第4話
「何と言いますか。彼は不思議な人ですね」
呟くエティアに、狩生が隣で頷いている。質問を二度に渡りはぐらかされたからか、秤は眉をつり上げて顔を赤黒く染めていた。
扉を出て、階段に差し掛かるところに来て夕夜は立ち止まった。
「どこに行くんだ?」
「だから祈祷室ですよ。さっき言ったじゃないですか」
小夜はため息をつきながら答えた。隣に並ぶ夕夜からは、白く細いうなじが襟の間に覗いている。彼女は勢いよく顔を上げ、上目使いに見つめた。
「狩羽さんがご主人様にお願いしてる部屋ですよ。砂だらけになるんで私たちはほとんど行きませんけど。夕夜さんもあそこがお目当てじゃないんですか?」
「別に興味ない」
「いったい何をそんなに一生懸命考えてるんですか? そんなに面白い事なら話してくれてもいいじゃないですか」
「機会があったら」
目をつり上げて詰め寄る彼女を軽くいなし、夕夜は階段に足を向けたると、なおも恨みがましい視線を注ぐ小夜には構わず案内を促した。彼女は口をとがらせたまま夕夜の隣をすり抜け、二人は最上階へと向かう。四階まで昇り、やがて最上階という所で小夜が振り返った。
「夕夜さん、意外と紳士なんですね」
先ほどまでの不満顔から一転し、華やかな笑顔を夕夜に向けている。何のことか分からないといった表情をする彼に、小夜は階段では男性が後から続くのがマナーだと説明した。
「知らなかったんですか? でも、知らずにしてたってことは家柄の良い家庭で教育を受けたんですね」
「初めて来た場所で先導なんてできるか」
万事好意的に解釈する質なのか、良いように取る小夜を突き放すように言った。
「嘘でも頷けば良いのに。夕夜さんは正直過ぎて人生の半分を損してます、主に女性関係で」
小夜は笑いながら言うと、再び階段を上がり始めた。日頃エレベーターに頼りきっている夕夜は、僅かに乱れた呼吸を整えて後を追う。最上階に着くと、暴風が二人を襲った。入口と同じく、四方から強烈な風と耳を塞ぐほどの音が叩きつけられる。
「ここも『洗浄』があるんです!」
左手で暴れる髪を押さえながら、小夜はファンの音に負けじと大声で告げる。やがて風が収まると彼女は手櫛で髪を整え、夕夜は乱れた髪のまま憮然とした表情をしていた。
「怒りました?」
「別に」
彼は堅い声で応じ、前方にある扉に目を向けた。この『洗浄』スペースと中の祈祷室を分ける大きな鉄製の扉。扉は館の中央を貫く砂時計のガラスに埋め込まれている。ガラスは透明度が高く、目を凝らさなければ分からないため、扉だけがそこに立っているかのようだ。
「変な部屋ですよね。今がチャンスなんで早く中に入りましょう」
小夜はそう促し、埃ひとつ付いていない銀色の取っ手を重そうに押し下げてロックを外した。そして両手を扉に押しつけて押し始める。
「見てないで手伝って下さい。これ重いんですから」
歯を食いしばりながらの要求に、夕夜は並んで扉を押す。砂粒の擦れる音を立てながら扉が開くと、二人は中へと入る。今度は内側から押して扉を閉じると、ロックのかかる音と共に扉が閉ざされた。
室内に入ると、確かに砂時計の砂の上といったように、円形の部屋全体に渡って床が砂に覆われていた。むしろ砂漠に巨大なガラスが被さっているといった風景である。
外は吹雪となっていた。厚い雲に遮られ、すでに周囲は薄暗い。大粒の雪がチラチラと光っては流れていく。上を仰ぐと、吹き付ける雪は遙か高い地点で不可視の屋根に遮られている。雪は透明なガラスの内部に通された電熱線のおかげで積もることなく溶かされ、丸みを帯びた形状に沿って流れていく構造になっていた。
祈祷室と呼ばれるこの部屋は、椅子などくつろぐため調度は一つも無かった。足跡一つない砂漠が広がり、砂の作る流れるような風紋が非日常的な空間を演出してる。中央には一体の石像があるが、それは大きな鎌と砂時計を携えた、異国の神を象っていた。周囲を見渡している夕夜の手を引き、小夜は石像へと向かって歩き出す。
