第5話

 夕夜が館で迎える初めての朝は、人々が館内を慌ただしく走っている気配で始まった。そんな空気の中でも、彼はベッドから這い出して起き抜けの一服をと窓際へと向かった。ライターを擦ったとき、ノックも無くドアノブがガチャガチャと回される音が聞こえてくる。煙草に近付けていたライターの火をしばし眺めていたが、逡巡の後、煙草を戻してドアへ向った。くぐもった小夜の声が、扉越しに室内まで聞こえくる。

「夕夜さん! 起きて下さい! ご主人様が!」

 その只ならぬ声色に、夕夜は眉間に皺を作りながら扉を開けた。

「どうした?」

「早く来て下さい! 祈祷室です!」

 蒼い顔に必死の形相を浮かべる小夜に腕を腕を引かれながら、彼は最上階へと走る。よほどの事態があったのか、彼の手を握る小夜の指は、力を込め過ぎて白くなっている。緊張した面持ちで階段を登る彼女の背に、夕夜は無言で続いた。二人が『洗浄』を終えて室内に入ると、入り口付近には宗善を除く全員が、強張った表情で立っていた。息を切らしている夕夜に、野村が状況を一言で表す。

「む、宗善様が。亡くなって、います」

 震えてかみ合わない唇から出た言葉は、ひどく聞き取り難かった。野村は小刻みに震える手をぎくしゃくと挙げ、祈祷室中央にあるクロノスを模した石像を示す。それにつられて夕夜が目を向けると、砂に霞む室内に誰かが横たわっているのが見えた。

 入り口から石像の足下までは、三本の足跡が続いている。二本の足跡はまだ真新しいが、残る一本は既に砂に埋もれかけて輪郭がぼやけている。新しい足跡は入口から石造まで往復しており、死体を確認した者たちのものであろう。古い足跡は行きの分しかなく、死亡した者が歩いた跡であることが分かる。無表情に佇んでいる夕夜に、狩羽が顔を向ける。

「取りあえず、僕と野村さんが確認してきた。残念ながら、確かに亡くなっている。他の皆さんには、皆が揃うまで待って貰っていたんだ。あまり荒らさない方が良いかと思ってね」

 全員を見回すと、狩羽が室内へと歩み出した。彼の膝は微かに震えていた。狩羽の足跡を辿るように、他の者たちが重い足取りで続いていく。室内は無風で、砂は舞っていない。その静寂は、居合わせた者たちの心を重苦しくさせる。

 黙々と歩き、一同が石像の元に至る。遺体は石像の足下に設えられている大理石の台座に横たわっていた。台座にはおびただしい量の赤黒い血がこびり付いている。クロノス像に足を向けて仰向けに倒れている宗善の両手は、柄の黒い質素なナイフを握り、自らの喉に突き立てていた。眼球が飛び出るほどに目を開き、今にも凄まじい絶叫が聞こえてきそうな表情で固まっている。宗善は濃い、闇夜のように暗い紺色の服を着ており、服には砂の粒が夜空の星の如く無数に浮かんでいる。

 凄惨な光景に、葵と奏は姉妹で体を寄せていた。葵は片手で口元を覆い、涙を溜めている。その隣で、奏はきつく目を閉じていた。

「何か、隠すものを」

 誰もが無言で立ち尽くす中、夕夜が冷静な声を出した。

「はい。すぐに取って参ります」

 野村は止まっていた思考を取り戻したのか、足を砂に取られながら慌ただしく出口へと向かっていく。小夜もそれに続いた。

「お父様……」

 姉妹は血に染まる大理石には近づけず、砂の上に膝を付いてくずおれた。エティアは死者を悼むように胸の前で聖印をきり、祈るように何か異国の言葉を呟く。彼女たちから大きく離れ、秤は高級な革靴に砂が入り込むのも気づかぬ様子で呆然としている。

 一人子細を観察しようと、顔を蒼白にしながら死体へかがみこむ狩羽へ、夕夜は感心したように声をかけた。

「狩羽さんは、こういった経験が?」

「いや、初めてだよ。だが研究者の本分は観察だろう? こんな状況だからこそ、私は研究者らしくありたいんだ」

「なるほど」

 顎に手を当てて頷きながら、夕夜は狩羽に習うように周囲を観察しはじめた。

 足跡は入り口の扉から石像までの直線上にしか無い。狩羽がわざと避けたのだろう、最初にあった消えかけの足跡はまだ残っている。その脇は彼らがここまで来たために荒らされているが、そこ以外では表層の砂が、幾重にも寄せる波のような文様を描いている。死体を見下ろす乳白色の石像の背後、透明な天井の向こうは雪で染まっていた。

