屋へ行き、下の階へと降りながら、エティアと秤の部屋を回る。奏と秤は上着を取ってきた程度だったが、エティアは小物ポーチや大量の文庫本など大荷物を持って部屋から出てきた。エティアはその荷物を野村に持たせ、まるで彼を自分の使用人とでも思っているような態度であった。
続いて一同は夕夜の部屋を訪れる。彼が室内に入ると、当然のように小夜が付いてきた。夕夜は分かっているとばかりに、諦めた表情で荷造りに着手した。
ベッドに広がっている文献を数冊手に取り、ページが開いたまま重ねて机に置き、そこに上着を被せる。夕夜の準備はそれだけで整ったが、バルコニーへ向かった。彼はそこで、しばしの別れとなる煙草をゆっくり楽もうととしたようだが、小夜に急かされ一本吸っただけでで連れ戻される。
「やっぱりタバコに行きましたね、ついて来て正解でした」
「どうせ下に戻ったところで時間を持て余すだけだ。もう少し吸ったところで大差ない」
「ダメです。皆さんが待ってるんですから、準備ができたんだったらさっさと出ますよ」
「まだ終わってない」
「喫煙は準備に入りません」
小夜はそう言うと、机の上に載っている文献を夕夜に無理矢理持たせ、そこに彼のコートを重ねた。夕夜は小夜に背を押されて部屋を出る。彼女が扉を閉める間、夕夜は部屋の外から名残惜しげに灰皿を見つめていた。
食堂に戻ると野村と小夜以外は持っていた荷物を一度置き、小夜の部屋へ向かう。小夜は首にファーのあしらわれた白いダッフルコートを手に掛け、分厚い文庫本を一冊手にして部屋から出てくる。野村は特に荷物はないと辞退したため、食堂での籠城が始まった。
始めはわずかとはいえ会話が交わされていたが、数時間が過ぎ、日が暮れる頃には皆が押し黙り、それぞれの思考に没頭していた。
夕夜は椅子に深く背を預け、目を閉じている。瞼の奥で眼球が激しく動いていた。
小夜は彼の横で首を傾けたまま眉を寄せていた。野村は小夜の隣に座り、普段は館内の維持に奔走しているからか、何もしない時間を持て余して居る様子で手持ちぶさたに室内を見回している。
秤は小夜の斜め向かいに腰掛けており、親指の爪を噛みながら追いつめられた顔で何かをぶつぶつと呟いていた。その目は血走り、よほどせっぱ詰まった事があるようだ。
エティアは秤から椅子を三つ挟んだ場所に座っており、本を開いていた。しかし本のページは先ほどから進んでおらず、別の事を考えているのは明白であった。その隣には奏がおり、コートを肩にかけて俯いたまま動かない。
そこで椅子を引く音がした。普段であれば誰も気にしなかったであろう微かな音だが、この時ばかりは場の視線が一斉に集まる。
「食事のご用意をいたします。小夜と、他にどなたか一人ご一緒に来ていただけませんか」
野村は申し訳なさそうに願い出たが、誰からも返事がない。しばし沈黙が続いた後、小夜が夕夜の腕を引きながら立ち上がった。
「夕夜さん、一緒に来て下さい」
「いやだ」
「良いじゃないですか。ここに居ても厨房に居ても考え事はできますよ」
なおも目で拒絶の意志を示している夕夜を、小夜は無理矢理立たせる。彼女は夕夜の座っていた椅子を持った。
「隅で座ってれば大丈夫ですから。ほら、行きましょう」
夕夜はしぶしぶといった様子で、小夜に従った。彼女が運ぼうとしていた椅子を引き受け、厨房へと進んでいく。小夜は横にならんで歩きながら、夕夜の耳元に囁く。
「椅子、ありがとうございます。好感度アップですよ」
夕夜はその言葉を黙殺し、厨房の片隅に椅子を降ろして腰掛けた。先ほど同じ体勢をとり、目を閉じる。
「調理等は私たちが全てやりますから、神沼様は座っていてください」
野村は輝くように白いが、小さな皺がよりどこか草臥れた上着を羽織る。次いで黒いエプロンを腰に巻き、己を鼓舞するように両手を打ち合わせた。
夕夜は閉じていた目を開くと、お願いします、と一言答えて再び思考し戻っていった。
野村は彼の様子にわずかに頬を緩めると、食材の下処理を始めた。