「本当に凝ってるでしょう。さっき狩羽さんも言ってましたけど、ここの砂は海外の実際の砂漠から持ってきたんですって。壁と天井は透明な材料を使ってるんですけど、強度を持たせるために結構な厚みで、でも普通のガラスよりも軽いんですって」
銃弾も通さないらしいですよ、と解説しながら、彼女は踏み出す度に沈む足をせかせかと動かして進んでいく。夕夜は引かれていた手をさりげなく払い、彼女の後に続いて足跡を刻んでいった。
「これ、クロノス像です。時の神様なんですって。エティアさんが言ってました」
二人は石像の周囲に敷かれた大理石の台で足を止めた。夕夜は無言のまま、見上げる高さにあるクロノスの顔を眺める。細部まで彫り込まれ、険しい表情が見事に表現されていた。ひざまずく者にその大鎌を降り降ろさんという躍動感がある。
「怖い顔ですよね。お祈りしてたらバッサリ斬られちゃいそう」
無表情なままで観察を続ける夕夜に話しかける小夜。もはや反応が無いことに慣れたのか、一方的に語りかけている。
「なんで時の神様にお祈りするのか分からないんですよね。お父さんも分からないって言ってたし。ここのお掃除はお父さんの担当なんです。ここに来ると髪がくしゃくしゃになっちゃうんで。あ、そろそろ出ましょう」
再び彼の手を取ろうとする小夜から逃れるように、夕夜はあっさりと来た道を戻りだした。横に並び早くと急かす小夜に、彼は理由を尋ねる。
「急がないと風が吹いてくるんですよ。今は凪のタイミングなんで良かったんですけど、ひどい時は砂嵐みたいになります。そしたら砂が髪にからむし服に入るしで最悪です」
「凪の後はいつも嵐になるのか」
「いいえ。特に時間で決まって無いみたいで、ランダムな感じです。チャイムの方は時間が決まってますけど、そっちも居合わせたら大変な事になります。早く早く」
説明したり急かしたりとせわしない彼女に対し、夕夜は焦ることなく歩いている。無風状態のまま扉にたどり着き、小夜がほっと息をつく。
内側からロックを外し、二人で扉を押し出すと風が急激に強まって来た。顔を打つ砂に夕夜は顔をしかめ、小夜ははしゃいだ悲鳴を上げながら必死で扉を押している。わずかに開いた隙間から転がり込むように出て、扉を閉じる。すると今度は『洗浄』の強風にさらされた。夕夜はもはや慣れたと風に身を任せ、小夜は髪をかきあげてからまった砂を飛ばしている。
「だから言ったじゃないですか。夕夜さんのせいですよ」
口調は夕夜を責めているが、表情は楽しそうに笑っていた。着替えなきゃと言いつつ、胸元を摘んでいる彼女を放置し、夕夜は階段へと向かった。
「もう。一言くらい謝って下さいよ」
「申し訳ない」
「心が全く籠もってないですよ」
そんなやりとりをしながら、小夜は彼の後に従って階段を降りる。
「やっぱり紳士ですね。降りる時は男性が先なんですよ」
「そうか。知らなかった。俺は部屋に戻らせて貰う」
「怒ってます?」
「いや」
階段を降りながら、後ろから彼の顔をのぞき込むように小夜は首を伸ばす。彼の変わらぬ無表情に首を傾げ、そうですかと頷いた。
「夕食の準備ができたらお呼び致します。何か御座いましたら内線からお申し付け下さいませ」
今更のように給仕口調に戻る小夜に、片手を挙げて答えると夕夜は割り当てられた部屋へと戻って行った。
「きちんと鍵はかけた方が良いですよー。さっきコーヒーに呼んだ時は鍵開いてましたよー」
小夜は三階の踊り場で夕夜を見送りながら、部屋へと入る彼に呼びかける。やはり聞こえた様子もなく閉じられた扉に前で深くため息を付く。彼女は扉を冷めた表情で一別すると、階下へと降りていった。
独り客室に戻った夕夜は、真っ直ぐにベランダへと向かう。仕立ての良い黒い漆塗りのテーブルから灰皿を取りると窓のサッシに置いた。煙草に火を付けながら鍵を外し、窓を押し開ける。
