ランレル-014 景色も楽しめる高級な宿だ

宿は、中に入ると二階から見下ろす回廊が見えて、それぞれの部屋の扉が見えた。


部屋は川に面しているようで、ランレルは、ここは景色も楽しめる高級な宿だ、と気が付いた。回廊の下には、川に面して壁がない景色が一望できる広間があって、片側にテーブル席がいくつかあり、反対側にはソファーやくつろげるベンチが置いてあった。川を見ながら船を待てるようになっているようで、今も、鐘の騒ぎに寝ていられなくなった客が部屋から降りてきて、熱い飲み物を前に顔をしかめて川を見ていた。


王都を後にして、海の港に向かうのか、黒の上着に白のシャツと言う旅の間だというのに身ぎれいな姿の男だった。富豪か、爵位持ちかもしれない、とランレルを思いながら、こちらを見たら挨拶ができるようにと、気にしながら、案内の女性の後を歩いた。


川には、日が差し込み始めていて、金色に光り輝いていた。鐘の音がなく静かなら、素晴らしい一日を予感させるひと時になっていただろう、と思いながら、ランレルは鐘の音に顔をしかめた。泊まっていた一組が、出て行く準備をしていて、回廊の下の階段脇で、老やに話しているのが聞こえてきた。内容からすると、少しでも鐘から離れた宿に移りたい、と言う事らしい。ランレルも、港の桟橋のすぐ近く、と言うのは、鐘から逃げられない、と気づいたのだが、遠くから聞こえていたことを思えば、耳栓をすればどこも同じじゃないだろうか、と思いながら、メローと言う乳飲み子をショールでお腹に巻き付けた女性に案内されて、入口脇の受付へと向かった。


老やの話からすると、内陸の街道沿いに、小さな部屋貸しをしている家があるらしい。ランレルが階段下を見ると、ひざ下丈のワンピースで裾にレースを付けたお嬢様と帽子の紐を顎で上品に結んだ奥様を連れた、口髭の気難しい気なステッキの似合う男が老やに厳しい声を上げていた。「いつ船が出るんだ」「一体、この鐘はいつ止まるのだ」と、誰にも答えられない質問をして、老やは「長のご判断によります。わかりましたらすぐにでもお知らせいたします」と丁寧に答えていた。


ランレルは、港が封鎖されて長引くなら、彼らは王都へ帰るのではないだろうか、と思ったり、王都門が閉じていたのを思い出し、ロンラレソルの宿も一杯になって、ここも一杯になれば、川沿いの陸を伝って来た人たちが、この辺りにあふれかえって行くのではないだろうか、と一抹の不安を感じた。食料は川と陸から来る。南がこれなら、西からの輸送に頼る事になるろう、と思ったのだが、そこまで豊作だったと聞いたことはない。ハーレーン商会は食料は扱っていないのだが、王都の商売人たちは、今頃倉庫に豆や麦を積み上げているかもしれない、と思ったり。王都門が閉じいていては、仕入れが無理だから、売り渋りに入っているのかもしれない、と非人情な商売人もいるから、思ったりした。


メローと名乗った女性は優しい目をしていた。栗色の髪に緑色の目で、小柄で腕の中の赤子を片手で揺らしながら、ランレルへほほ笑んだ。目の中に暖かい表情のある女性で、胸近くまである厚手の一枚板でできた上品な長テーブルの奥に入ると、にこにこしながら、テーブル下の引き出しから帳簿を出して、

「トズサムの宿屋へようこそお越しくださいました」

と言った後、子供を揺らしながら、

「なんだか大変な事になってしまいましたね。でも、この宿の女将さんは太っ腹で、皆様をしっかり守るという事にかけてはきっと他の宿以上に熱心です。どうぞ安心してお過ごしくださいませ」

と言っておっとりとほほ笑んだ。それから、

「それでは、宿をお使いになる人は何名さまでいらっしゃいますか? お部屋は何部屋にいたしましょう。ただ、川の港の宿は、みな宿帳を付ける決まりがあるので、みなさんのお名前とご身分も、障りのない程度でお教えください」