調理は野村が全て行い、小夜は彼が使用する食材や調理器具、食器を取り出すという役割分担のようだ。野村が鮮やかな手つきで野菜を刻むと、小夜がすかさずボールを彼の手元に置く。彼が包丁を置くと、小夜がその料理に適した鍋をコンロにセットし、使い終えたボール等を洗っていく。二人の息はぴったりと合っており、瞬く間に数品が出来上がった。
野村がメインディッシュを拵えていると、遠くから電話の呼び出し音が聞こえてきた。野村は調理の手を休めると、厨房の片隅にいる夕夜を振り返る。
「電話がかかってきたようです。警察かも知れませんので、一緒に来ていただけますか」
夕夜は文句も言わずに、分かりました、と立ち上がる。小夜は私の時と対応が違うと口を尖らせた。
厨房を出ると、受話器の設えられている野村の部屋へと早足で向かう。野村が受話器を手にした時、すでに十コールほど経過していたが、まだ電話相手は諦めていなかったようだ。
「どちら様でしょうか。ええ、はい。はい、ここにいらっしゃいます。かしこまりました」
野村は受話器を耳から離すと、夕夜に渡した。
「大学の指導教官の方からです。神沼様にお話があるとのことです」
「ありがとうございます」
夕夜は顔をしかめ、明らかに嫌そうな顔で電話に出た。
「なんですか、コトリ先生」
『よお、元気か? まだ生きてたんだな』
受話器越しに聞こえてきた指導教官の声は上機嫌だった。彼女の楽しそうな声を聞き、夕夜の表情はさらに歪む。
「ええ。お陰様で。もう切ります」
『おいおい。せっかく心配してかけてやったのに随分だな。嫌なことでもあったのか?』
「はい、現在進行形で。こっちは報告することもないんで、用がないなら切りますよ」
『報告することがない? 雪山に閉じこめられてて良く言えるな。厄介事に巻き込まれてるんだろう。どんなもんか話してみろ』
夕夜がこれまでの経緯を話すと、コトリは突然怒り出した。
『あほか! そんなものさっさと犯人を縛って雪の中にでも転がしておけば良いだけだろ』
その言葉に夕夜は言い淀む。彼の隣には小夜がぴたりと立ち、受話器の声に耳をすましながら首を傾げている。夕夜は彼女の顔をちらりと見る。
「興味が無いので」
夕夜の言葉の真意を見抜こうとするような沈黙が、受話器越しに降りる。やがて電話口から、せせら笑う声が流れた。
『どうせまだ犯人が分かってないだけだろ。負け惜しみは辞めろ、見苦しいぞ。そうだな、指導教官として教え子にヒントの一つでもやろうか?』
「犯人を突き止めようなんて考えてもいません。そんな事に時間を使う余裕はありませんから」
『当たり前だ。こんなつまらん事、真剣に考えるまでもない。片手間に並列思考するだけで分かれ。ヒントは』
「助言は不要です」
夕夜は体が接触しそうなほどに近づいている小夜を面倒そうに見つつ、コトリの言葉を遮った。
『そうか、なるほどな。ではこうしよう。解決して帰って来なかったら単位は出さん』
「はあ? パワハラですよ」
『何がパワハラだ。この程度の問題も解けないようでは、お前の知識レベルが修士号を出すに値しないというだけだろ。己の無知を恥じろ』
「じゃあヒントを下さい」
『やらん。自分で何とかしろ』
まるで台本があるかのような掛け合いは、二人の普段の関係が気の置けないものであることを表している。夕夜は電話越しにも聞こえるほど、大げさなため息を漏らした。
「そもそも、俺は何でここに来させられたんですかね?」
それは遠回しにコトリへの抗議を含んでいたが、彼女はそれに気づかなかったかのように答える。
『もちろん、指導の一貫だよ。夕夜、世の中で最も面白いことは何だと思う?』
「さあ? 人によるんじゃないですか」
『細分化して見ればそうだろうな。だが、その根本は同じなのさ。人間の精神なんてものは脳内で造り上げられる錯覚に過ぎない。そこに個人のオリジナリティがあるなんてのもまた、だたの錯覚だ。同じ物質から成り、同様の構造を有し、普遍的な物理法則に支配されている。そこに大した差異なんて生じる道理がない』