風向きの関係で雪は直接吹き込んでこないが、気流に乗って雪の粉が室内まで舞い込んで来る。彼がここに到着してから数時間のうちに、ここまで続いていた道が分からなくなるほど雪が降り積もっていた。
眼下に広がる灰色の景色を、心ここにあらずといった様子で眺めている。遙か遠いどこかを見るような黒い瞳。そこには不可能に挑戦していると自覚している諦めと、それでも止まることのできない、魂の病に冒された熱が同居していた。それは見るものによっては魅力的であろうが、多くの凡庸を望む人々には畏怖の対象となる、そんな輝きを宿していた。
一時間ほど経った頃、小さくノックの音がした。中の反応を待つように少し待った後、今度は少し強めに扉が叩かれる。夕夜はベッドの縁に腰掛け、そこに参考資料を広げたまま動かない。開けますよー、と一言かけつつ小夜が入ってくる。
小夜はまたも鍵がかけ忘れられていた事に顔をしかめつつ室内を見回し、書籍や論文が散乱するキングサイズのベットに唖然とした表情を浮かべた。
彼女はしばしの硬直から立ち直り、声をかけながら夕夜に近づく。英語の文献に没頭している様子の夕夜は、彼女の入室に気づいていないようだ。小夜は興味深そうに彼が持つ論文を横からのぞき込む。
「なんだ?」
驚きもせずに問いかける夕夜に、小夜は半眼で返す。
「夕食の準備ができたんで呼びに来たんです。聞こえてたなら返事して下さいよ」
「いや、全く気づかなかった」
悪びれもせずに答える彼を、小夜はじと眼で睨む。
「早く行きましょう。他の皆様はもう揃ってますよ」
名残惜しそうな夕夜と連れ立ち、二人は部屋を出た。
一階の食堂に入ると、二人以外は席に座っていた。既に前菜が並べられ、使用人の男が飲み物を注いで回っている。
女性の肖像画と振り子時計を背負い、老人が泰然と座している。ただ座っているだけで威圧感を放つ老人が、この館の主である時津方宗善(ときつかたむねよし)であった。白が混じってきてはいるがまだ豊かな髪を後ろに撫でつけ、鷲鼻と一重の鋭い目、鋭角な輪郭。還暦を過ぎてなおエネルギーに満ちた、若々しい印章を見る者に与えていた。
無言で座す存在感に誰もが口を閉ざし、主の言葉を待っている。着席した夕夜に飲み物を注がれるの待ち、宗善はおもむろに口を開いた。
「皆様揃われたようだな。これだけの人数が集まることは珍しい。滞在中はあいにくの天気が続くようだが、くつろいで行ってくれたまえ。では戴こうか」
宗善が低く通る声で挨拶をし食事に手をつけると、皆それに習う。主の放つ空気に、皆が申し合わせたように従っている。
座席は宗善の左手側に夕夜ら訪問客が並ぶ形となっており、彼に近い順に秤、エティア、狩羽、夕夜となる。夕夜の席は最も入り口に近い末席であった。一方、宗善の右手側には彼の長女、次女、使用人の男、小夜の順で並んでいた。夕夜の向かいの席は小夜となっている。
しばし無言で食事を進めた後、頃合いを計ったように宗善が各自の紹介を始めた。
「さて、本日は初めて見えた客人も居る。私からこの場を借りて紹介しよう」
皆自然と手を休め、主の言葉に耳を傾ける。
「これが長女の葵(あおい)、そちらが次女の奏(かなで)だ」
紹介に合わせて二人が会釈する。どちらもすっきりとした顔の輪郭は父親譲りのようだが、大きな二重の瞳は母親のものだろう。姉妹は良く似ているが、艶やかな黒髪を葵は結い上げ、奏は背に垂らしていた。
「彼は野村、野村聡次(のむらそうじ)。使用人として食事から館内の諸々をこなしている」
「何なりとお申し付け下さい」
野村は椅子から立ち上がり、腰を折って頭を垂れた。短く刈り込まれた髪はすべて白くなっており、顔には多くのシワが刻まれているが肌の張りはまだ壮年のものだ。長い一礼から戻した顔は笑みが張り付いているが、どこか悲哀の色が滲んでいた。
「こちらは娘の小夜です」
