第3話

 翌朝。目的地の最寄り駅までは電車でおよそ三時間、そこからバスで一時間揺られ、文明社会の最果てのようなバス停に迎えのタクシーが来ていた。昼過ぎには洋館へ着くことができるだろう。

 車に揺られながら、いつものごとく思考に没頭していると、着きましたと運転手の声がした。代金は既に支払われているらしい。運転手がトランクから荷物を取り出す間、彼は周囲を見回す。

 周囲はまさに山の中といった景色で、葉を落とした広葉樹の森林となっていた。日本海側の冬にふさわしい重く陰鬱な曇り空から、ちらちらと雪が落ちている。肌寒さに灰色のコートの前を合わせると、彼の荷物を降ろして去っていくタクシーを見送った。

 彼の通う大学も市街地から離れた山中にあるが、ここまで世俗と切り離されてはいない。確かに気分転換として悪くないかもしれないと感じたのか、夕夜は一人頷いていた。

 肩に食い込む荷物を抱え、雪を受けて湿りつつある地面を歩く。館へ通じる道は、ここまで揺られてきた舗装されていない細い路のみ。大きくカーブした道を曲がると視界が開け、目指す洋館の全貌が見えた。

 厚い雲に遮られ茫洋とした光の中、黒い石作りの建造物が周囲に馴染むことなく佇んでいる。館は黒い箱のような面白味の無い外形をしているが、最上階にあたる部分は内部が透けて見えている。そこはなぜか薄い褐色をしており、その濃淡が刻々と変化している。彼はそれを不思議そうに見つめていたが、寒さに負けたように歩みを再開した。

 入り口付近は積雪対策のために数段の階段があり、その先にくすんだ木製の扉がある。荷物の重みと日頃の運動不足で、数分歩いただけで既に足が重くなったのか、大儀そうに階段を上る。古めかしい真鍮のドアノッカーを二つ鳴らすと、はーい、と中から若い女性の声が答えた。

「ようこそいらっしゃいました」

 きしんだ音を立て、ゆっくりと内側から開く扉。その向こうにいたのはメイド服を折り目正しく着こなした少女だった。彼女は腰を曲げ、夕夜に向けて深くお辞儀をした。

 栗色の艶やかな髪が肩口で軽やかに跳ねている。切りそろえられた前髪の下にある長いまつげが印象的な少女だった。

 荷運びを手伝うとの申し出を断り、夕夜は書籍でずしりとしたバックを持ち直して中へと入る。

「あ、気を付けて下さい」

 扉が閉じる寸前、彼女は円らな瞳を細めた笑顔で告げる。夕夜が聞き返す間もなく、強烈な風が上下左右から吹き付けてきた。夕夜の中途半端な黒髪が絡むように乱される。壁面はもとより、床と天井にも全面にしつらえられたファンが激しく回転し、強烈な風と轟音を生み出している。夕夜は反射的に腕で顔をかばい、揺れる体を丸めて耐える。彼女はそんな夕夜とは対照的に、慣れた様子で瞳を閉じ直立していた。