 吹雪の砂漠に屹立する、命を刈り取る大鎌を携える石像は悪夢の光景であった。

 底冷えする広大な空間に、葵のすすり泣きだけが聞こえる。彼女に言葉をかける者はない。そこへ、野村と小夜がシーツと担架を抱えて戻ってきた。

「すいませんが、手伝って頂けますか?」

 狩羽が手を貸し、死体を乗せた。夕夜は小夜から白いシーツを受け取り、そこに被せる。

「とりあえず、宗善様の寝室へ運びましょう」

 野村と狩羽が担架を持ち部屋を出ようとすると、緩やかな風が吹き始めた。シーツが風に揺れる中、二人に続いて全員が扉へと戻っていく。葵は小夜と奏に脇抱えられながら立ち上がり、担架の脇を付従う。来訪者たちはかける言葉もなく、担架から距離を取って後を歩いていた。

 部屋を出ると、住人たちは宗善の寝室へ向かっていく。来訪者たちはそれに続くことも厭われ、申し合わせたように食堂へと降りていった。

 食堂に着くと、狂った振り子時計は九時を示している。夕夜が腕時計を見ると、八時前だったが。暖炉にはすでに火が入れられており、室内には生暖かい空気が淀んでいた。

「やれやれ。これは、とんだことになったな。これじゃあ滞在を楽しむどころじゃないぞ。ここから帰ったらでかい仕事があるのに、それもどうなることやら」

 それぞれ椅子を引き適当な位置に腰掛けると、秤が余裕を取り戻したように声を出した。

「一言目が金の心配とは。貴方には遺族を想う心が無いのですか。下賤な人だこと」

「ふん。何とでも言え。神とやらでも崇めてたら良い。俺みたいのを見下して、私ってなんて素敵! なんて自分に酔ってるんだな」

 眉を上げて咎めるエティアを秤はせせら笑う。その言葉に彼女は突然立ち上がると、椅子にふんぞりかえる秤に詰め寄った。

「二人とも落ち着いて下さいよ。これ以上、住人の皆さんに負担をかけては申し訳ないでしょう? 夕夜君、とりあえず野村さんを待ちましょう」

 狩羽は一触即発の二人をなだめつつ、部屋に戻ろうと扉に向かっていた夕夜を引き留めた。エティアと夕夜が席に座り直すと、ちょうど野村達が食堂に入ってきた。

「ひとまず飲み物をお出ししますのでお待ち下さい」

 野村と小夜は厨房へと入り、葵と奏は席に着く。泣きはらした二人の顔に、秤は気まずそうに下を向いた。沈黙が支配する室内で、夕夜だけが昨夜と変わらぬ無表情で何かを考え続けている。コーヒー豆の曳かれる音は不気味に聞こえ、漂う香りは鼻腔にまとわりつくようだった。