執事のように背筋を伸ばして立つ野村は、隣の小夜を示しつつ紹介した。小夜は立ち上がり、野村と同様に深くおじぎをした。
「以上がここの住人だ」
野村と小夜が座ると、険しい目つきをした宗善が住人の紹介を締めくくった。続いて彼は左手を示し、招かれた者たちが紹介される。
「彼は秤君。仕事上で様々な事を依頼している」
「今日はお招き頂きありがとう御座います。時津方様も変わらず、お嬢様方はますますお美しくなられて」
主の紹介に対して、秤は社交的な笑みを浮かべつつ慇懃に頭を垂れた。長年のつき合いでここには何度も訪れている秤を、住人たちは心得た様子で見ている。
「彼女はエティア氏。私のコレクションについて色々と相談させて貰っている」
「いつもご招待を楽しみにしております。今回も新しい品を拝見させて頂けるとのことで、胸がワクワクしてますわ」
エティアは青い瞳を輝かせながら、宗善と住人に対してそれぞれ軽く会釈をして座った。
「そして初めてお越しの二人。狩羽司氏と神沼夕夜君だ。二人とも研究を生業とされている」
「狩羽と申します。研究者としてこちらの館をお借りできないかとお願いしましたところ、下見も兼ねてとご招待戴きました。お招き頂きありがとう御座います」
「神沼です。教授の代理で参りました。教授に代わりましてお詫びと、お礼を申し上げます」
順に挨拶をする二人に、住人たちの視線が向けられる。長女の葵は驚いたように瞳を大きくして夕夜の顔を見つめていた。その隣では、奏が夕夜と狩羽に疑い深い目を向けている。
宗善は片側の口角を釣り上げ、興味深そうに夕夜を見た。
「神沼君の先生には毎年お願いしていたのだが、お忙しい方で予定が合わなくてな。代わりに懐刀を、と言われたよ。彼女にそこまで評価されるとは、若いのに本当に優秀なようだ」
「いえ、一介の学生です。教授からは、時津方様にくれぐれも粗相のないようにと繰り返し伝えられております」
夕夜は年長者の貫禄に臆した様子もなく、淀みなく答えた。宗善はそんな様子を気に入ったのか、大きく頷く。横では、葵が頬を上気させて夕夜を注視していた。奏は瞳だけ動かして、そんな葵と夕夜を交互に見ていた。
一通り紹介が済むと、宗善は次の料理をと野村に命じた。野村が奥へと消え、それを追うように小夜も席を立つ。そこで宗善は彼女に銘柄を告げ、ワインを持ってくるようにと指示を出した。
小夜がワインを手に戻ると、宗善は鷹揚に頷き、夕夜にとっておきの品だと薦めた。
「まさかそんな高価な品まで取り揃えていらっしゃるとは、時津方様はまさしく真の美食家ですな」
「なに、そんなに大層なものではない。今日は気分が良い。皆で美酒を飲むのも悪くないだろう」
揉み手でへりくだる秤に、宗善は相好を崩した顔で応じた。
「神沼君、歳は?」
「今年で二十五です」
「そうか。年上の嫁はどうだ? 葵にそろそろ婿をやらねばならんと思っていたところだ。不束な娘だが、貰ってやってくれないかね?」
唐突に始まった縁談に、場が一瞬ざわつく。葵は恥入るように俯き、机の下で指先を絡めている。招待客は皆、夕夜へと視線を向けた。
夕夜はいくつもの視線を受けながら、沈痛な表情を張り付けて机につかんばかりに頭を下げた。
「有り難いお話で光栄であります。ですが私はまだ研究者の道に至ってすらいません。この世界で身を立てることも叶うかどうか分からない。そんな身でお嬢様の一生を預かるようなことはできません」
「昔から大仕事を成すためにはまず身を固めよと言う。君も嫁をとれば色恋沙汰に惑わず、研究に邁進できるのではないかね。男は責任を背負うことで、大きな仕事ができるものだ。それとも、葵では不服かな?」
「滅相もない。私では不釣り合いな程に素晴らしい女性でしょう。ですが、やはりこのお話は承諾できません」
「なぜだ? 既に思い人が居るのか?」
