第6話
「ここがコレクションルームです。あれ、どうしました?」
小夜は、三階まで彼を引っ張られるようにして上がって来た。疲れた様子も無い彼女の隣で、夕夜は膝に手をついて激しく息をついている。今にも座り込みそうになりながら、荒い呼吸の合間で途切れとぎれに声を絞り出す。
「なんで、そんなに急ぐ、必要が、あるんだ?」
「え? 別に普通ですけど」
夕夜は普段から一日中ディスプレイに向かって座り、上階への移動には、それがたとえ一階分であろうとエレベーターを使用していた。三階分の螺旋階段を昇るだけで、既に彼の体力は既に限界に達しているようだ。
「ほらほら、早く入りましょう!」
彼女は自慢のおもちゃを披露する子どもの様に、無邪気な笑顔を浮かべている。小夜はまだ呼吸の整っていない彼の両手を引き、強引に立たせた。恨みがましい目を向ける夕夜を無視し、扉を開ける。
「どうです! 凄いでしょう!」
彼女は腰に手を当てて胸を張る。夕夜には顔を上げる余裕すら無いようで、再び膝を折っていた。
室内にはショーケースが並び、その中にはきらびやかに装飾された腕時計や歴史を感じさせる美しい木目の壁掛け時計などがディスプレイされている。一点の曇りも無いガラスの内側で、高価な時計がその精巧な美しさを競いあっていた。
未だに膝に手を突き、床の赤いビロードを見つめたまま肩で息をしている夕夜に、小夜はあきれたように嘆息した。
「もう、若い人がだらしないですよ」
小夜がしばらく夕夜の背をさすっていると、背後から声が掛かった。
「お二人さん、逢い引きかい? 邪魔者が居て申し訳ないなあ」
秤が下世話な笑みを浮かべながら二人に近づいてくる。小夜は慌てて姿勢を正した。
「秤さん、また観にいらっしゃったんですか。本当に時計がお好きなんですね」
小夜は慌てて姿勢を正し、メイド然とした様子を取り繕った。
「俺みたいに価値の分かる人間にとってはさ、ここは銀行の金庫よりも魅力的なんだよ。まさに金銀財宝の詰まった宝物庫さ」
秤は大仰に室内を示す。夕夜は顔に脂汗を浮かべながら、ようやく身を起こした。彼も秤に習い室内に展示された時計を見渡すが、特に何も感じた風でもない。
「そこの坊ちゃんにはまだ分からんだろうな。君はまだ若い。ここにある時計を全て買おうとすれば、数億は軽くいくんだよ。俺ぐらい収入が無いと、そもそも本物に触れる機会も無いだろうから、それを見る目も育てられないだろうけどね」
コレクションを見ても眉一つ動かさない夕夜を、秤は突き出した腹をゆすりながらあざ笑った。それに対しても夕夜は無表情を貫いている。
「で、二人揃ってどうしたんだい? ここでデートするには、彼はちょっとお子様過ぎるんじゃないかなあ。俺で良かったらいくらでもつき合うよ、小夜ちゃん」
「嬉しいお誘いですが、それはまたの機会にお願いします。今は夕夜さんに館内をご案内している所なので。では、次に行きましょうか。失礼します」
さりげなく背中に触れようと伸びてくる秤に手をタイミング良く避け、小夜はきびすを返した。
夕夜はどこまでも興味無さそうにしているが、そんな彼をさっさと連れ出して扉を出た。
「危なかったですね。秤さんに捕まると、なんて言うか、身の危険を感じるんですよね」
後ろ手に扉を閉め、彼女は小声で呟く。それに答えることなく、夕夜は階段を降りようと一人歩いて行くが、その背を小夜に捕まれる。
「待って下さい。次はこっちですよ」
もはや疲れ果てたように力なく振り返る彼に、小夜は上と続く階段を示した。めんどくさそうな表情を隠していない夕夜を、彼女は後ろから押して昇らせる。
「ほらほら、きびきび歩きましょう。そろそろ時間ですから」
「時間?」
「行けば分かりますよ。次は祈祷室です」
「もう行ったからいい」
「良いからいいから。若い人は体を動かさないと」
夕夜は諦めたように気だるげに階段を昇る。その途中、狩羽が階段を降りてきた。
「おや。二人とも、仲が良いですね」
ちょうど階上から降りてきた彼に、夕夜と小夜は半身になって道を譲る。
「狩羽さんは祈祷室に行ってらしたんですか?」
すれ違いながら、彼女が狩羽に訪ねる。ええ、と狩羽はにこやかに答えた。
「現場検証というやつですか?」
「いえ、今回は研究の方です。砂を構成している石英結晶の様子を確認にんしていました。やはり僕の実験に非常に適した環境ですね。粒径も揃っていそうですし、良く磨かれているものの、人工物のように画一的ではない。是非サンプリングして行きたいのですが、宜しいでしょうか?」
「はあ。いえ、後で葵様に確認しておきます」
小夜は理解できなかったのか生返事を返すが、狩羽はそれに構わず上機嫌のようだ。
夕夜は、鼻歌を歌いながら階段を降りて行く彼をうらやましそうに見送っていた。
「えーと。よく分からなかったんですけど、とにかく行きましょうか」
彼女は気を取り直し、再び夕夜の背中を押す。
五階に着くと、小夜に急かされながら『洗浄』を受け、促されるまま重たい扉を開く。
「うわー。狩羽さん達、こんなにいっぱい足跡の深さ測ったんですね」