「お待たせ致しました」

 使用人の二人が戻る。目の前に配られたコーヒーには手を着けず、狩羽が野村に問いかけた。

「警察には通報を?」

「はい、先ほど。しかし大雪で直ぐにこちらには来れないと」

「そうですか」

「何? じゃあ俺たちはいつになったら出られるんだよ!」

 予想通りという表情を浮かべる狩羽と異なり、秤は焦ったように声を荒げる。エティアも少なからずショックを受けた表情で野村を見やった。

「分かりません。予報ではあと三日は吹雪が続くかも知れないとのことですが。申し訳ありません」

「天候は仕方がないですよ、野村さんの責任ではありません。皆さんもあと三日間は滞在予定でしたし、それを過ぎても出れなければ、またその時考えましょう」

 秤は激昂し、机に両手を叩きつけるように立ち上がった。

「ふざけるな! 人殺しがいるかも知れない場所に三日も閉じこめられてられるか!」

 肩を怒らせる秤に対し、狩羽は冷静に問いかける。

「何で宗善さんが殺されたと思うんですか?」

「あ?」

「あの状況だけ見れば自害された可能性もあります。それに部外者が昨夜の内に訪れ、去っていった可能性もあるでしょう。殺人犯がいると決めつけるのは早いですよ」

 落ち着いた言葉で語る狩羽と、秤に周囲から注がれる責めるような視線。秤は己の不利を悟ったのか、椅子に座り直すと腕を組んだ。

「すまなかった。動揺してしまったんだ」

 秤はしおらしく謝罪するが、納得していないことは明白だった。それに重ねるように、葵が自害という言葉に反応する。

「お父様が、自殺なんて。そんな事ありえません!」

「申し訳ありません。僕自身、そう思っている訳ではないのです。ただ決めつけるのだけは避けなければならない、ただそれだけを言いたかったのです」

 普段の清楚な姿からは想像できない、強い口調で否定する葵に彼は頭を下げた。剣呑な会話を遮り、エティアが話題を変える。

「昨日の夜から既に吹雪でしたわ。これは夜中続いていたのかしら?」

「どうでしょうか。私は夜二時頃に床に着いたのですが、その時はかなり吹雪いていたようです」

 野村の答えに、皆が押し黙る。深夜まで吹雪けば、外には相当な雪が積もっていただろう。その中をこの館まで訪れ、さらに吹雪の中を立ち去る自殺行為だろう。

「でも、入ってくるだけなら可能性があるかもしれませんわ。そして」

「そいつはまだ中に残っているのか!」

 エティアの言葉を秤が引き継ぐ。

「ありえるかもしれませんね。一度、中を捜索してみた方が良いかも知れない」

 狩羽は頷き、では二手に分かれましょうと提案した。異議を唱える者は無かった。

 狩羽が主導し、住人達は二つのグループに分かれた。

「では、お気をつけて」

 時津方姉妹と秤を連れた狩羽はそう言うと、階段を昇っていった。彼らは最上階から下へと下る形で捜索を行う。残る面々は野村を先頭に、一階から上の階へと順に調べて行き、三階で合流する手筈となっていた。

 夕夜は野村の後ろを歩きながら、改めて小夜から館内の説明を受けていた。

「館内は大砂時計が中心にあって、外形は正方形です。一階には食堂と厨房、その奥に野村さんの部屋と私の部屋があります。大砂時計の向こう側です。あっち側は遊戯室です」

 砂時計は館の中にあるというよりも、それを囲むように館が建っているというべきか。砂時計の周囲に各階の部屋があり、一階は四つの部屋がある。入り口のある大砂時計正面がエントランスとなり、右手側が食堂、左手側が遊戯室。裏側には使用人部屋と厨房がある。一階には通路が無く、部屋同士が全て扉で繋がっていた。

 食堂からエントランス出るとまず、夕夜が入り口の扉に手をかけた。鉄の扉には鍵かかけられており、開くことはなかった。その様子を見た野村が夕夜に声をかける。

「基本的に入り口は自動施錠となっております。お客様がいらっしゃる時には、鍵を使って中から開けないと出入りはできません」

「その鍵はどなたが管理していらっしゃるのかしら?」

 夕夜に続いて自らの手で扉の施錠を確認しているエティアに、野村が答える。

「普段は宗善様が管理されております。スペアは私の自室に。今はどちらも私が持っています」

 野村はポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差して開錠して見せる。見た目にも複雑な構造をした鍵は、専門の工具と知識がなければ複製できない代物のようだ。

 野村は慎重に扉を引く。小さく開いた隙間から、一同は緊張した面もちで『洗浄』の空間をのぞき込んだが、そこには人影は無かった。誰も潜んでいないことを確認すると、野村は扉を閉じ、再度施錠した。

 エントランスを抜け、彼らは遊戯室に入る。そこにはビリヤード台が二つ並び、ポーカーなどに興じるための布張り机やワインセラー、バーカウンターがあった。板張りの床はワックスで磨きあげられており、白熱灯がほの暗く室内を照らしている。そこにも人影はなかった。

「夕夜さんはここで見張ってて下さい。私たちと同じペースで回ってる誰かが居るかもしれないですから」

 小夜の提案に夕夜は一つ頷くと、ビリヤード台の脇に置かれた革のソファに深く腰掛けた。彼を残し、三人は遊戯室の奥の扉へ向かう。

 三人は遊戯室を抜け、小夜や野村が依拠する部屋、厨房、食堂と時計回りに巡り再びエントランスに戻る。どこにも不審者の痕跡などは無く、十分ほどで合流した。

「神沼さん、誰かここを通りましたでしょうか?」

 訪ねるエティアに、彼は首を横に振る。

「そうですか。では、上に参りましょう」

 もしやと警戒していた緊張感にも慣れたのか、エティアは長い足で颯爽と歩き出す。狭い階段を、エティアを先頭に四人は連なって昇っていく。

 階段の踊り場に出ると、砂時計の周囲を通路が一周している。二階には客室が四部屋あるのみであり、夕夜には右奥が、狩羽には左手前の部屋が割り当てられていた。客室の鍵は内部からは施錠できるが、外からはかけることができない。貴重品は室内に設えられた金庫に納めることになっていた。