と言って、帳簿の脇にペンとペン壺を出しておくと、壺にペン先を付けてこちらを見上げた。


ランレルは、そこで、初めて、自分が半袖の生成りの下着のままだという事を思い出した。上着は切り刻まれて血だらけで、ロンラレソルのハーレーン商会の床にあった、と思う。それとも、誰かが片づけていたのだろうか。ランレルの格好を誰も気にしなかったのは、時がゆっくり動いていた上、馬に乗せられて運ばれていたからだ。そして、町に来てからは、川辺の船乗りは、もっと簡素な服を着ているおかげで、おかしく見えなかったのかもしれない。でも、こうやって、宿の手配をしに走ってくる商会の者としては、異様な姿にしか見えない。冬を前にしてこの姿は、寒々しく見えるはずだ。と思ったところで、寒くない、という事に気が付いた。この季節には上着が必要で、アヤノ皇子の服をそろえた時には、装飾の美しい刺繍と革の切り替え柄の入った上着をそろえ、内には縁取りのある光沢のある柔らかな暖かいシャツを用意して着ていただいた、と思い出した。なのに自分は、白い綿一枚の袖のない内着一つで、寒いどころか、着ていなかったと言う事すら忘れているくらい快適だった。


これも、大騒音の中、人の声が聞こえてくる、と言うのと同じだろうか、一時的なものなのだろうか、と指の先をぐっと握りしめて考えた。ゆっくりと唾をのんで、大丈夫、これは普通だ。と自分自身に言って聞かせた。なぜ、こんなに動揺するのか分からなかったのだが、強引に、「これは便利だ」とさらに自分に言って聞かせた。


目の前のメローは、にっこりとなんの屈託もない笑顔で笑った後で、

「お荷物がお届きになりましたら、お部屋にちゃんとお運びしますから、ご安心ください」

と荷物を後から送っている富裕家だと信じて疑っていない声で言った。その手配をする、従者だと思ったのかもしれないのだが。


ランレルは、そこで、ようやく貨幣がいる、と思い出した。宿も必要だし、食事も必要だ。まずは休む前に何かを食べなきゃならないし、自分の服はもちろん、サテンやアヤノ皇子の着替えもいる。本当に川向に行くなら、携帯食も用意したほうが良いし、馬もいる。そして、トチ医師のモノもそろえなくては。ハーレーン商会の人間の命を救ってくれた上、巻き添えになって町を出なければならなくなったトチ医師に、アルラーレ様なら万全の手配をしてお礼をしたはずだ、と考えた。それが、下っ端の入ったばかりのランレルに対してだとしても、それが商会の人間、と考えた。


ランレルは、ごくりと唾をのみ込むと、怪しい人間に見えないように生真面目な顔を作って背を伸ばし、宿帳の準備をしているメローに、

「まずは、為替の作れるところを教えてください」

と言った。

「為替、でございますか?」

ランレルは、メローの問いに、シャツの下からハーレーン商会のペンダントを引っ張り出して、

「これで為替を準備してもらえるところを教えてください」

と言い直した。メローはペンダントのコインを見ると、手を伸ばして紋様を確認した。コインを見ると心得た、と言うように、にっこりして、

「ハーレーン商会様ですね。いつも大変ごひいきくださいましてありがとうございます」

と丁寧に言った。そして、

「為替のお手続きは、女将の仕事なのですよ。少々お待ちくださいませ」

と言って、テーブルの下をくぐって、階段下でもめだした、宿を変えようとしているご一家の対応をしていた背の高い女性の下へ、足早に向かって行った。先ほど、メローにお客様だと怒鳴ってくれた女性だった。胸の赤子は慣れているのか、抱えられたまま、メローの顔を見上げてニコニコしていた。横を通る時に赤子を覗き込むと、銀色の目で銀色の髪が額に張り付いている、頬のまるい可愛い赤子だった。この音の中、ものともせずに上機嫌に見えた。父親が川の船乗りなのだろうか、だからこの剛胆さなのか、と思いながら、ランレルは赤子に手を振ってみた。もちろん、振り返したりはしてこなかった。


ランレルは、メローが背の高い女性に声をかけるところを見て、息を吸った。背筋を伸ばして、首の下げていたコインを、改めてゆっくりと握りなおした。コインは、すごい、と改めて思った。このハーレーン商会のコインは、もらった時には誇らしかったし、使い方としては為替が使えるとは聞いていたけれど。誰にでも渡せるものでは無いんだよ、とアルラーレ様が渡しながら言ってくれたのを覚えていた。手の中でコインをぎゅっと握りしめ、おかげでこんな格好をしているというのに、見せただけで信じてもらえた。もしかしたら、メローと言う女性は、誰でも信じてしまうのかもしれないのだが。