 数十秒ほどたち、風が止み周囲が静寂に戻った。ぼさぼさになった頭を振り、何事かと目で問いかける。視線に気づいた彼女は、困惑した浮かべた。

「お知らせが届いていませんでしたでしょうか? お館には高価なコレクションもあるので、塵などを持ち込まないようにと入り口で洗浄しているんです」

 直接案内をしていなかったことを詫び頭を下げる彼女に、夕夜は肩を落とした。

「聞いていませんが恐らくただの嫌がらせなので、あなたは悪くない」

 諦めたように乱れ髪で答える彼の姿に、少女はあいまいな笑顔を作った。

「えーと、きっととても仲が良いんですね。私は野村小夜と申します。ここで給仕のようなことをやってます」

「神沼です。教授は外せない出張で、代わりに参りました」

「敬語を使わなくて良いですよ、夕夜さん」

「そうか。まだ『洗浄』が続くのか?」

 唐突に名前で呼ばれるが、夕夜は戸惑うそぶりも見せなかった。

「これで終わりです。中へお入り下さいませ」

 スイッチが切り替わるように、小夜は給仕らしい口調と態度で中へ導く。『洗浄』の言葉にこもった揶揄には気づかなかったか、あるいはあえて気づかない振りをしたのか。

 外の扉と異なり、数歩先にある扉は鉄製で、中央には施錠のハンドルがついていた。扉と壁の間には厚いゴムが設えられ、内外を完全に遮断している。小夜がハンドルを回すと、重い音を立てて扉がゆっくりと左右に開き、内部から空気が流れて来る。この一角は常に排気されており、陰圧にすることで粉塵の流入を防ぐ機構になっていた。

 鋼鉄のレールをまたぎ室内に入ると、広間となっている。赤い絨毯のしかれた床に、天井から白熱灯の光が柔らかく当たり、繊細な細毛が見る角度により色合いを変える。壁は白く清潔に保たれて、手入れの行き届いていることを感じさせた。部屋の中央には砂が詰まった巨大なガラスがあり、そのガラス下は床に埋め込まれ、上は天井を抜けて上階へつながっているようである。その砂の入った巨大なガラスは、己こそがこの館の中心であると主張していた。

「これ、おっきな砂時計なんですよ」

 怪訝そうに眺めている夕夜を促して砂時計に向かって歩きながら、小夜は慣れた様子で説明を始めた。

「このお屋敷は五階建てになっていて、一階と二階が砂時計の下半分、三階と四階が上半分を囲んでる感じなんです」

「五階は?」

「砂時計の上です。五階は祈祷部屋しかないですけど、ちょうどここに詰まってる砂の上に立てるんです」

 ぺしぺしと砂時計を叩きながら、綺麗なんですよと、小夜は言う。

「一階はこの広間と、右手に食堂、左手に遊戯室があって、このちょうど向こう側が厨房です。夕夜さんはビリヤードしますよね。こう見えて私、結構上手いんですよ。勝負しましょう」

「やったことも無い。なんでそう思った?」

「だって大学生なんでしょう? 大学生と言えばちょっと大人の遊びをし出すってイメージですし。夕夜さん指が長いから上手そうな気配がします」

「偏見だ。やりたいと思った事もない。付き合う時間は無いから他をあたってくれ」

 頬を膨らまてせてせがむ小夜をさえぎり、夕夜は部屋はどこかと聞いた。小夜は不満げながらも夕夜を先導し、砂時計の周囲を回る階段を上がる。階段の踏み板は木製だが手摺りは黒い鋼鉄となっており、それを何本もの鉄柱が支えている。入り口から左手へと砂時計の半周をぐるりと回ると、天井を抜け上の階に着く。二階は砂時計の円周が小さくなるため一周で三階へと上がる。砂時計のくびれた部分は二階と三階の間にあたり、見ることはできなくなっていた。見栄えの問題か階段の幅は狭く、二人がすれ違うのが精一杯といったところである。

 階段はここしか無くて掃除など不便でしょうがないと、聞かれてもいないことを小夜はしゃべっている。意識の片隅で受け答えするように適当な相づちを打ちながら、夕夜は小夜に続き三階まで上った。

「こちらをお使い下さい。室内は禁煙ですが、ベランダでしたら喫煙して頂いて構いません。後ほど灰皿をお持ち致します」

 再び給仕調に戻り、窓際のサンルームを示して小夜が告げた。訝しげに夕夜が見ると、匂いで分かります、と小夜はにこやかに答えた。優秀を通り越して恐ろしさすら感じたのか、彼は頬をひきつらせたが、部屋が禁煙でないことに安堵したように胸をなでおろしていた。

