駅に潜むもの〜通学編〜

マサユキ・K

第1話

休日の構内は静かだった。

俺は改札を通ると何気なく後ろを振り返った。

特に意図は無い。

平日は通勤通学者が列をなす自動改札機も今は閑散としている。

最近はお出かけする人も減ったとニュースで報じていたが、それにしても少ない。


俺はバッグを手提げから肩に掛け直すと前に向き直った。

今日は部活の日だ。

歴史研究会というマイナーな部だが発表会の準備のため登校しなければならない。

面倒だな……

文化部なら活動が少ないと思って入ったが当てが外れた。

偉ぶる先輩の顔を思い返しながらプラットホームへと降りる。

階段の左右の壁に幾つかの落書きがあった。

塗料スプレーで描かれたそれは、卑猥なマークと見知らぬ個人名で彩られていた。

どこかの不良か欲求不満のオタクあたりがつけたのだろう。

どうでもいい事だ……


ホームに降り立つと、風で飛ばされたティッシュと潰れた紙パックが足元にまとわり付いてきた。

俺は悪態をつきながらそれを蹴飛ばした。

足癖が悪いのは子供の頃からだ。

気に入らないものは何でも蹴飛ばす。

相変わらず汚いホームだ。

路上にはあちこちにゴミが散乱し、壁の大半は落書きが占めている。

ベンチにはこびり付いた食べ物のカス。

灰皿の周りは吸殻の山。

世界一汚いと言われるニューヨーク地下鉄もこんな感じなのか。

だがそれもどうでもいい……


俺は溜息をつくと最後尾車両の停止線まで歩を進めた。

乗車する際の定位置である。

黄色線の上に立ち、ふと足元を見る。

小さな黒い染みがホームのふちに付いていた。

俺は気分が悪くなり、すぐに視線をらした。


気分を変えようと携帯を取り出した時、ふいに叫び声が聴こえた。

見ると一人の男が数名の駅員と押し問答をしている。


「……離してくれ!もうこれしか方法が無いんだ……」


何かそんな事を叫んでいた。

酔っ払いか?

そう思ったが、尋常では無い男の形相に俺は息を呑んだ。

蒼白の顔面に真っ赤に充血した眼がギラついている。

夕刻を過ぎると、この駅にもこの手の客はやって来る。

平気で路面にゲロをき散らしながらわめやからだ。

だが今暴れている男は少し違うように思えた。

言ってる事は意味不明だが、意識はまともっぽい。

酔っていると言うより何かに興奮……

いや、おびえている感じがした。


しかし、だからどうだと言うんだ……


結局どうしようもない。


わざわざしゃしゃり出て、この人は正気ですと進言する気もさらさらない。

相手は赤の他人だし、何より面倒事に関わりたくはなかった。


警笛が鳴ったのでその方を向くと、丁度列車が構内に入って来るところだった。


助かった……


これで関わらずに済む。


先頭車両が俺の前を通過した直後、ふいに卵を潰したような音がした。

続いて起こる急ブレーキの金切り音。

そして怒号と悲鳴。

あわてて振り向いた俺の目に、運転席から飛び出す操縦士と線路を見下ろす駅員の姿が飛び込んできた。

数名の客が口や頭を手で押さえている。

その中に先程の男の姿は無かった。

俺は瞬時に何が起こったか理解した。

飛び込みだ。

初めて見た。

度を越した衝撃はかえって冷静さを生むようだ。

俺はその場で居竦いすくまる事無く、見物人の輪に加わろうと踏み出した。


と……


その時何かがコツンと靴に当たった。

見ると小さな赤いボールがぴたりと寄り添っている。

こんなものどっから転がってきたんだ……

遠くで騒ぐ群衆の方に目をやる。

誰もこちらを見ていない。

俺は無意識にボールを拾い上げた。


「次はあなたが遊んでくれるの?」


「えっ……!?」


あまりの唐突なささやき声に思わず飛び上がる。

反射的に振り向いた先に、小さな幼女が立っていた。

白いワンピース姿に腰まで伸びた黒髪が風に揺らいでいる。

いたいけな瞳でじっと見つめられ、俺は非常時の最中さなかとは思えぬ胸の高鳴りを覚えた。


「……これは……君の?」


俺は当り前のように手にしたボールを幼女に差し出した。

幼女は黙ってそれを受け取ると、小さな手でゆっくりと俺の背後を指さした。

誘導されるまま後ろを振り向く。


そこには…………


たった今まで右往左往していた駅員や乗客の姿が掻き消すように消えている。

ホームにいるのは俺と幼女の二人のみ。

俺は驚きのあまり言葉を失った。


何だっ!?