首を縦に振らない夕夜に、宗善の声に苛立ちが募る。彼はそれに気圧されることなく、静かに言葉を続けた。
「私の心は、ある数式に捕らわれています。追い求めるものはあまりに遠く、一生を捧げても届かないかもしれない。今はそれ以上に心を割く余裕が無いのです。それは葵様にとって、あまり不実でしょう」
夕夜は俯き、顔をゆがめて詫びた。どことなく演技じみているが、居合わせる者はそれに気づいていないようだ。唯一、秤だけは疑わしそうに眉をひそめている。
これまで黙していた狩羽は、夕夜の言葉に何度も頷いた。
「神沼君、確かに真理とはそういう物だね。人生を、命の全てを賭して尚、届かない。君は必ず大成するよ」
彼の研究にかける情熱に共感するものがあったのか、狩羽は腕を組んで感心していたが、隣の夕夜にだけ届くように声を潜めた。
「だが、気をつけた方が良いと思う。君は優秀過ぎるようだ。身を捧げて叶わなかった時、他に寄る辺がないと破滅するよ。そんな人たちを僕は大勢見てきたから」
「それでも、今は他の事に割く時間は無いのです」
夕夜は口を小さく動かし、狩羽に応じる。その言葉に、狩羽はまぶしそうに目を細めていた。
宗善は憮然とした表情で黙考していたが、やがてその口元がわずかに釣り上がっていく。主は腕を解くと、テーブルに肘をついて顎を乗せる。審判を告げる言葉を、同席者たちは固唾を飲んで見守っていた。
「分かった。ここは私が引こう。だが君の将来性についての評価は、私の中で更に高まった。今後も注目に値する男のようだ」
そこで言葉を切ると、宗善は纏っている空気を一変させる。
「だが、葵が君を気に入るかは別だぞ。こう見えて私は子煩悩でな。葵がノーと言えばこの話は無しだ。どうだ?」
厳めしい顔に似合わぬウィンクでおどけ、隣にいる葵に問いかけた。静かに下を向いていた彼女は、耳を赤く染めながら答える。
「お父様の判断に従います。私も、神沼様は、その、素晴らしい方だと思います」
「そうかそうか! 神沼君、三年待とう。それまでに気が変わればいつでも婿に来い。待っているぞ」
「心に留めておきます」
もう一度頭を下げ、夕夜は無表情に戻った。父親の顔で喜ぶ宗善を、エティアと狩羽は微笑ましく見ている。一方、秤は苦々しい顔で唇を噛んでいた。
話が一段落したところに、野村が銀のワゴンを押して厨房から現れた。そこから漂う、食欲を刺激する香りに、自然と皆の目が集まる。野村と小夜が各人の前に皿をおいていくと、その料理を見た者からは感嘆の声が漏れた。
その後は穏やかなムードとなり、宗善が話題を提供し、和やかな会話と女性たちの華やかな笑い声が飛び交う場となった。夕夜は無難な受け答えと曖昧な笑みでその場を乗り切り、晩餐はお開きとなった。
「では、私は先に失礼させて貰おう。後は各人ゆっくりと過ごしてくれ」
そう言って宗善が席を立ち、それに習うように次女の奏も食堂を後にして行く。残った者たちはワインを片手に、会話を続けていた。
役目は終わったとばかりに部屋へ戻ろうとする夕夜を、小夜が呼びとめる。彼女はわざとらしく首を傾げた。
「夕夜さん、これから食後のコーヒーをお持ちしますが?」
彼がその言葉に頷き席に戻る。そこで、葵と目が合った。おずおずといった様子で、彼女は夕夜の前の席へと移って来る。特に気にした風もなくコーヒーを待つ彼を、アルコールで潤んだ瞳が見つめた。高級ワインに似た深い紅のワンピースの胸元は広めで、白い鎖骨が覗いている。光沢のある生地で作られた装いは、髪を結い上げた彼女の雰囲気と良く合っていた。
「小夜とは、もう親しくなられたようですね?」
「いえ。少し世話になった程度です」
探るような問いかけに対し、表情を変えることなく告げる。その答えを聞くと、彼女は肩から力を抜いた。安堵した様子で息を吐くと、はにかんだ微笑みを浮かべた。
「私、これまであまり外へ出たことが無くて。若い男性とお話するのが苦手なんです。お父様からはよく世間知らずと言われてます」