今は僅かに風がそよいでいるが、砂塵を巻き上げるほどではない。朝の時点では足跡の少なかった砂漠は今や踏み荒らされ、扉から石像まで多くの足跡と膝をついた跡が残っていた。狩羽が広い室内の所々で砂を観察するために、方々に向かって歩き回り、調べた足跡が残されている。
だがそれは入り口から石像までの範囲に限られ、部屋の大部分はさざ波のような風紋が美しく広がっていた。
「なるほど」
「どうしたんですか?」
「いや、彼の仕事ぶりに感心しただけだ」
「どんな所にですか?」
夕夜はその問いには答えなかった。小夜は唇を尖らせ、非難するような視線を送るが、彼は気づいていないようだ。
彼女が尖らせた唇を開きかけた時、室内に突如として耳を塞ぐほどの爆音が響いた。
暴力的なその音は何かのメロディーを奏でているようだが、皮膚に空気の振動を感じるほどの大音量のため、最早音楽として捉えることができない。足下の砂漠、その表層の砂粒も振動でわずかに跳ね上がっている。
これまで無表情であった夕夜も反射的にきつく目を閉じ、両耳を塞いだ。小夜はそんな彼の袖を掴み、入り口へと引いた。
「出ましょう!」
彼女は大声を上げているが、鳴り響く音に完全にかき消されてしまっている。
二人はふらふらと、揺れる地面を歩くように出口に向かう。必死の形相で祈祷室を後にすると、階段の手前で大きく息をついた。
小夜はいたずらが成功したといった様子で、嬉しそうにしている。夕夜は苦々しい表情を浮かべ、未だ片手で耳を押さえている。
「どうです、凄かったでしょう?」
「あれは、なんなんだ?」
「何ですかー? 聞こえませーん」
まだ耳が慣れていないのか、お互いの声が聞き取れていないようだ。しばらくした後、夕夜は再度訊ねた。
「一体なんだったんだ?」
「お昼と夜中の十二時、日に二回ああやって音楽が鳴るんです。これも何のためにやってるのか、ご主人様しか分からないんですけどね」
凄かったでしょう、と小夜はにこにこしている。それに対し、夕夜は頬をひきつらせていた。
「そうだな。二度とごめんだ。こんな事のために急かしてたのか?」
眉をつり上げ、初めて感情を露わにする彼に、小夜は両手突き出して激しくを振り、取り繕ろうように言葉を並べる。
「その、やっぱり、通過儀礼と言いますか。初めてこの館にいらっしゃる皆さん、これで驚いて下さるので、つい」
「そうか。もう十分堪能しただろ。部屋に戻らせて貰う」
言うや否や小夜に背を向け、心なしか肩を怒らせて歩き出す。小夜はそれを追いかけ、隣に並んで歩きながらで彼に詫びた。子犬のように萎れる彼女を一瞥したが、夕夜は何も答えず黙々と階段を降りていく。
館の中心に座す大砂時計の回りを、巡る螺旋階段。大股で下る夕夜の一段後ろを、うなだれて続いていく小夜。白熱灯に照らされ、二人の姿が砂の満たされたガラスに写り込んでいた。
踏み板が軋む音が響く中、そこに誰かが階段を昇ってくる小さな足音が混じった。夕夜が歩みを緩めると、下から現れたのは葵であった。
「夕夜様、ここにいらっしゃいましたか。先ほどお願いした件なのですが」
彼を認め笑顔を浮かべた葵だが、背後の小夜に気づくと表情を曇らせ、そのまま押し黙る。
「葵様ですか? どうしました?」
小夜は不思議そうに、夕夜の脇から顔を覗かせた。葵はむっつりとした表情のまま何も答えない。何か剣呑な空気が漂った。
「小夜。何をしてたのですか?」
「夕夜さんに祈祷室をご案内しておりました。葵様は夕夜さんにご用事ですか?」
「ええ。野村が昼食の支度をしていますよ。貴女も早くお行きなさい」
「かしこまりました。夕夜さん、ちょっと失礼します」
小夜は彼を強引に手で押しのけ、脇を通り抜ける。葵も半身となり、彼女を促した。小さく頭を下げて階下へと向かうその背中が見えなくなるまで、葵は鋭い視線を向け続けていた。
「申し訳ありません、夕夜様。今からお時間よろしいでしょうか。良かったら私の部屋で少しお話をさせて頂きたいのですが」
今はどうあっても部屋に戻れない星回りだと諦めたのか、無言で首を縦に振った。
葵は花が咲いたような笑みを浮かべると、来た道を引き返す。わずかに遅れてそれに続きながら、夕夜は小さくため息をついていた。
途中何度も振り返っては彼に礼を述べる葵にあいまいな相づちをうちながら、彼は四階にある彼女の部屋へと通された。
小綺麗に整えられた室内は、彼が起居している部屋と造りはほぼ同じである。だが机やクローゼットといった調度類には、客室とは異なり住人がいる気配が染み込んでいた。葵は部屋に何の違和感もなく馴染んでおり、夕夜との生活レベルの違いを感じさせる。
部屋の中央にある広い丸テーブルにはポットと共にカップが二つ置かれていた。夕夜が勧められるままに椅子に座ると、ぎこちない手つきでコーヒーが注がれた。
「先ほどは小夜とどんな話をされていたのですか?」
「特に。ただ館を案内して貰っていただけです。別段会話をしていた訳では無いですね」
葵はスカートを折りながら座ると、唐突にそんな話題を振った。それに応じつつ、夕夜はカップを口に運んでいる。