そして、このコインを手軽に渡されたサテンと言う人物と、その連れのアヤノ皇子について、考えるのだった。ハーレーン商会では、いったい彼らと、正確にはサテンと、何があったのだろう、と。今は、もう、アルラーレ様の伯父上、と言う言い方が、本当の伯父について言っているのではない、と感じていた。サテンが、人間との血肉の綱がりがある人物には、どうしても思えなかったのだ。「龍である」と言う言葉をそのまま信じてしまっていた。


長身の女将に文句を言っていた男は、馬車を用意させて待つことにしたらしい。川を見晴らすソファーの方へ、家族と共に文句を言いながら歩きだしていた。女将は老やに馬車の手配を言いつけたのだろう。老やが受付の向こうの扉に消えるのが見えた。


ランレルは、ハーレーン商会の威厳が少しはましになるように、と背筋を伸ばした。下着姿の人間に、いったいどれほどの為替を用意させてくれるだろうか、と思うと一抹の不安を感じた。これから港に行くなら、為替を使える宿はいくらでもあるだろうが、山の麓へ向かうなら、そんな宿はどんどん少なくなっていくはずだ。今、為替を手にできなけれれば、早便でロンラレソルに為替の依頼の便を出さなければならない。コイン持ちが、何とも情けない事になりそうだった。


女将が素早くテーブルをくぐって受付の中に入ると、

「ハーレーン商会様だったんですね。いつものギャベット様には本当によく使っていただいて、お世話になっております」

と言うと、さて、と言うように、ランレルの手の中のコインに視線を落とした。ランレルは、首に鎖を付けたまま、乗り出すようにしてコインを見せた。それを見て、女将は目じりに皺を寄せて笑った。

「ギャベット様のおっしゃる通り、決まりをしっかり守る方ですね。念のため、お名前をお聞かせください」

「ランレルです。ランレル・フォトンと申します」

女将は頷いて、

「言われた通りの方ですね。赤茶けた色の目に、同じような髪の色。コインの番号もおっしゃってた通り、大丈夫ですよ。きちんとギャベット様に申し送りしていただいておりますから」

と言って、まっすぐランレルの目を覗き込んだ。ランレルが不安そうな顔をしていたのだろう。為替が発行できる、と言われていても、コイン一つで本当にそこまでできるだろうか、と思っていたからなのだが。姿や癖や性格を、為替発行元に連絡して使えるようにしていってくれているのだ、と気が付いた。これを大陸中の為替発行所にしているのだろうか、と思うと、コインの意味がさらに重く、深く感じて、ランレルは背を伸ばした。それに見合うだけの事を、自分はしたい。と感じた。


「それでは、ダウ銀貨とテノ金貨発行の為替と、それを使っての銀貨と銅貨をお願いします。金額は、ダウ銀貨がセノス、テノ金貨がタノス。貨幣への両替はテノ金貨を1枚を銀貨と銅貨に換えて下さい」

「承りました」

女将は簡単に言って、受付の奥の先ほど老やが出て行ったドアを押して入って行った。続いて部屋があるのか、裏の廊下があるだけなのかは分からなかった。ランレルは、部屋と耳栓を用意してもらって、食事を部屋に運んでもらうか、川辺で食べていただくか、と思いながら、川の方を見渡していた。ソファーに座った一家が、戻ってきた老やに案内されて、玄関から外へ向かう。馬車が来たのだろう、老やに指示された男衆が一家の箱荷物を運びながら、外へと移動して行った。


川近くのソファーに座っている背筋がぴんっと伸びた紳士に、暖かい飲み物と共に、トレーに新聞を載せて運ばれたようだった。紳士は軽く手を上げて礼をすると、飲み物よりも先に新聞を手にとって、低いテーブルに大きく広げた。片眼鏡の人だったのだが、指で軽く調整すると、視線を落として字を追っていた。時折、脇に置かれた飲み物に手を伸ばし、口にするが、そのまましばらく読み続けていた。