「私も同じようなものですよ。いつも研究室に籠もっていますから。一日中、誰とも会話しない日もあります」
「そうなんですか。あの、夕夜さまとお呼びしても良いですか?」
「夕夜で良いですよ」
「私は、葵でお願いします。夕夜さまのなさってる研究とは、そんなに難しいのですか? 自分の全てを注いでいる姿が、その、とても」
「そうですね」
ワンピースの袖からすらりと伸びた細い腕。両手の長い指を絡ませながら恥ずかしそうに話す彼女に、夕夜は片手間のように会話をしている。相づちだけではさすがに失礼と悟ったか、彼は黒いガラス玉のような目を葵に向け、言葉を足した。
「これまで偉大な物理学者たちが破れていったテーマです。己の無知、発想力の貧弱さを突きつけられる毎日です」
「それは楽しいのですか?」
「いえ、全く」
即答する夕夜に、葵は力を込めれば手折れそうな、細い首を傾げた。
「ではなぜ続けるのですか?」
「美しいからです」
その答えに、彼女はますます疑問符を浮かべている。夕夜が続けようとした時、目の前にコーヒーが置かれた。
振り向く夕夜の後ろには、トレイを胸の前で持った小夜が立っていた。横で野村が昼間に小夜がしていたように、砂糖壺を上下に振っている。それを見つめる夕夜の視線に気づき、小夜は小さく赤い舌を出した。
「お父さんも、もう癖になっちゃってるんですよ。ところで」
夕夜と葵に向け、小夜はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「葵さんを口説いてるんですか?」
「ちょっと小夜!」
慌てて大声を上げる葵と、動ずる事無く否定する夕夜。二人の反応を見て小夜は小さく笑い、葵に謝った。そのやりとりを聞きつけたのか、秤が近づいて来た。
「隅におけないなぁ、君。でも、女性と会話するならもっと楽しい話題にしないといかんぞ」
座っていた椅子を夕夜の隣まで運び、どかりと座る。しっかりとした造りの椅子がきしんだ音を立てた。表情を堅くする葵に向け、こんな話はどうです、と自身の左手を掲げる。
「世界でもっとも高価な時計をご存じですかな? 一人の女王のためにおよそ半世紀の歳月をかけて作られた、ある懐中時計の話です。金で設えられ、サファイアブルーの針が時を刻む文字盤はクリスタルガラス。宝石など過度な装飾は無く、内部に透けて見える貴金属の無数の細かな歯車はエレガントで、どのような宝石よりも繊細で美しく。推定価格は五十億を降らぬと言われまる。そんな時計のお話です」
夕夜は言葉を発する必要が無くなったと判断したのか、一人長い息をついた。コーヒーの味わいに意識を向けた彼を見て、葵は細い眉を寄せた。
「それは『プラゲNo.160』、通称マリーアントワネットと呼ばれています。その名の通り、かの女王が斬頭台の露と消える前に注文されました。金額も納期も問わない、世界最高の時計を女王にと依頼を受けた時計士。彼こそは、現在でも世界最高級の時計メーカーとして知られるプラゲ社を創設した伝説の時計士であるアブラアンールイ・プラゲです。彼が直径約6センチの懐中時計に込めた技術により、時計の歴史は二世紀進んだと言われています」
身を乗り出して語る秤からは、アルコールの臭いが漂う。避けるようにわずかに身を引く葵だが、なんとか笑顔を保っている。それを気にとめること無く、秤は一人語り続ける。
「現在でも時計の四大機構と呼ばれる永久カレンダー、ミニッツリピーター、トゥールビヨン、スプリットセコンド。その内二つ以上を備えているものは『グランドコンプリケーション』と言い、一千万円は軽く越える。取り分けミニッツリピーターの複雑さは筆舌に尽くし難い。一時間、十五分、一分をそれぞれ表す音色が、使用者に暗闇でも時間を告げてくれます。三つのゴングとそれを鳴らすハンマーを小さな時計に配置するという選ばれし者が作る、選ばれた者だけが持つことのできる一品です。この時計にもミニッツリピーターが備わっています」