「そうですか。何か、その、失礼な事は言っていませんでしたでしょうか?」
葵は無表情のままの彼を、上目遣いで探るように見つめた。
「特には。私自身がそえほど礼節を弁えた人間ではありませんので、気に障るようなことなど特にありませんでした」
彼の様子から、案ずる事は無さそうだと判断したのか、葵は胸をなで下ろした。彼女は警戒を解いたように、微笑む。
「それなら良かったです」
葵はコーヒーに手も付けず、しきりにテーブルの下で両手を絡ませたり離したりを繰り返している。彼女は絹のようなその頬を、ほんのりと桜色に染めていた。夕夜はそんな彼女を焦点の合っていない目で眺め、そのまま二人は無言になる。
硬直した会話に耐えかねたのか、珍しく夕夜の方から言葉を投げかける。
「私にお話とは何でしょうか?」
「っはい! あの」
急な問いかけに驚いたように背筋を伸ばすと、葵の潤んだ瞳が彼に向けられた。
「夕夜様は、昨日の話をどう思われたのかとお聞きしたくて」
「昨日の話?」
「はい。お父様がおっしゃった、貴方を婿にという」
「その話ですか。あの時お答えした通りです」
彼は思い出すように視線を上に向けてそう答え、そのまま腕を組む。昨晩の夕食の時にどう答えたか忘却しており、その記憶を辿っているかのようだ。
そんな彼の姿は気に留めず、葵は縋るように身を乗り出す。
「私、こんな事になってしまって。当主としてしっかりしなければと思うのですが、自信がありません。ここから外に出ることも無く過ごしてきて、何も知らない世間知らずの身です。お父様の跡を継ぐことができるのでしょうか。どなたかに助けて頂きたい。どうしても、そう思ってしまうんです」
「なるほど。確かにさぞ不安でいらっしゃると思います。ですが、妹様も居られますし、野村さんも居る。心配される事はありませんよ」
結局思い出すことが出来なかったのか、彼は取り繕うように彼女を励ます。葵は手を伸ばし、テーブルの上に置かれた夕夜の手へ、その白くか細い手を重ねた。
彼女がなおも言葉を連ねようとした時、扉が小さくノックされた。
その音にビクリと体を震わせ、葵は身を引く。扉の向こうから、姉を呼ぶ奏の声がした。
「お姉ちゃん、入るよ。そろそろお昼だって」
扉を開けながら室内を覗き込んだ奏は、驚いたように固まった。目を丸くし、夕夜の見つめる。そんな彼女を気にも留めず、昼食ですかと、夕夜は席を立った。
「お話できて光栄でした。先に下へ降ります」
彼は社交辞令に取れる笑顔を一瞬だけ、葵に向けた。薄くドアを開けた姿勢まま首を斜めに立っている奏に黙礼しつつ、彼は扉を引く。そして夕夜は、何事も無かったかのように部屋から出て行った。赤い頬に手を添えた葵と、目を白黒させている奏が残された。
夕夜は一度自室に戻り、煙草を吸ってから部屋を出た。
彼が食堂に入ると、既に全員が席に着いていた。葵は夕夜を見ると、顔を伏せた。その姿にエティアは目を細める。
「遅かったですね。また煙草を吸っていらっしゃったのですか」
エティアがそう声をかけ、再度煙草の有害さについて説いていると、ほどなく夕夜の前に料理が運ばれてきた。
食堂の狂った掛け時計の短針は二時と三時の間を指している。今、その下は空席となっていた。食卓に漂う空虚感に、昨夜そこに座していた男の強烈な存在感が改めて認識される。
「食事の前にどうか、亡くなった父への黙祷をお願い致します」
葵の凛とした声が響く。強ばったその表情には、緊張と決意が滲んでいた。彼女の言葉に、全員が頭を垂れる。しばしの祈りの後、葵は顔をあげた。その表情は引き締まっており、新たな当主としての決意を感じさせる。
「では、戴きましょう」
葵が顔を上げて銀のスプーンを手取ると、皆が食事をはじめた。
天井から下がるシャンデリアの硬質な光に照らされ、冷たく光る銀灰色の八本の匙。陶器の皿とスプーンの触れる音だけが聞こえる食卓。平静を装いつつも、それぞれ胸に何かを抱えているような、そんな落ち着かない空気が食卓を包んでいた。
秤は食事に集中しているように装いつつも、時折周囲を盗み見るように視線を上げている。その隣に座るエティアは秤と異なり、視線を固定したまま音も立てずに食事をしていた。狩羽はエティアとの今朝のやりとりを引きずっているのか、気まずそうにスープを掬っている。
「お食事中ですが、今後の事についてお話しなければならないと思います」
宗善亡き今、当主となった葵が切り出した。
「このような事になってしまい、皆様には深くお詫び申し上げます。繰り返しになりますが、警察には、野村より既に連絡しております。残念ながら、警察この吹雪が収まるまではこちらに来ることは不可能だそうです。あと二日もすれば天候も回復する見込みですので、それまでは不便をおかけしてしまいますが、館内でお過ごし下さい。」
その言葉に、招待客たちは顔をしかめる。夕夜だけは何事も無いかのように食事を続けていた。
「食料は大丈夫でしょうね? 水は? 電気は?」
皆の不安を代弁するように、秤が身を乗り出してまくしたてる。野村はゆっくりとした口調で、皆を落ち着かせるように答えた。