女将が裏に入って、ランレルは受付に立って手持ち無沙汰になった。サテン達を呼んでくるか、もう少し待って見るか、と思って視線を紳士に向けると、紳士はため息をついて新聞を置いていた。昨日のか、二日前の新聞だろう、と思うと何を見たのだろうと気になった。ランレルが、新聞の紳士を見ながら、自分も新聞を見たい、あれから王都はどうなったのか、明日の新聞なら書かれているだろうか、と思ったところで、外で大勢の人間の気配がした。


鐘の音がしていても分かるほどの気配で、耳を澄まさなくても分かるざわめきに、馬の嘶きに、ブーツで蹴立てて歩く、鉦の鎖や兼帯のがちゃがちゃした音がして、ランレルが受付から玄関を開けて飛び出すと、街道から警邏隊がぞくぞくと到着しはじめているのが見えた。


「ランレルさん。これを」

外を見ているランレルに、女将が声をかけてきた。受付から走って出たのを見つけて追いかけてきたようで、ランレルに手早く袋を渡してくれた。ランレルは警邏隊に気を取られながらも、袋の中は貨幣なのは明らかで、どこで確認するかと迷ったのだが、その姿に、

「上着はこれを、こちらをかぶってお行きなさい。手袋が必要ならこちらを。人数分のご用意がありますから」

と女将はさらに大きい袋を渡してくれた。


一そろいの旅の準備に見えた。これを準備していたから時間がかかっていたのだ、と気が付いたのだが、女将は、

「川の向こうへ行かれるのでしょう。向こうは寒く、そろそろ山の冬一番が吹く頃ですから」

と言って、驚くランレルに、

「町を助けて下さった方たちに、心ばかりのお礼ですよ。改めてお礼をしたいと思っていましたが、あの様子でしたらすぐにご出立でしょう」

と街道からくる警邏達を見る。到着した男たちは、馬を馬つなぎに引き渡したり、トルンへ向かって走って行ったり、また、柱に結ばれていた兵たちは、やって来た警邏達に次々と立たされていた。街道を王都へ向かって歩くのだろう。小突かれながら紐を繋がれていた。女将はそれを見ながら、

「本当に、感謝しかありません。町を助けて下さった、と言うのもありますが、内の旦那も助けていただきましたから。この袋は私からのお礼です」

と言って笑った。マチューと言う、洗脳をサテンに解いてもらった男が、女将の夫だったのだが、ランレルは知らなかったし、女将もそれを言う気はなかったようだ。ただ、

「受付へ行って為替の確認をしてください。さあさあ、警邏の方たちは気が短いので有名ですから、すぐにご出立となりますよ」

と言う声に、ランレルは、慌てて受付へ戻り、デスクを背で人目から隠したところで、中の貨幣を検めた。そして、女将に、為替の写しにコインにインクを付けて印をつけた後、自分の名前と場所、日付、と言う順番で書き記した。女将がそれを確認している間、メローが新聞を置いて顔をしかめている男に、朝の食事だろう、ビスケットやチーズの乗った皿を出しているのが見えた。女将は視線の先を見て、

「山の豪族の娘ですよ。王都に出た夫が戻ってくるのを待ちきれなくて、降りてきたのに、王都で見つけられなくてね。ここで憔悴した上、産気づいて、戻るに戻れなくなっていたので、ここで働いてもらっているんですよ。山に戻るなら、必ずここを通りますからね」

そういって、いたわるように笑っていた。


銀色の髪に銀色の目の夫がいるのか、とランレルは思い、それなら王都では目立つから、もし、ランレルが王都に戻って、そして、まだ見つからないというのなら、探してみようと考えた。そう思わせる程、メローと言う女性は、何かしてあげなければ、と言うほどやさし気に思えた。どうして、夫はこんな女性をほおっておくのだろう、と腹立たしく感じていた。


とはいえ、ランレルは為替の手続きが終わると、女将に丁寧に胸に手を当てる深い感謝を表す礼をしてから、さっそく袋から上着を引っ張り出した。真新しくないのだが、柔らかな暖かい起毛の生地で着心地が良い。深い感謝にさらに礼をしようとすると、

「ほら、急ぎなさい」

と言われて、慌てて着込んで、袋を手に飛び出して行った。

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