「まだ何かあるのか?」

 肩を庇いながら重い荷物を降ろし、煙草を取り出してベランダに向かう夕夜を、小夜は未だ入り口に立って見つめていた。

「夕夜さんは大学ではどんな研究をしてるのですか?」

 興味津々という様子で訪ねる小夜に、夕夜は眉間にしわを寄せた。

「なぜそんな事を訊く?」

「単純に興味です。お父さんから凄い先生が来ると聞いてたので、どんなに難しいことをしてるのかと思って」

 夕夜は腕を組み、難しい表情をしている。

「大学でずっと何をしてるんですか?」

 何が楽しいのか、何の役に立つのかと質問し続ける小夜に対し、夕夜はしばらく沈黙を続けていたがようやく、今は、と口を開いた。

「今は、精神について」

 短く答え、それ以上を告げようとはしない。その姿に納得したのか、研究は先に発表した人の勝ちなんですねと、小夜は大きく頷いている。

「何か理由があってここに来たんじゃないんですか?」

「只の嫌がらせだ」

 夕夜が即答すると、今度は小夜が眉をしかめた。

「そうなんですか? 今いらっしゃっている人たちは皆さん、何か調べたくて来てるそうですけど」

「他にも来客が居うのか」

「ええ。夕夜さんを入れて四名ですね。私たちホスト側は五人です。ご主人様とお嬢様二人、上司と私です」

 お嬢様方はお二方ともとてもお綺麗なんですよ、と夕夜の顔をのぞき込みながら付け足した。夕夜は興味無さそうに答え、これ以上世間話は不要と荷解きを始めた。構わずさらに質問が重ねられるが、彼は相づちを打つだけで取り合わない。その様子に、小夜は諦めたように息をついた。

「夕食は六時となります。お呼び致しますので、暫しおくつろぎ下さいませ」

 失礼になる手前といった、堅い声音で告げて部屋を辞していった。一人になると、彼は荷解きしていた手を止めて文机に腰掛けた。高価な品なのだろう、背もたれと座面はほど良く柔らかく、彼の体を受け止めてた。

 部屋は広く、小さなシャンデリアが天井か下がっている。明るい褐色に白銀の糸で複雑な装飾が施された絨毯、キングサイズのベット、クローゼットに文机。それらの調度がありながら十分に歩き回れるスペースがある。擦りガラスで仕切られた一角にはシャワールーム。彼の身分ではとうてい宿泊できないクラスの部屋だった。

 彼は高級な室内に浮かれた様子も無く、足を組んで腰掛けたまま中空を見つめている。時折思い出したように荷物をあさり、分厚い洋書を取り出して読んではまた思索に戻る。彼が大学と変わらぬ時間を過ごしていると、小さくノックの音がした。

 夕夜は聞こえた様子が無く、何度目かの呼びかけでようやく顔を上げた。返事が無いので小夜は勝手に入り、耳元で名前を呼んでいた。

「もしもーし。聞こえてますかー?」

「ああ。何か?」

 顔をしかめつつも文句は言わず、夕夜は彼女へと顔を向けた。

「食堂で皆さんがお集まりなんです。コーヒーでも一緒に如何ですか?」

「行こう」

 毎日浴びるようにカフェインを摂取している彼は、コーヒーと聞いて腰を上げた。

「一本吸ってから行く」

 小夜の持ってきた灰皿を受け取り、サンルームへ向かう。なぜか彼女も付いてきていた。

「吸うのか?」

「吸いません。でも、ほっといたらまた考え事して降りてきてくれなさそうなので」

 ここで待ってます、とサンルームを仕切るガラス戸の外に立った。

「確かに」

 あっさりと認め、ベランダに出ると煙草に火をつけた。ここまで利用してきた交通機関はすべて禁煙となっており、朝から吸えていない。深く息を吸い込み、細く、長く吐く。その息は外気に冷やされ、紫煙と共に雪の舞う中に拡散していった。