みんなどうしちまった?

一体何が起こった?


疑問符のついた台詞ばかりが頭を駆け巡る。

こんな馬鹿な事が……あり得ない!

全身が震え出す。

俺は答えを求めるかのように幼女に目を向けた。

うつむいたその肩が小刻みに揺れている。


泣いているのか……


いや、違う!?


突如鳥類の放つ奇声が構内に響き渡った。

それが幼女の笑い声だと気づくのに時間を要した。

しばらくすると声は止んだ。


幼女の頭がゆっくりと持ち上がる。


俺の喉から、声にならない叫びがほとばしった。


耳の付根まで裂けた口

赤く燃える眼球

そして……

頭部から突き出たツノのような異物



それは熱い異臭混じりの息を吐きながら、じっと俺の顔を凝視した。

俺は腰が砕けた。


な、なんだこいつは!?


化け物……!


逃げ出したいが思うように体が動かせない。

尻餅をついたまま後退あとずさる俺を眺め、それは不気味な笑みを浮かべた。

そして赤いボールを握った左手を前に差し出すと何やらつぶやいた。


次の瞬間、ボールはグニャリと変形し何かの形を取り始めた。


太く、長く……


所々に斑点模様のようなものが浮き出る。


それは……だった。


全身に衝撃が走る。

見覚えのある特徴的な斑点模様。

脳裏につい数日前の記憶が蘇った。


場所は此処……いつもの乗車位置。

帰宅の列車を待つ俺の足元に、一匹の野良猫が寄ってきた。

甘い鳴き声で身体を擦り寄せるその姿がひどくうとましかった。


いや……


決して猫だけが原因ではなかった。

今日返された答案がひどかったせいもある。

部活で先輩に嫌味を言われたせいもある。

彼女からのメール返信が無かったせいもある。

とにかくその時の俺は苛立いらだっていた。


だからそいつを蹴飛ばした。

軽く蹴ったつもりだった。

だが飛ばされた方向が悪かった。

そいつはホームから線路上に落下した。

俺は慌てて線路を見下ろしたが、猫の姿は無かった。


逃げたか……


ほんの一瞬後悔が胸をぎるが、すぐに振り払った。

程なく警笛を鳴らしながら列車が入構してきた。

先頭車両が俺の横あと数メートルまで迫った時、ふいに鳴き声がした。

驚いた俺の目にホームまでよじ登ろうとする猫の姿が映った。

俺は緊張のあまり身動き一つ出来なかった。


助けてと叫び続ける猫……


茫然と眺めるだけの俺……


気づく筈も無い先頭車両が目の前を無常に通過していった。

俺は列車が停止するまでその場で震え続けた。

恐る恐る足元に目を向けると、

猫の姿はどこにも無い。

ドアが開くと俺は逃げるように飛び乗った。


幼女の姿をした異形は、左手の猫の死骸を路上に下ろすと嬉しそうに微笑んだ。

裂けた赤い口腔が、耳元までむき出しになる。

次の瞬間、俺は信じ難い光景を目の当たりにした。

路面に横たわる死骸が微かに痙攣し始めたのた。

それは次第に大きく、次第に激しくなっていった。

やがて猫特有の反射的な動きでくるりと反転すると、それはぶるぶると震えながら身を起こした。


正気の沙汰では無い。

頭が……無いんだぞ。

なぜ動ける!