 エティアと小夜が話をしながら、客室を覗いていく。左奥の空室から始まり、反時計周りに四部屋を巡る。

「なぜ客室には、外からの鍵はないのでしょうか」

「ここはホテルではないので鍵は要らない、とご主人様は申していました。自分の家の部屋で外から鍵をかける人はいないから、と」

「なるほど」

 やがて最後の部屋に辿りつく。そこは夕夜が使用している部屋である。エティアは扉を開けるなり、夕夜に苦笑いした。

「貴方はもう少し部屋を片づけるべきですわね」

 夕夜の隣で、小夜がしたり顔で大きく頷いている。

「あと、お煙草は控えた方が宜しいですわ。限りある命を、その生命の砂をむやみに落とすべきではありませんわよ」

「そうですよ。周りの人も迷惑するんですから」

 エティアと小夜に挟まれて彼は憮然としていた。口を結び、腕を組んで無言の反論を示す。

「ここにも誰も居ません。上へ」

 夕夜はどこまでも続きそうな二人の小言を断ち切り、階段へと引き返す。彼らが捜索している間、踊り場で見張りをしていた野村と合流した四人は、そろって三階へ向かう。

 三階も二階と同様、四つの部屋があった。秤は夕夜の、エティは狩羽の真上にあたる部屋を使っていた。ここでも同様に客室の鍵は中からしか掛けることができない。今度は夕夜が踊り場に残り、女性二人と野村が見て回るが、何事もなく数分ほどで終わった。

 踊り場で四人が待っていると、数名が階段を降りてくる足音が聞こえてきた。音が近づき、最上階から捜索していた狩羽らが螺旋状の階段を周りながら現れる。四人の表情から収穫が無かったことを感じ取り、狩羽は複雑な表情を浮かべた。それを見てエティが狩羽に尋ねる。

「こちらは部外者も、その痕跡もありませんでしたわ。そちらは?」

「こっちも異常なしでした」

 お互いの報告を聴き、安堵と落胆の表情を浮かべる。それぞれの胸に疑心暗鬼の念が首をもたげる中、狩羽が口を開いた。

「食堂へ戻りましょうか。少しでも食べておかないと気分が沈むばかりですし」

「簡単なものでよければ、すぐに準備致します」

 宗善の死体を発見してから時が過ぎ、また捜索で体を動かすことにより皆、空腹を感じれる程度まで衝撃から立ち直っていた。ぽつりぽつりと会話を交わしながら、八人はそろって食堂まで降りる。

「夕夜様。後でお時間を頂けませんか?」

 歩きすぎたといった様子で、気だるげに階段を下りる夕夜の隣へ、葵が近づいて耳打ちした。

「構いませんが」

 彼女の顔も見ず、聞き流しているように頷いた。

「ありがとうございます。また後ほど」

 彼女の蒼白だった顔に、わずかに赤みが差した。薄桃色の唇を緩ませ小声で礼を言うと、そそくさと夕夜の隣から離れていく。二人のやりとりを最高尾の小夜が気づき、興味深そうに眺めていた。

 食堂に戻ると、皆は朝座った椅子に腰を下ろす。すぐに小夜がサラダを配膳し、皆がそれをつついて居ると焼きたてのトーストにスープ、スクランブルエッグと次々と皿が運ばれてきた。あまりの早さに招待客たちが驚いていると、野村が厨房から姿を現した。

「簡単なもので申し訳ありません。昼食はいつも以上に手をかけますので、今はこれでご容赦頂けませんでしょうか」

「十分過ぎますわ。さすが、元シェフといったところですか」

 エティアは礼を述べつつ、優雅な手つきで食事を始める。

 他の者たちも空腹を満たすように食べ始め、会話も少なく早いペースで朝食を終えた。

 食後のコーヒーが振る舞われる。朝とは違い、その香ばしい薫りを楽しみむ余裕が生まれていた。

「さて、一応先ほどの結果を報告しておきます。まず、私たちのグループは不審者もその痕跡も発見することはありませんでした。そちらは如何でしたか?」

 リラックスした雰囲気に包まれる場に、狩羽がおもむろに口を開いた。野村は首を横に振って答える。

「私たちも特に何も。と言うことは」

「いや、結論を出すのはまだ止めておきましょう。僕の方から、祈祷室の足跡について報告させて下さい」

 表情を固くする野村に手を向けて遮ると、懐から使いこまれた緑のフィールドノートを取り出した。ページを開くと、几帳面な筆跡で細かな数字がびっしりと書き込まれている。彼が最上階で測定してきたデータを発表した。