「食事等の備蓄は十分に御座います。電気や水道も問題ありませんので、皆様にご迷惑はお掛けしません。この時期、希にこういった天候が続く事がありますので常に備えはしております」
野村の答えに満足したのか、秤は椅子に深く座り直した。当面の不安材料が無くなると少しずつ会話が生まれていった。
話題は自然と宗善の偉業となる。主につき合いの長い秤とエティアが彼の武勇伝を語った。
「宗善氏は、本当に素晴らしい才能と教養を持ったお方でしたわ。それが、なぜこんな事になってしまったのでしょう」
エティアはそう述べた後、慌てて口をつぐんだ。場が凍りつく。
「もしや、“始まりの砂時計”とやらの呪いかもしれんな?」
秤が取りなそうとしたのか、彼女に軽い口調で問いかける。その言葉にエティアは一瞬だけ彼をきつく睨むと、冷え切った嘲笑を返した。
「あら? それを言うなら秤さんこそ、随分と熱心に館の中を探り回っておられるようですわね。マリーアントワネットの懐中時計がどうとか」
白い指でブロンドを梳きながら、秤に流し目を向ける。秤は急に顔を赤くし、声を荒げた。
「あんた、何が言いたいんだ? 俺が犯人だとでも言うつもりか?」
「別にそんな事は。随分ご執心のようだったので、お目にかかれず残念でしたわねえ。まあ今日の行動を見ていますと、まだ諦めていらっしゃらない様子ですが」
「あんたこそ、今日は何してたんだ?」
「ずっと部屋に籠もっていましたわ。宗善さんの御霊が安らかにあらんことをお祈りしておりました」
「ふん。怪しい宗教かぶれが。一人で次の策でも練ってたのか? 妙案は浮かんだか?」
二人以外が“始まりの砂時計”という言葉に首を傾げている内に、両者の口調は刺々しさを増していく。
「お二人とも落ち着いて下さい」
宥めるように声を上げる狩羽を無視し、秤は彼の隣で澄ましている夕夜に指を突きつける。
「おい小僧。お前、なんでコレクションルームに来たんだ? 何が狙いだ!」
秤はもはや平静を装う事なく、夕夜を怒鳴りつける。甲高い声が気に障ったか、夕夜は眉をひそめたが、完全に無視して答えない。
「おいガキ! お前に聞いてるんだよ、さっさと答えろ! 一体何が目的でここに来た!」
なおも食い下がる秤に、夕夜はようやく顔を向ける。そこには侮蔑しきった視線があった。射抜かれた者が凍り付くような漆黒の眼差しに、秤はたじろぐ。
「そのガキに何を怯えているんだ? 俺は金も名誉も財産も興味が無い。あんたの妨げにはならない」
「う、嘘つけ! お前を寄越した教授とやらは、欲しい物は手段を選ばず手に入れる女だと聞いてるぞ! お前が来て、宗善氏が死んだ。そこには絶対に理由があるはずだ!」
「知らない。俺があの人の考えなど分かるわけがない」
「ごまかすな!」
秤は立ち上がり夕夜の背後に立つと、その肩を乱暴に引く。夕夜は脱力しなすがまま、侮蔑の表情を崩さない。
「あんたは一体何が欲しいんだ?」
「マリーアントワネットだ! 彼は俺にいったんだ、懐中時計の在処を突き止めたと。俺は彼の『仕事』仲間だった。非合法すれすれなことだって頼まれればやったさ。だがな、それは金のためじゃない。そんなのは他でいくらでも稼げるんだよ。だが、懐中時計は別だ。歴代最高の時計士が作った、世界でただ一点の名作。それは金だけじゃあ手に入らない。お前もそれを狙ってるんだろ!」
「いい加減にして下さい、秤さん! 落ち着きましょう」
狩羽は慌てて立ち上がり、二人を引き離す。野村も机を回り込み、狩羽に加勢した。
急な展開に、葵は慌てふためいたまま何もできずにいる。奏もそのとなりで脅えていた。
「神沼君、君はその懐中時計を知っているかい? 葵さんは? 時津方さんからそういった時計について聞いてますか?」
夕夜は首を横に振る。葵は首を傾げ、分かりませんと答えた。
「見苦しい。年少者に当たり散らすなんて、本当に恥知らずな男ですこと」
火に油を注ぐようにエティアが吐き捨てると、秤は弾かれたように彼女を睨みつける。彼が口を開く前に、小夜が彼女を窘めた。
「エティアさんも、ここまでにしましょう? 喧嘩してもしょうがないじゃないですか」
「ごめんなさいね、小夜ちゃん。確かにこの男に言ってもしょうが無いことだったわ」
あくまで毒を込めるのを辞めないエティアに、小夜は諦めたようにため息をついた。
「本当にお二人とも辞めて下さいよ。動機なんて憶測でどうとでも言えるじゃないですか。そんなことで感情的になっても何も良いことありませんよ」
ため息混じりのその言葉に、エティアは口の端を釣りあげ、野村に顔を向けた。
「確かに動機なんて、誰にも分からないわよね。ねえ、野村さん?」
「な、なんで私が」
「もう辞めて下さい!」
突然大声を上げた葵に、皆の視線が集まる。
「お願いです。もう止めてください。今は、もう……」
涙に声を詰まらせながら訴える彼女に、秤とエティアはバツが悪そうな顔をして下を向く。
「あいつは自殺したんだ」
無音となった室内に、奏の消え入るほど小さな声がしみ込む。
「奏! あなた何でそんな事言うのよ!」