 手先のわずかな痺れを楽しむように窓の外を眺めていると、早くしないとコーヒーが冷めると小夜に急かされた。名残惜しそうに短くなった煙草を灰皿に押しつけると、彼女に従って一階へと向かう。

 階段を下り、砂時計を回って食堂へと入る。まず目を引くのは入り口から最も遠くに位置する壁に掛けられた栗色の髪をした女性の肖像画。夕夜の背丈ほどありそうなキャンバスには慈愛を湛えて微笑む美しい女性が描かれており、入室する者を出迎えている。その隣には、狂った時間を指している大きな振り子時計が壁に掛けられている。現在は午後二時過ぎだが、その短針は八時過ぎにあった。番面には短針しかなく、詳細な時間を示すことは無い不思議な時計だ。

 室内にはナッツに似た挽きたてのコーヒーの香りが漂い、左手の壁に埋められた暖炉から薪のはじける音がしている。暖かい室内はフローリングで、同じ木材で設えた長い机の中央付近に三人の人間が向かい合って座っていた。

「お連れ致しました」

 小夜は一礼して入るとニ対ニで向き合う形となるように、夕夜を席に導いた。すぐにお持ちしますと告げ、奥の扉から厨房へと消えていく。

「こんにちは。君が将来有望な学生さんか」

 そう口火を切ったのは、隣に腰掛けた人懐っこい笑顔の男。夕夜は生返事を返し、問いかける。

「誰が将来有望なんて言ったんですか?」

「小夜ちゃんが言ってたんだよ。凄い先生についてるんだって? 国家プロジェクト並に予算貰ってるとか」

「教授は確かにそうですが、俺はただの学生です」

「そんな謙遜するなって。そんな大金動かす教授様の学生なら、コネの欲しい大人達から引く手多数だぜ。将来困らんだろうよ」

 口元だけで笑いながらギラついた目で、男は慣れ慣れしく夕夜の肩を叩いた。

「自己紹介がまだだったな。俺は秤(はかり)。ちっぽけな会社を経営してる。これも何かの縁、就職に困ったらいつでも言ってくれ」

 そう言ってそつなく名刺を手渡した。書かれた職業はクリエイティブデザイナー。何を生業としているのか判然としないが、恰幅の良い体格と左手の成金趣味な金の時計が金回りの良さを物語っている。

「青年よ。世の中には人の皮を被った悪魔がいる。魂の汚れた者に交わると、あなたの魂も同様となる。気をつけなさい」

 夕夜と向かい合って座る、青い瞳をした女性が声を発した。白い肌と金髪青眼、高く通った鼻筋という明らかに外国人といった風貌。往年の美しさを未だ感じさせる妙齢の彼女は、侮蔑を込めた視線を秤に向けていた。

「それはどういった意味ですかな、エティアさん」

 頬をひきつらせる秤を無視し、彼女は夕夜へに向かって笑顔を作った。

「私はエティア。神の言葉を研究しています。ご覧の通り日本人ではありませんが、日本語は理解できているつもりです」

 エティアは横顔にかかるブロンドを、優雅な手つきで払う。。

 夕夜は特に返す言葉もなく、視線だけで答えた。秤が彼女を睨み、場の空気が険悪になる中、銀の盆にコーヒーを乗せ小夜が戻ってきた。

「お待たせしました」

 白い陶器に蒼い蔦の描かれたカップとソーサーを、音も立てずに夕夜の前に並べ銀のスプーンが添えられる。

「お砂糖とミルクはお好みでお使いください」

 そう言って小夜は四人の中央を示す。砂糖は簡素なガラスの瓶に入れられ、ミルクはカップと同様に蒼い蔦が描かれた白磁の壷に入っている。

「これ砂糖が固まってしまうんです」

 そういって小夜は、はにかみつつ砂糖壷を存外に激しく振った。

 湯気と共に漂う香りに場の空気が緩むと、眼鏡をかけた壮年の男が口を開き、低く柔和な声が夕夜に向けられた。

「最後は僕か。名前は狩羽(かりう)。地球科学、特に岩石学の研究者だ。君の教官と比べるべくもないが、一応大学で助教をやってるよ」

 ベティエの隣、夕夜の斜向かいに座った若い男はそう自己紹介した。日焼けした肌と引き締まった体は、日頃のフィールドワークで培われたのもだろう。三十半ばと思われる彼の年齢からすれば、助教という肩書きは十分有能な証だ。人の良さそうな笑みは多くの海外経験で培われたものか、よろしくと夕夜に片手を挙げた。