俺の思考は混乱を極めた。

あまりに現実離れした状況が、俺の神経を倒錯の域にいざなおうとしていた。

それが証拠に、俺の顔にも意味不明の笑みが浮かんでいた。


こんな……ハハッ

馬鹿な……ハハハッ

無意識に後退りしながら、その滑稽こっけいさに可笑おかしさが込み上げた。


元は猫だったそいつは、ふらつきながらも着実に俺の方へと近づいて来る。

向き合うと切断された断面がもろに目に入った。

普通ならむかつきを催すであろう光景も、今の俺には珍妙な造形物にしか見えなかった。


可笑しくて可笑しくて、たまらなかった。

全てのことが腹をよじるほどの笑いを誘発した。


この猫らしき物体が動いている事……

それを見て驚きもせず笑っている事……

あの日助けようともせず見殺しにした事……

近寄って来ただけなのに蹴散らそうとした事……


そして、あの日イラついていた本当の理由


勉強もしていないくせに答案の点数に腹を立てた事……

言われた事もせず先輩を逆恨みした事……

二股をかけてた事がばれて彼女にメール拒否された事……


なあんだ


結局俺が悪いんじゃないか。


自分でこんな事を招いたんじゃないか。


背中が何かにぶつかり後退りがさえぎられた。

うつろな視界で見上げると、ホームの支柱に邪魔されていた。


可笑しさが極限に達した。


俺は大声をあげて笑った。


涙が止めどもなくあふれ出るが、もはや何の涙かも分からなかった。


ひとしきり笑い尽くした後、俺は視線をから幼女の方へ戻した。

胸元で手を合わせ嬉しそうに眺めていた幼女は、それに気づくと小さく手を振った。


バイバイ


そう言っているような気がした。

俺も涙でくしゃくしゃになった笑顔で振り返す。


バイバイ


それにしてもこいつは一体何なんだろう。

幽霊か。

猫の化身か。

まさかエイリアンという訳でもあるまい。


朦朧もうろうとした俺の耳に、どこからかすすりり泣きのような声が聴こえてきた。

俺は周囲を見渡した。

誰もいない。

よく見ると声はあちこちから漏れ出ている。


待合のベンチ……

支柱の陰……

灰皿の中……

俺はもう一度耳を澄ませた。


【……ったく、課長の奴死んじまえ……】

【……アイツ、今に思い知らせてやるわ……】

【……あのバカ、またいじめてやる……】


恨んでやる!

ねたんでやる!

苦しめてやる!


憎い……憎い……憎い……!!!


自分にも一度は身に覚えのある恨みつらみの言葉が周囲に木霊こだまする。

幼女は両手を広げ満足そうな表情を浮かべていた。

まるでその声を全身で吸収しているかのようだ。


その瞬間、俺は理解した。


そうか



構内に蔓延するドス黒い邪心が、渦巻く奔流となって幼女に飲み込まれていくようであった。


こいつはこうして生まれたんだ。

駅という閉ざされた空間に溜まり溜まった負の念がこいつを作ったんだ。


……


きっと俺もこいつを生み出した内の一人なんだろな。

人を逆恨みし、妬んで、あざむく事しかしてこなかった。

そう、猫に八つ当たりして殺すような出来損ないさ。


きっと生きる価値も無いんだろう……


俺にはもう、驚きも、恐怖も、悲哀も、未練も湧かなかった。

何も感じず、何もかもがどうでもよかった。


じゃ、そろそろ……終わりにすっかな。


俺は四つん這いになると進む方向を変えた。

線路上まではほんの数歩の距離だ。


つまらない日常だったが、


手がホームの縁にかかる。


「……めろっ!」


遠くの方でまた声のようなものが聴こえた。

きっと空耳だろう。

構内には誰もいないんだ。


「待て……やめろっ!」


混濁した意識の中、声のする方へ顔を向ける。

人影らしきものが近づいていた。


また変なのが来たか。


苦笑いを浮かべながら身を乗り出そうとした時、誰かが肩を掴んだ。

複数の手が四方から体を押さえ込もうとする。

影は次第に鮮明となり、やがて駅員の形を取り始めた。

腕を取られた俺は、懸命に逃れようとあがいた。

沈みゆく意識の中で最後の力を振り絞り叫ぶ。


「いいから離せよ!もう……!」


赤く充血した目を向けると、そこに幼女の姿は無かった。


遠くに警笛の音がした。

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