突然、自殺だったと切り出した奏に対し、葵は声を上げる。奏は目に涙を溜めている姉を、悲しげに見つめた。
「秤さんの言う通りだよ。あいつは最低の男だった。お母さんだって。だから、自殺で良い。だから、もうこれ以上お姉ちゃんを苦しめないで欲しい」
そう言って、奏は秤とエティアに向かって頭を下げた。その姿に葵は顔を歪め、俯く。さらさらとした黒い前髪の奥で、その瞳は涙を湛えていた。
秤とエティアは口々に無礼を詫びる。二人はきまりの悪そうな表情を浮かべながらも、互いに目を合わせようとはしなかった。
沈黙が戻り、寒々とした空気に戻った食卓。会話も食事も尽きた場に、狩羽が軽く片手を挙げた。
「とにかく、お互い疑心暗鬼にかられてもしょうがありません。私たちには犯人を探る術など無いのですから、大人しく警察の到着を待ちましょう」
その言葉に、一同は無精無精頷いた。そこで野村から夕食の時間が告げられると、夕夜が真っ先に食堂を出て行った。彼に続き、一人また一人と食堂から出ていった。
これ以上つき合わされたくないとばかりに、真っ先に席を立った夕夜は早足で階段を登り、そのまま自室に籠もる。資料が広げられたままのベットに腰掛け、沈思黙考に入る。彼の脳内では様々な定理が渦巻いているのか、その暗い瞳ががめまぐるしく動いている。一編の論文を取り室内を右往左往し、それをベットに落としては別の論文を取り上げて再び歩き出す。それを飽きること無く繰り返し続ける。
そんな周囲からすれば狂気にとり憑かれているような、彼にとっては人生で最重要とも言える時間は、無慈悲に終わりを告げた。
「夕夜さん、遊戯室に行きましょう! ビリヤードしますよ!」
またも部屋を訪れた小夜に、またもや彼は無反応だった。足を止めることなく、学術書を片手にうろうろしている。
「皆さんお揃いなんですから! ついに私の腕前を披露できます!」
彼女は慣れたように夕夜を連れ出す。腕を引かれても抵抗せず、瞳を泳がて何かを考え続けている彼を引っ張り、小夜は狭い階段を下る。夕夜は途中何度も躓きそうになりながら、遊戯室へ連れられた。
そこにはエティアを除いた全員が揃っていた。
「ありがとう、小夜。夕夜様、こちらへ」
ソファに腰掛けていた葵が小走りに駆けつけ、小夜から夕夜の腕を引き取る。彼は厚い学術書を抱えたまま、葵と隣合うようにソファについた。
「いやはや、色男君は辛いですなあ。美しい花に囲まれて羨ましい限りだ」
既にアルコールが入っているのか、赤ら顔で秤がはやし立てる。それに葵は耳を赤くして反論するが、夕夜は黙々と手にした洋書に目を走らせている。
「小夜さんも戻りましたし、もう一勝負お願いしますよ」
キューを持ち、秤と共に台を囲んでいた狩羽が小夜に言う。腕を捲り、張り切った様子だった。
「さっきは不覚を取りましたが、次は負けませんよ」
「辞めとけって狩羽さん。小夜ちゃんには勝てないって。俺なんて今まで何十回とやってるが、一度も勝ったことないんだから」
「そうだよ。もう諦めたら?」
秤と奏は止めるような口調だが、狩羽が惨敗する姿を面白がっているようだった。
「ふふ。何度でも受けて立ちましょう」
小夜が胸を張って告げる。玉の弾ける音に合わせ、四人の歓声があがった。
身近で死を経験した者達が、このように遊技にふけるのはあまりに不謹慎であるのかもしれない。しかし、その死が己に降りかかるかもしれない状況となれば、彼らのようにつかの間の安らぎを求めてしまうものだ。人は社会的な動物であると言われる。すなわち、社会の一員として育てられてしまう。その結果、隣人を疑い続けることに心の奥で罪悪を覚えてしまうのだ。館に残された者達は死を目の当たりにした衝撃に加え、他の誰かを疑い続けるという精神的疲労に耐えられなくなっていたのだろう。
そのようにしてできた仮初めの騒々しさの中、夕夜と葵だけが取り残されたように静かだった。葵は優しく目尻を細め、ビリヤードに熱中する彼らの姿を眺めている。
彼女もわずかに酔っているのか、頬がほんのりと上気していた。隣に座る夕夜に顔を寄せ、囁く。
「夕夜さんはビリヤードはされないのですか?」
「ええ。それどころでは無いので」
吐息が伝わりそうな距離にある葵の顔に視線も向けず、彼は本のページをめくっている。
「貴方は、いけずですね」
「はい?」
「良いんです。気になさらないで」
聞き返しながらも顔を向けない彼に、葵はふくれっ面で唇を突き出す。その仕草は普段よりも幼く、気を許しているように見える。アルコールを勧める彼女に、夕夜は短く断った。
「いつも、何を考えていらっしゃるのですか?」
「神の数式について」
「分かりません」
「物理学者の夢か、あるいは妄想といった所です」
脊椎反射のように瞬時に答える彼の言葉は、明らかに片手間といった雰囲気が滲む。それに葵は、さらに頬を膨らませた。
「もっと詳しく話して下さい。こちらにお顔を向けて」
「貴方が聞いても面白くないでしょう。狂人のたわごとと思うかもしれない」
「構いません。あと、葵と呼んで下さい」
しつこく食い下がる彼女に、夕夜は小さく嘆息した。開いていた本を閉じ、彼女へ顔を向ける。揺れることの無い彼の瞳に、葵の姿が写る。彼女は微笑みを浮かべた。