「僕たちは祈祷室の砂面についた足跡の深さを計測してきました。最も古い、宗善さん発見前から存在していたものは、小数点は誤差として、深さ約五センチ。これは平均値です。」

 夕夜たちが三階分を回ったのに対し、狩羽たちが二階分であったのは彼ら、特に狩羽が地道な調査を行っていたからであった。

「一方、皆さんで部屋に入った時の足跡は約十一センチ、九センチ、七センチの三種類でした。どれが誰の足跡であったのか定かでは無いのですが、普通に歩けば重量に比例すると思われます。よって最も深いものが秤さん、中程度が他の男性陣、浅いものは女性陣と言ったところかと思います」

 狩羽は、これは全ての足跡についてランダムに百個抽出し、計測した結果でると補足した。全員分を測定したとなると最も古いと言ったものを足して九百。手分けしてデータを取ったとしてもかなりの労力が必要であろう。だが必要とあればそれを実行する、彼の普段の研究方式が伺えた。

「確認のためにその場で私が歩いた足跡は十センチでした。つまり一時間ほどで約一センチ浅くなったようです」

「なぜ足跡の深さなんて計ったのですか?」

 エティアは人指し指を顎に添え、小首をかしげる。同じく目を白黒させている者たちに向け、狩羽が説明を始める。

「時津方さんの死亡時刻を、大まかにでも推定できないかと思いまして。体格から、宗善さんの足跡の深さは私と同程度、つまり十センチくらいではないでしょうか。それが五センチまで浅くなっているとすると、彼があの場に到着したのは五時間前程度の時間が経過していたと思われます。僕と野村さんが宗善さんの遺体を発見したのは朝の七時頃、つまりあの足跡は深夜二時付近にできたものではないかと。あくまで推定ですし、大して役に立つデータではないかもしれませんが」

 感心したように頷く面々の中、それまで我関せずと傍観していた夕夜が声を上げる。

「その風化している足跡は、彼一人のものとは限らないのでは。誰かが彼の足跡をなぞるように歩いたかも知れない、または彼を背負って歩いたのかも知れない」

「そうですね。そうなると時刻は大きく前にずれる。ですが」

「前は絞り込めなくても、後ろは絞れる」

 夕夜が引き取ると、狩羽はわずかに笑顔を浮かべながら頷いた。

「はい。最初についた足跡が十センチよりも深ければ、五センチまで浅くなるにはもっと時間がかかる。つまり二時以前は絞り込めません。しかし、少なくとも二時以降ではない事は言えるでしょう」

 狩羽の説明に、エティアが、ちょっと待ってください、と手を挙げた。

「足跡の上に砂を被せて行けば、浅くすることができるのではないでしょうか。殺人者がいたとすれば、クロノス像の足下で宗善さんを殺害し、自分の足跡を均して消しつつ、宗善さんの足跡に砂をかけながら入り口まで戻るのです」

 狩羽はその言葉に一つ頷き、説明を加えた。

「その場合、均した部分や、足跡にかけるために砂をすくった部分の風紋、砂の模様が乱れているはずです。しかし、足跡の周囲にそのような乱れはありませんでした」

「では、模様を描きつつ出て行ったのかもしれませんわ」

「それは難しいでしょうね。風紋は砂と空気の流れという、自然が造り上げる現象です。ごまかそうとしても、どうしても不自然になってしまうでしょう」

「なるほど。まあ確かに、一歩ずつそんなことをしていたら、時間がいくらあっても足りないでしょうし」

「以上のことから、時津方さんがあの部屋へ入ったのは深夜二時以前でしょう。昨夜のディナーが終了したのは十時くらいだったでしょうか? 僕はそれ以降お会いしていないのですが、どなたか時津方さんとディナー後にお会いしていますか?」

