第2話
日本一の降雨量を誇る地方都市にある大学。彼はその大学院に在籍している。細い躯にフィットした、ファッションよりも機能性を追求した服に白衣を羽織り、今日もコーヒーを片手に徹夜でディスプレイに向かっていた。
彼の名は神沼夕夜。まんじりともせずに画面に向かい続けて数時間、沈思黙考を続け、彼の脳は飽和状態となっているようだ。
目頭をほぐし、白衣のポケットの中を手探りで確認して立ち上がる。学部生達との共有部屋をパーティションで区切り、彼らよりわずかに広く与えられているスペースから出る。夜通し灯されていた蛍光灯の光が、普段から血色の悪い夕夜の顔をさらに青白く見せている。
窓の外には、白んできた空に飛び回る小鳥の姿。その鳴き声は、またも成果が出ずに彼の一日が過ぎてしまったことをあざ笑っているようだ。
研究生部屋には、彼の他に人影は無い。この時期は卒業論文に追われた者達が遅くまで残っているが、さすがに夜が明けるまで研究を続けてはいる者は希だ。これが年明けともなれば話は別となり、床に段ボールを敷いて泊まり込む者も現れるが。
入り口にカードキーを通すと、彼の登録を認識し高い音が鳴る。続いて八桁の数字を打ち込み掌の静脈を認証すると、ようやく鍵の開く音がした。むき出しのコンクリートの壁と病棟のようなツヤツヤとした緑の廊下という、チープな内装には似つかわしくない厳重なセキュリティである。それはここで研究している内容、特に彼の指導教官の研究が国際的にも重要であることの証左と言える。事実、その成果は多くの企業で採用され、最高学府の教授陣におとらぬ研究費を得ていた。
階段を下り、建物の外に出る。喫煙所に着くと、白衣のポケットから煙草を取り出して火を付けた。朝日と清らかな空気の中で深く煙を吸い込み、長い息を漏らす。喫煙が寿命を縮めると認識してはいるが、それは彼にとって喫煙を辞める理由にはなっていなかった。
心を捕らえて離さない謎は、命を惜しんでいては届かない。命を削り続けて、脳髄を酷使し続けてそれでもなお、手にすることはできないかもしれない。求めるものが遙か遠いことを知りつつも、探求を止めることはできない。彼の挑む真理には、それだけの美しさと価値があると信仰していた。
彼は白衣の襟から覗いている黒い上着のファスナーを喉元まで引き上げる。冷気が染み込み意識が再び覚醒したのか、指に挟んだ煙草が根本まで灰になり消えるのも気づかぬほど彼は思考に沈み込んでいった。
「おい、挨拶も無しか」
正面に立った人物にもまるで気づかぬ様子で固まっている夕夜に、苛立った声が掛けられた。知りつつも無視していたかのように、顔も上げずおはようございます、と答えた。
「やれやれ。火を貸してくれ」
目の前に立つ、同じように白衣を羽織った女性のハスキーな声。それに無言でライターを差し出す。夕夜は体を屈め、赤い唇に挟まれた細いシガレットに炎を近づけた。
彼女こそ夕夜の指導教官であり、その分野では世界で五指に入ると云われる教授その人である。土下座して単位をせがむ生徒を踏み抜くためと真しやかに語られるほどヒールの尖った赤いパンプス。黒くタイトなスカートとシンプルながら高級そうな白のブラウス。腕には細い金の時計。
有能秘書のような服装であるが、羽織ったしわだらけの白衣が台無しにしている。整った顔立ちだが、鋭すぎる目つきが近づき難い印象を周囲に与えていた。それでも、四十歳手前で教授職に上がり、現在も毎年十本以上の論文を量産する傑物の研究室へ入りたいと願う志望者は多い。無事に卒業できる者は半分もいないが。
白衣の二人はしばし無言で煙草をふかしていた。気がつけば夕夜はすでに三本目を吸い終え、体の芯まで染み込んだ冷気とニコチンに満足していた。またディスプレイに向かおうと、やはり挨拶もなく彼が立ち去ろうとすると、世間話のように軽い言葉がかかる。だが、彼女が無駄話などしないことを十分に理解している夕夜は、身構えつつ応じた。
「神沼。正月は暇か?」
「いえ、忙しいです。先生につきあう暇は皆無です」
「そうか。じゃあ今から何とかして空けておけ」