「この世界の森羅万象を表す方程式を、神の数式と呼びます。宇宙の誕生から終わりまで、未来永劫に渡り適応される完全なる数式。それはこの世界に隠された最も難解な謎です」
「それが分かると、どんな素晴らしいことがあるのでしょうか?」
「何も」
短く答えた彼の解答に、彼女は小首を傾げている。
「それを知り、何に使うか。そんな事は私は全く興味がありません。ただ知りたい。この世界は単純かつエレガントな法則で満ちている。一見すると複雑怪奇な事象は全てたった数行、やもすると十文字にも満たない数式で説明できるかもしれない。それは、どんな芸術家にも作り出すことのできない美しさです。私の動機はそれを見たい、だだそれだけです」
真摯に紡がれる彼の言葉を、おそらく彼女は理解できていないだろう。だが、彼とただ会話しているだけで楽しそうだった。夕夜の瞳に湛えられた熱を感じ取り、にこにこと頷いている。
ビリヤードに興じる者たちの声をBGMに、高価な調度で設えられた室内で饒舌に自らの研究について語る男。それに嬉しそうに耳を傾ける女。連れ添う二人の姿は、映画のワンシーンのようだった。
「皆様、お食事の準備が整いました」
使用人部屋へ通ずる扉が開き、野村が姿を現す。その言葉に、室内の者たちは食堂へと移動を始める。
「楽しいお話をありがとう御座いました。また、夕夜さんの研究について色々教えて下さいね」
「もし、機会がありましたら」
葵はそう言って立ち上がる。彼女はスカートの裾を小さく揺らしながら、軽い足取りで遊戯室を出て行った。
それを見届け、夕夜もソファから立ち上がる。彼は手にした重い書籍を一瞥し、顔をしかめた。
ビリヤードは昼を過ぎても続き、途中で座した野村が昼食の準備ができたことを告げるまで夕夜はソファで過ごしていた。
昼食のために一同が再び食堂に移動すると、既に葵は席についていた。先ほど遊戯室に顔を出さなかったエティアも席についている。
「では、戴きましょう」
葵の言葉で始まった夕食は、昼食の時のような諍いもなく穏やかに進み、食後のコーヒーが配られる。狩羽が小夜のビリヤード腕前を絶賛し、秤と奏があの一打が凄かったと続く。小夜はそれらに謙遜しつつ、まんざらでもなさそうに答えていた。
先ほど参加していなかったエティアも、興味深そうに会話に混ざっている。昼時の会話で見せていた揶揄するような言動は、なりを潜めていた。
夕夜は会話に入ることなく、一人静かにコーヒーを飲んでいる。そんな彼の隣に、エティアが席を移動してきた。
「貴方は、ビリヤードはしなかったのですか?」
「ええ。興味がありませんから」
「そうですか。それよりも葵さんとのおしゃべりの方が楽しかったのかしら?」
妖艶な笑みを浮かべながら、エティアは彼をからかっている。それに腹を立てる様子もなく、夕夜は彼女の蒼い瞳を見つめた。そのまま、何かを探るように、両者とも無言になる。
「始まりの砂時計”とは何ですか?」
突然の問いかけに、エティアの笑顔が一瞬崩れた。再び笑みを張り付けながらも、その碧眼は鋭い光を放っている。
「なぜそんな事を? 貴方に興味があるとは思えませんが」
「ただの好奇心です。何が研究のヒントになるか分かりませんから」
「そうですか」
またしばし、二人は無言となる。エティアは根負けしたように大きく息を吐いた。
「貴方は時津方家についての噂をご存じですか?」
夕夜は首を振って否定する。たわいもない噂ですがと前置きすると、彼女は小声で語り始めた。
「時津方家は元々この地域の名家でしたが、もう没落寸前だったそうですわ。そこに婿入りした宗善さんは、貿易商として一代で巨万の富を築かれました。中東方面での買い付けに成功し、莫大な利益を上げたのです。ですが当初は全く振るわず、一時期は館も差し押さえられていました。それがある時、急に成功し出しました。それは彼が中東で買い付けた一つの古びた砂時計から始まったと、そういった噂です」
「その砂時計が、“始まりの砂時計”?」
「それは分かりませんわ。そもそも“始まりの砂時計”がどういったものか、誰も知りませんもの」
エティアは口を手で覆い、小さく肩を揺らす。すでに興味が失せたような夕夜の視線に対し、彼女はなおも探るように彼を見つめている。
「砂時計が、いつ頃から歴史に現れたかご存じかしら。日本では江戸時代に描かれている浮世絵が現存する最古の記録ですが、西洋でも中世の絵画までしか遡ることはできません。不思議ではありませんか? こんなにもシンプルな代物、もっと以前から存在しても良いものなのに」
「で、“始まりの砂時計”とは何なのですか? ただの古い砂時計のことですか?」
「そう急かさないで下さいませ。ここからが本当に面白い所ですから。祈祷室にある石像、何を象った物かは分かりますか?」
「いいえ。全く」
「あれはクロノスの石像です。クロノスとは、死と時を司る神。手に大鎌を携え、傍らに砂時計を抱く姿で描かれます。このクロノスこそが、現在知られている中で最古の、砂時計が現れる絵画に同時に描かれていた者なのです。ですが、これは元来のクロノスではありません」