 狩羽が面々を見渡すと、奏が白い手を小さく挙げた。

「会ってはおりませんが、お話をしようと十二時前に部屋に行きました。ですが、父は居ませんでした。日付が変わる頃に祈祷室へ行くのが日課でしたので、特に気に留めていなかったのですが」

 奏はそこで言葉を切り、肩を震わせて俯く。狩羽が小さく礼を言い、他にはと問うが誰からも発言は無かった。

「そう言えば、なんで宗善さんは深夜の礼拝を日課にしていらっしゃのかしら?」

 エティアの疑問に、住人たちが顔を見合わせる。野村が首を傾げながら口を開いた。

「私たちも分かりません。ですが宗善様にとってとても大切な事であったようです。体調が優れない日でも、礼拝だけは毎日欠かさずにされていらっしゃいましたから」

「どんな理由があったんでしょうな。お嬢様方はご存じ無い?」

 秤が妙に熱の籠もった目で、向かいに座る二人に問いかける。姉妹は揃って首を横に振った。

「理由はとにかく、日付が変わる前から深夜2時が大まかな死亡推定時刻でしょうか。どなたか法医学の知識があればもっと正確な時間が分かりそうですが?」

 狩羽はそう言って見渡すが、誰もが黙したままだ。

「そんな知識は普通ありませんよね、私もです」

 彼は困った様に苦笑いを浮かべた。

「まあ、警察が調べれば直ぐに分かるでしょう。私はその時間、部屋で寝ていたのですが、皆さんも同様ですか?」

「俺は一時くらいまでここに居た。寝付けなくてね。野村氏につまみを作って貰いながら一杯飲んでたよ、なあ?」

 秤は真っ先に答えると、野村に確認を取る。

「ええ。確か十二時から一時間ほどだったと思います。私はその後ここを片づけ、就寝しました」

「その後、俺も部屋に引き上げて寝たよ」

「エティアさんは如何ですか?」

 狩羽は秤と野村の答えに頷くと、隣に座るエティアに話を振った。彼女は不快そうに流し目で彼を睨む。

「何か疑われているようで不愉快ですわね。私もあなたと同じく、その時間にはもう寝ていましたよ」

「気に障ったのであれば謝ります。只の確認ですから」

 彼は語気を強めて答えたエティアに、両手を広げて謝罪した。

「奏と私は、私の部屋で一緒に居ました。私は先ほど申しました通り、十二時前にお父様の部屋に行きましたが。奏はその間、私の部屋で待っていました、ね?」

「うん。たぶん一分もしないでお姉ちゃんは戻って来た。一時くらいに自分の部屋に戻って寝た」

 エティアの不機嫌な様子に、話を逸らすように自らのアリバイを語る葵。彼女の問いかけに奏が答えると、秤が身を乗り出した。

「お二人は何を話しておられたのですか?」

「それは、答える必要がありますか? 本当にたわいの無い、おしゃべりです」

 葵はちらちらと夕夜に視線を向けながら、秤の質問をはぐらかしている。なおもしつこく食い下がる秤を制す形で、小夜が口を開いた。

「私は十二時前には休んでいました。仕事も終わっていたので。夕夜さんは?」

「部屋に一人で居た」

「変な事をお訊ねしてすいませんでした。野村さんの方で通報は済んでいるようですし、餅は餅屋。宗善さんの件は警察に任せましょうと、それが言いたかったんです」

 狩羽がそう締めくくると、エティアは直ぐに席を立った。

「気分を害しましたので、私はこれで」

「俺も気分転換に、コレクションルームを観させて貰ってくるかな」

 秤が続き、食堂を後にしていく。夕夜が席を立つと、小夜が声をかけた。

「夕夜さん、館内をご案内します。まだコレクションルームとか見てないでしょう? 一緒に回りましょう」

「いや、いい」

 小夜は、即座に断る彼の腕をとる。渋る夕夜を引きずるように、二人は扉を出て行った。

 それを見ていた葵は頬を膨らませている。

「私たちも行こう、奏ちゃん」

「う、うん」

 眉をつり上げる葵に、奏は恐る恐る頷いた。

「朝食が遅くなりましたし、昼食は遅めに致しましょうか?」

 出口へと歩き出した姉妹の背に、野村が声を上げる。葵は振り向かず了承の言葉を返すと、足音を立てて出て行った。

 一人残った野村は肩を竦めると、食器類を片づけ始めた。

「やれやれ。今日はどうなることやら」

 一人で呟く彼の顔は、悲痛な色に染まっていた。

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