唐突に決めつけられ、夕夜が非難の目で振り向く。教授はまるで悪の総帥のような、彼女にとってはとびきりの笑顔を浮かべていた。
「忙しいと言ったんですが?」
「聞こえたよ。だから空けとけと言った。質問調で訊いたことは詫びよう。発言の自由だけは保証してやろうと思ったんだが、拒否権が無いことは通じなかったか?」
夕夜には盛大にため息をつき、不満の意を示す。半眼になった瞳は、それくらいの自由はあるはずだと主張している。
「何があるんですか?」
こうなると諦める他無い。指導教官と研究生の関係は教師と生徒のそれではなく、もはや師弟関係と言える。師の命令は絶対であり、無理難題であろうとこなさなければならない。その代わり、師は持てる知識と技術の全てを弟子に伝える。そうやって最先端の研究は進んでいく。
「なに、ちょっと私の代わりにある場所へ行くだけだ。必要な金は全て私が出す。たまには研究室から出て見聞を広めるのも悪くないだろう」
「良さも理解できませんが。いつからですか?」
「さあ? とりあえず師走に入ったら適当に一週間くらい行ってこい。先方の連絡先はメールで送る」
「そんな適当で良いんですか? 大人としてどうなんですか」
「向こうから何時でもいいから寄ってくれって言われてたんだと。こっちだってそんなアバウトな依頼じゃ断ったって良いだろ。受けるだけでも十二分に大人な対応だと思うがね。まあ、老い先短い親の頼みじゃ断れない。くれぐれも失礼の無いように。ちなみにそんなもの羽織ってたら確実に浮くと思うぞ」
そう言って教授は、自分のもの以上に年期の入った夕夜の白衣を指さした。
親の頼みを生徒に振るとは常識を疑うが、犬に噛まれたと思うしかないと彼は諦めた。
「孝行娘を持ってさぞご両親は苦労しているでしょうね。で、俺はどこに行かされるんですか」
「どっかの山奥だ。そこに風変わりな洋館を建てた好き者がいてな、何を吹き込まれたか私に会ってみたいそうだ。どうにも面倒くさい話になりそうな予感がしたからお前に任せる」
そう言うと教授は腕時計に視線を落とし、顔をしかめた。
「頼んだぞ。帰ってきたら土産話の一つでも聞いてやる。つまらなかったら実費を請求するからな」
理不尽な言葉を残し、颯爽と立ち去っていった。一人残され、改めて大きくため息をつく。気持ちを入れ替えるようにかぶりを振ると、彼も喫煙所を後にした。
机に戻ると既に向こうの連絡先が送られていた。スケジュールに書き込むと、腕を組みまた思考に没入していった。
それから昼夜の区別無く研究にいそしむ日々を続け、気がつくと出発の前日となっていた。
いつも通り机で身動きもせずに座っていたが夕夜だが、日付が変わる頃になり帰り支度を始めた。教官命令で訪問する先に遅刻する訳には行かないという義務感からか、いくつか使えそうな文献と専門書をまとめると、重くなった鞄を肩に掛けた。すると、それを見て慌てたように後輩から声が掛かった。
「夕夜先輩、今日はもう帰るんですか?」
「ああ。明日から先生のお使いだ。一週間は帰って来れない」
「ええ! 昨日コトリ先生から渡された論文、さっぱり分からないんで聞こうと思ってたのに」
「ゼミでのレビューはいつだ?」
「来週です」
「そうか、頑張れ」
「見捨てないで下さい! メールで聞いても良いですか?」
「めんどくさいから却下だ。自力で何とかしてくれ」
夕夜は文章に起こすという事には責任が伴うと考えていた。口頭であれば曖昧な点はそう断った上で述べる。だが文章では曖昧なことは書けない。たとえメールであろうと、公式な文章でなかろうとその態度を貫いていた。
「じゃあ電話します」
「通じたらな」
背後で情けない声を上げる後輩を残し、彼は研究室を出た。
嫌みを言おうと教授部屋を訪れると、出張中との札が下がっていた。わざわざ電話で告げるほどの事でもないと、そのまま大学の近くに借りているアパートへと帰路についた。
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