「クロノスなのに、クロノスではない?」
饒舌に語るエティアに、夕夜は茫洋とした目を向けている。彼の脳内では何かが繋がりつつあるのか、彼女の青い瞳から視線をそらさない。
真剣な表情で向かい合う二人。それを注視しているのは二人の向かいに座る小夜だけだった。彼女の視線にも気付かず、エティアは熱弁を振るう。
「ギリシャ神話のクロノスとは元来、死を司る神。彼が携えていたのは命を刈り取る大鎌のみ。そこに中世の者達の手により神話の哲学的解釈がなされる中で、時を司ると言われるようになり、砂時計を携えるようになったのです。すなわち、元々のクロノスに砂時計というモチーフが重なり、新たなクロノスとなったのです。これは、『死』と『時』が結びついたということです。これは人間の普遍的心理の一端を表していると思いませんか? 時計は何のために生まれたのでしょう。それは農耕のため、あるいは神事のため? 本当にそれは必要な事でしょうか? 私はそんな社会的な理由ではなく、もっと根源的な恐怖、すなわち命を、死を計るために生まれたと考えます。いつ死ぬのか、いつまでこの命は続くのか。目に見えないそれを視覚化する事で、恐れを和らげる。砂時計の砂が落ちてゆく様は、まさに削られゆく命になぞらえられたのです」
エティアは舞台女優のように朗々と自説を展開している。重々しく言葉を紡ぐ彼女は宗教家然としていた。
「ですが生命を表すという意味では、水時計の方がよりふさわしいのではないでしょうか。若いうちは勢いよく流れ、年を取り衰える。それこそ生命のあるべき姿です。しかし自らの衰えを見たくないのも、人間の性です。確実に迫り来る死は捉えたいが、日々衰退していく自らの生命は直視したくない。その矛盾をはらむ心こそが、砂時計を美しく感じる理由なのでしょう。生命は水時計ではなく砂時計のように終わっていく。命の減少速度は、水時計の水のように時と共に衰えるのではなく、砂時計の砂のようにずっと一定なのだと安堵する。死までの距離を示し、その過程である老いを人間の欲望の通りに写してくれるからこそ、砂時計は美しく、人々を惹きつけるのでしょう。そして、本来『死』だけを司っていたクロノスが『時』も司るようになった理由は、砂時計が産まれたからだと私は考えるのです。死を告げる神は、砂時計で死までの時を計るのです」
エティアは両手を大きく広げ、結論を演出する。
「始まりの砂時計とは、人の運命の変節点に現れると言われています。どこからともなく現れ、その者の運命を、世界の流れを導くのです。それは神の導きそのものに違いありませんわ」
二人の会話が終わる頃、周囲は再び遊戯室へと向かうと話がついていたようだった。連れだって食堂から移動を始める中、夕夜とエティアもそれに誘われる。これまでのように渋る様子もなく、夕夜はそれに従う。
遊戯室では夕食前と同じメンバーにエティアも加わり、再びビリヤードが始められる。思い思いの酒を野村に注文しては、それを片手にゲームに興じていた。
夕夜もカクテルを持ち、それを遠巻きに眺めている。その傍らには葵が立ち、二人は何度か短く会話を交わした。
「少し飲み過ぎてしまったようです。申し訳ありませんが、お先に失礼させていただききますね。」
「こちらこそ、気の利いた会話もできず申し訳ありません」
葵は夕夜の言葉に嬉しそうに頷くと、皆に暇乞いをしつつ部屋を出て行く。ふらふらと浮ついた足取りの彼女に、小夜が手を貸そうと申し出るが、葵は片手でそれを制して一人部屋を後にした。野村は、慌てた様子で、葵様にお水をお持ちして参ります、と断り部屋を出ていく。
葵が出て行った後、僅差で負けた奏が、次のゲームのセットをしつつ口を開く。
「お姉さまは、なんであんな汚らわしい男を慕ってたのか分からない。母がいたのに、あの男は」
よほど酔いが回っているのか、あまりにも黒々とした言葉に、居合わせた者たちは目を見張る。秤とエティアそして小夜は苦い顔をしているが、狩羽と夕夜は首を傾げている。
エティアは、下を向いて球を並べている奏の顔をのぞき込むように腰を折る
「奏さん。亡くなった方を悪く言うものではありませんわ。ただ、私たち女性は心に留めて置かなければならないことがあります。それは男性に惑わされては行けない、と言うことですわ。同じ女性として、力になれることが必ずあります。私は貴方の味方、信じて下さいね」
諭すように優しく語りかけ、彼女の肩にその白い手を置く。その言葉に顔を上げ、奏はエティアの言葉を噛みしめるように強く頷いた。
そんな二人を、秤は醒めた目で見ている。
「相変わらず女を手懐けるのが上手いな。あんたはそっちにベットするか。俺は、自分に賭けるぜ」
秤は意味深な言葉を独り呟くと、次のゲームを催促した。彼らの遣り取りが分からぬ様子の狩羽は、キューを胸に抱いたまま佇む小夜に視線を向ける。彼女はそれにただ、小さく首を振った。
「では、もう一勝負行きましょうか。神沼君も、いつまでも見ていないで参加しなさい」