「どうも」

 言葉少なに返し、夕夜は手元のカップを手に取った。香ばしい薫りと深みのある苦み。苦みは一瞬で消え去り、酸味が後を引き継ぐように華やかに咥内に広がる。

 大学で飲み慣れた安い粉とは違う、細かすぎず粗すぎず挽かれた豆が生み出す味わいにも関わらず、夕夜は表情一つ変えなかった。

「お口に合いましたでしょうか?」

 眉を寄せて問いかける小夜に、小さく頷いて答える。

「これ、私が煎れたんですよ。まだ勉強中なんですが、修行してるんです」

 バイトしてるだけですけど、と小さく舌を出しながら言った。

「そうか。頑張れ」

「心が全く籠もってないですよ」

 頬を膨らませる小夜とのやりとりがあり、茶会の話題は各自がこの館へ来た理由へと移っていた。

「お二人は仲がよろしいようですな。来たばかりで君も手が早い」

 からむ様に秤が夕夜に声を掛けた。

「ところで、君はなぜここに? わざわざ代理を立てるほどだから、教授の興味をよほど惹く何かがあったんだろうね?」

 秤の問いかけに、夕夜は首を傾げるしか無い。

「あの人が考えることは、俺には理解できないことばかりなので。教授には、よほどの何かがあったのかもしれませんね」

 あの早朝に喫煙所で交わしたきり、ここへ訪問する事について話題に上ったことは無かった。夕夜は前日まで忘れてたほどであったし、彼女も同様、もしくは今彼がここにいることすら忘却の彼方かもしれない。

「ここは非常に示唆に富んだ所だよ」

 探るような視線を向ける秤の向かいから、狩羽が話を始めた。

「外から最上階が見えただろう? あそこは砂漠を切り取ったように、実際に海外から輸送されてきた砂が一面に敷かれているんだ。現地のフィールドと違って完全に環境を制御できながら、実験室では再現できない大きなスケールで砂の挙動を観察できる。研究にうってつけの箱庭なんだよ」

「砂の研究は何の役に立つのですか? それこそ水槽で済みそうなものですけれど」

 身を乗り出して語る狩羽に、組んだ長い足の膝に手を添えながら疑問を投げかけるエティア。青い流し目で彼を見る様は、モデルのように均整がとれている。

「砂の挙動は非常に不可解なんですよ、エティアさん。砂には風化に強い石英の粒が多く含まれますが、ここに石英の塊、占い師が使いそうな水晶があったとしましょう」

 狩羽はテーブルの上で球体を両手で掴むジェスチャーをする。続いて見えないハンマーを振り降ろす仕草で、握った右手をテーブルに付けた。

「それを粉々に砕く。すると体積は増えますか? それとも減るでしょうか?」

「ええと。同じじゃないかしら」

 目を上空に向けながら彼女は答えた。

「それが日常の感覚ですよね。完全に元の形にくっつければ同じ体積に、あるいは氷の塊を砕いてコップに入れれば、必ず隙間ができるように、体積は増えるでしょう。いくら押し固めても隙間は残りそうですよね。でもこの場合は違います。粉々になった石英粒を集めると、体積は減るんです。我々の感覚と反することが起こる、それが砂粒の世界なんですよ。他にも色々とあるのですが、その最たるものが砂時計と言えるかもしれません」