秤はずっと掲げていた腕時計を、丸く太った人差し指で示した。結局自慢話をしたかったらしいと分かり、立っていた小夜は逃げるように離れ、話し込んでいるエティアと狩羽の会話に加わっていった。葵はそれを羨ましげに見つつ、無理やり作った笑顔を秤に向ける。
「では秤様のそちらの時計も、とても高価なのでしょうね」
「それほどでもありませんがね。ざっと百万ほどですよ。似たようなのを幾つも持っているので忘れてしまいました。機能美に満ちた時計を見るとつい買ってしまうのです」
機能美とはほど遠い、成金趣味にしか見えない腕時計を右手でさすり、秤は赤ら顔で椅子にふんぞり返った。
葵が助けを求めるような眼差しで夕夜を見るが、彼は思考に没頭している。ひたすらに続く秤の自慢話を遮ったのは、エティアの言葉だった。
「そこまでにしておきなさい。見苦しいですわ」
「なに?」
怒声をあげてエティアを睨む秤を、狩羽が手を広げて二人をなだめる。
「まあまあ、お二人とも。今日はおいしい料理とお酒で素晴らしい食事でしたよね。つまらない諍いで後味を濁すのは辞めましょう。この料理は野村さんが作られたのですか?」
「ええ。昔とったきぬずかといったところですが」
秤の怒声に慌てて厨房から駆けつけ、狼狽していた野村が照れたように頭を掻いた。
「本当に美味しかったですよ。僕はこう見えて調査で色々な国へ行くので、少しは舌が肥えているつもりなんです」
野村は顔の前で手を振って謙遜しつつ、かつては自分の店を持ちシェフをしていましたので、と答えた。
「どういった出会いで時津方さんの使用人となられたのでしょうか?」
秤とエティアの諍いから話を逸らそうと狩羽は話を膨らませているようだ。それを感じ取ったか、野村は話し難そうに己の過去を語りだした。
「亡くなられた宗善様の奥様は、私の妻の姉でした。その縁もあり私が店を構える時には出資もして下さりました。ですが料理の腕が悪かったのか、私が経営に関して素人過ぎたのか。景気の悪化と共に店は傾き、私は夫婦で路頭に迷うことになりました。借金も返せず右往左往していた私を、宗善様が拾って下さったのです。夫婦揃ってこの屋敷に使用人として迎えて頂き、なんとかここまで生きてこられました」
「そうだったんですか」
狩羽は沈んだ声で俯いた。湿った話に怒りも冷めたのか、秤とエティは押し黙って野村を見つめている。昔のことです、と野村は諦めと悲哀の混ざった笑顔を浮かべた。
「妻は二十年ほど前に逝きました。小夜は忘れ形見です」
野村は暗い目で小夜を見つめた。その視線の先にいる小夜は、何も言わずに佇んでいる。
「ごめんなさい。話しづらい事を聞いてしまいました」
「良いんですよ。宗善様にお世話になった恩を返したくて、ここで小夜と一緒に働かせて貰っています」
「皆さん、今日はそろそろ引き上げましょう。野村さん、色々と詮索をするような事をしてしまい申し訳ありませんでした」
野村に頭を下げて立ち上がる狩羽に続き、訪問者たちは連れだって食堂を後にする。彼らの背中に朝食の時間を告げ、野村は厨房へと戻っていった。
部屋を出た面々は無言で、階段をぞろぞろと上る。二階に秤とエティア、三階に狩羽と夕夜の部屋がある。葵ら時津方家の人々は四階に部屋があった。一人部屋に戻った夕夜は、いつになく動き回ったせいか鈍る頭を振り思索を続けようとするが、いつしか睡魔に飲まれて行った。
和やかとも言える一日が過ぎ去った。館の外は吹雪となり、止む気配はない。それはこれから起こる出来事を暗示するかのようであった。すなわち、宗善の死体が祈祷室で発見されるという未来を。
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