「そうかも知れませんね。関係なさそうなんで切ります」
『待て待て。これはどうでも良い殺人事件の話じゃないぞ。研究についての話だ。一般論ではなく、普遍論だよ』
夕夜の受話器を持つ手に力が籠もる。苦々りきっていた表情が引き締まり、その瞳は真剣な輝きを帯びた。
夕夜の興味を引きつけたことを感じたのか、コトリは一拍おいて言葉を続けた。
『人間が最も強い快楽を覚えること、それは他人や世界の事象、つまりは外界を思い通りに動かすことだ。全てはそこから派生した枝葉に過ぎない。金を求めるのも希少品を求めるのも、聖人が正しい行いをするのも、全て他人を思い通りに賞賛させるためだ。文明を発展させたのは、自身を取り巻く環境を思い通りに統べるためだ。人の欲望とは須く、自己という系の外にある事物を自由にコントロールすることに帰結される』
夕夜は口を挟むことなく、コトリの話を傾聴している。その隣で小夜は、興味が失せたように身を離した。
『人の心が斯様に形成されるのは何故か。脳というハードが外界を支配する法則に従って造り上げられることから、そこでなされる生理化学的現象、すなわち心と呼ばれる物は、人が意識することすらできない次元で物理法則に根付いている』
コトリはそこで言葉を切ると、小さく笑った。講義じみていた口調から、普段の維持の悪い調子に戻る。
『だからな、夕夜。お前は様々な欲望というサンプルを解析し、その根源について考察しろ。私がなぜお前をそこに行かせたのか、自分で考えるんだな』
「つまり、ただ面白そうだからここに来るのを押し付けたってことですね。分かりました。このダメ人間」
『私は何が面白そうだと思ったのか、それを考えろってことだ。さっきは解決しないと落第だと言ったが、犯人なんぞどうても良いのは私も同じだからな。面白いみやげ話をもって来ればそれでいいことにしよう。ま、今の状況だけでも十分面白いからな。戻って話しにくれば単位をやるよ』
彼女の言葉は、夕夜に生きて帰ってこいという励ましのようだが、夕夜はそれに感じ入った様子もない。別れの言葉も交わさずに電話を切った。
夕夜は野村に礼を言い、部屋を出る。野村と小夜も彼に続き厨房に戻ると、中断していた食事の準備が再開された。夕夜は厨房の隅に座っているだけだったが。
「夕夜さん、さっき電話していたのは女性の方ですか?」
小夜は出来上がった料理を皿に移しながら、夕夜に問いかけた。彼女の心の乱れを表しているのか、盛りつけはどこか荒っぽくなっている。
「そうだが、何か?」
「いえ、別に。何かヒントがどうとか言ってましたけど、聞かなかったんですか?」
「興味が無いからな」
小夜は手を止めて夕夜を見る。彼はこれまでと変わらず、ひたすら何かを考えている様子しかない。そこには危機感や自らが死ぬかも知れないといった恐怖は微塵も現れていなかった。
小夜は何も言わず、盛りつけの終わった品を食堂へと運び始める。その小さな手でどうやって支えているのか両手で六枚の皿を一度に持つと、足を踏みならしながら厨房から出て行った。
暖かな湯気を放つ皿が並べられた机に一同が会し、夕食を摂る。穏やかとは言い難い空気の中、いつのまに心を通わせたのか、奏とエティアが話す声だけが聞こえていた。ほぼエティアが語り、奏はそれに熱心に相づちを打っている。
秤はそれを恨めしい目つきで横目に見つつ、荒々しく料理をかき込んでいた。
彼らの様子に、野村と小夜は目を見合わせたが、どちらも首を横に振りあきらめたように食事を再開する。
夕夜は周囲の一切に構わず、マイペースに料理を口にしていた。
その頃、館の外ではこれまで降り続いていた雪が止んでいた。野村が電話で受けた通り、明日中には救助が到着するだろう。何人が生きて館を後にできるのだろうか。
明朝、衆人環視の下で新たな殺人が行われる。次の被害者は――。
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