「砂時計が?」

 エティアは興味が沸いたように体を狩羽へと向ける。小夜は二人の会話に頷いたり驚いたりしているが、秤は腕を組み軽い相づちで聞き流していた。夕夜は視線をカップに注いだまま、聴いている様子がない。

「砂時計の砂は一定の量が落ち続けます。当たり前のようですが、これは流体、水などではあり得ないことでしょう? 六月十日は時の記念日とされていますが、これは古来中国で水時計が発明された日だそうです。水時計は流れ出た水を受け、そこに目盛りを振って時間を計るものですが、これはとても不便です」

 彼は目の前にある自分のコーヒーカップに手を伸ばして持ち上げ、底に人差し指を立てた。

「容器の底に穴を空けると、最初は勢いよく水が流れ出ます。満杯に近い状態では大きい水圧がかかるからです。時間がたつにつれ水が少なくなると、放出される水は次第に勢いを無くしてちょろちょろと流れることになるでしょう。このように水時計では初めと最後で目盛りの幅が変わってしまい、大変見にくい。また長時間計ろうとすると莫大な量の液体が必要です。一年を計れる水時計を作ろうとしたら、地球上の海水全てを使用しても足りません」

「そうなんですか。日本には一年を計れる砂時計があると聞きましたが、水時計でそれは不可能ですわね」

 目を閉じて感心したようにエティアは頷いている。夕夜の隣で、小夜も習ったように同じ動作をしていた。

「それは島根県にあるものですね。一トンの砂が一年かけて落ちます。海水全てに比べれば可愛いものですが、それでも近くで見るとその大きさに感動しますよ」

「一度行ってみたいと思っているのですが。次の長期休暇には訪ねてみようかしら。それは私にとってバベルの塔を目の当たりにするような体験になりそうだわ」

 頬を緩ませて目を細めるエティアと小夜に、狩羽はうなずきながら講義調で語り続ける。

「そこにくると、かかる加重に関係なく一定量づつ落ち続ける砂時計の不思議さが分かるでしょう。砂は一見流体のように流れ落ちたりしますが、水とは全く異なる物理で支配されるのです」

「なぜ砂はそのような性質があるのですか?」

 聞き役に回っていた小夜が、瞳を輝かせて尋ねる。胸の前で抱えた銀色のトレーを持つ手に力が籠もった。

「それは砂が『粉流体』だからです。砂時計の落ちる様を注意深く見ると、流れては止まり、また流れるといったサイクルとなっています。これはくびれ付近で砂粒が集まってアーチ構造を形成し、それが重みに耐えきれず崩れることを繰り返しているからです。このアーチ構造を作るには、くびれが砂の直径に対し六倍以上である必要があります。しかしこれは経験則でしかなく、理由は不明なのです」

「理由は分からないんですか? 砂時計なんて昔からあるのに」

「そうなんです。砂の様な『粉流体』の謎は未だに未解明なんです。ただ言えることは、その系を支配しているのは簡単な作用だけのはずです。それが大量に集まると、人間の手には負えなくなる。それが自然科学の醍醐味であり、実験室の小さな箱庭では再現できない事なんですよ。地球規模という大きなスケールと、地球の営みという長い時間。人間の手と一生では、その一部を切り取って見ることしかできない」

 長口舌に照れたように頭を掻きながら狩羽はそう締めくくった。そこで、アカデミックな話に飽きたように腕時計をいじっていた秤が顔を上げる。

「で、狩羽さんはここで実験させて欲しいと頼みに来ていると。君はなんでここに居る?」

 強引に話を戻す彼に狩羽は苦笑いし、エティアは救い難いといった表情で首を振った。聞こえていないのか、夕夜はただ黙している。

「そうだ。夕夜さんはまだ上の祈祷室に行ってませんよね。ご案内しましょう。きっとびっくりしますよ」

 テーブルを回り込み、小夜が夕夜の腕を取る。それにも構わず何かを考えている彼を強引に立たせ、二人は食堂を出ていった。

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