先ほどの話題は部外者には関係ないようだと判断したのか、狩羽は夕夜を無理矢理引き込んでゲームを始めさせた。
様々な感情が入り交じった場に、野村が遊戯室に戻って来る。秤は早速飲み物を注文しながら、うきうきとした様子でブレイクショットを打った。
それから真夜中を過ぎるまで彼らはビリヤードを続けた。そしてお開きとなるまで夕夜は負け続けだった。
束の間の饗宴が終わり、それぞれの部屋に引き揚げていった後、野村と二人で食事の片づけに従事してる小夜は、薄い笑みを浮かべていた。薄い桜色の唇は緩いを描き、鼻歌が漏れる。
その姿を見ながら野村は、主を失ったことの失意からか、今も肩をしぼませていた。食器を片づける姿にはいつもの機敏さがなく、不安という澱に囚われているように重々しい。食器を洗う手つきには、平素のようないたわりが欠落していた。日々料理人としての誇りを持ち、食器の曇りにすら妥協を許さない男であるが、今ばかりは大儀そうにただルーチンワークをこなしている。
彼の様子に気づいているのかどうか、小夜は踊るように食堂を清掃していた。愉快そうに、食卓の机を白く清潔な布で何度も拭いている。
「小夜。私はもう休みますよ」
やがて翌朝の仕込みまで終えた野村が自室へと引き上げる。それに答えず、彼女は部屋の掃除を続けていた。毎日磨き上げられている調度には埃ひとつ溜まってはいない。それを拭う布はいつまでも白いままだ。それでも、彼女は嬉しそうに机を、椅子を、暖炉を磨き続ける。いつまでも。
秤はその頃、一人部屋に籠もっていた。部屋の灯りも付けず、薄暗い部屋で一人爪を噛む。小刻みな貧乏揺すりに合わせ、腰をおろしているベッドが軋みを挙げる。血走った眼で小さく呟く。
「どこだ? どこにある? あいつはどこに隠したんだ? 俺は自分に賭ける。いつだってそうだ。俺は絶対に手に入れてみせる」
部屋にはぎしぎしという音と、彼の暗い呟きがいつまでも響いていた。
エティアは一人、鏡台に向かっていた。枯れ木のような腕を組み、右手を顎に当てた姿勢で椅子に腰掛けている。口を堅く結び、両目を閉じたまま動かない。背筋をまっすぐに伸ばしたまま微動だにしない姿は、苦悩する賢者を模した彫刻のようだった。
雪が窓に打ち付ける僅かな音の中、彼女はいつまでも悩み続けていた。それは慈悲深い聖者のようにも見える。だが彼女の本心はどうなのか、無言の佇まいからは伺い知ることができなかった。
狩羽は自室で、手帳ほどの大きさなのノートに何かを書き込んでいた。元は濃緑色だったそのフィールドノートも、長年の使用で色褪せ、若竹色になっていた。背表紙は所々すり切れ、土の跡がついている。
真剣な目でそこにペンを走らせ続けていた彼は、ふと顔を上げた。
「神沼君は、大物になりますかね。それとも」
遠い目を彼は浮かべている。羨望と期待、そして小さな嫉妬。己自身には遂に見いだせなかった偉大な可能性への憧憬が、そこにあった。
「後輩の才能を見ても悔しくない、か。僕も年を取ったかな」
楽しげに頬をゆるませ、彼は机に向かっていた。
翌朝、誰もが心の中で恐れていた事態となる。それは宗善は誰に殺されたのか、それを考えることを放棄した罰だったのかもしれない。誰かが殺人者であることを疑いながらも、自殺という可能性に己を納得させてしまったことを悔いることとなる。
再び祈祷室に集まった人数は六人。昨晩の夜更かしで短い睡眠時間となっている彼らの誰一人として、眠たげに眼をこする者はいない。
死を司るクロノスの石像、その足下に横たわる死体。それは変わり果てた葵の姿だった。
彼女の腹部にはナイフと思われる刃物が深く刺さり、白い両手がその柄に添えられている。大量の血液が彼女の横たわる台座に付着して赤黒く固まっており、石像にも激しく飛び散っていた。
凄惨な状況であるが、艶やかな黒髪を広げ眠るように横たわる美女の姿は、さながら芸術作品のようであった。周囲の砂漠は一糸乱れぬ幾何学模様を描き高級な絨毯のようであった。今近づいてきた彼らの足跡以外、誰かが歩いた痕跡、亡くなった葵自身の足跡さえ残されていない。
まるで砂漠の中に忽然と現れたような美しい死体。その不可思議な状況が、目の前の遺体がまるで額縁の向こう側にあるかのように見るもの混乱させる。
「二人目、か」
秤が小さく呟く。その言葉に野村と奏は、大きく肩をびくつかせた。
涙を溜めて俯き、今にもくず折れそうな葵に肩を寄せている小夜。エティアは眉を悲痛に歪めたまま目を固くつむり、祈りを捧げている。
彼女の隣で、言葉を発した秤が最も顔を蒼白にしていた。同じくエティアの傍らに立つ狩羽も、悔しそうに唇を噛みしめている。
夕夜は彼らから離れて独り腕を組んでいた。昨夜話をした女性の死にも、彼に動揺の色は無い。
葵を亡くした悲しみと、次の犠牲者となるかも知れないという恐怖。それらが入り交じり、誰もが動けずにいる。夕夜だけは、どちらも感じておらず、普段通りであるのかもしれないが。
そうして、吹雪に閉ざされた館での三日目が幕を開けた。
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