山間部-007 人里離れた村だという話もある

夕日は空を赤紫色に染め、あっという間に山を影の中に隠してしまった。


ランレル達は、街道でもあるテラスの脇で、低い白壁にもたれる様にして時間を過ごした。サテンは持たれて腕を組むと目をつぶってしまい、アヤノ皇子は脇で片膝をついて控えるようにしていたのだが、疲れがたまっていたのだろう、崩れるように地面に腕をついて眠り出していた。トチ医師は四角い鞄を枕にして体を丸めて眠っていた。眠れる場所で眠るのが、医師の務めだと言いながら、頭を鞄の上に乗せるとあっという間に眠むってしまった。


ランレルはと言うと、みなと同じように耳栓をして耳カバーをして、そして、周囲の音を普通に聞いて「これは聞こえない音、聞こえない音」とつぶやきながら目を閉じていた。


そして、きっと眠ってしまったのだろう。ランレルは夢を見ていた。


白光の中にランレルはいた。あまりにまぶしくて両目をつぶっていると言うのに、瞼の奥まで光が刺さるような強さで、ランレルは右腕を上げて腕で目を覆う。しかし、腕も肩も光だし、顔を覆っているのか、光を浴びる為に腕を顔に押し付けているのか分からなくなり、うめき声を上げた。上げたはずの声は、声自身も光となる。白光はさらに強い七色とも透明とも取れる光へ変わりだし、ランレルは思わず右手で目の上をわしづかみした。


光を押さえようとしたと言うより、どこかにしがみつきたくて掴んだ。そうすると光に顔も腕も手のひらも溶けだして、ランレルは自分が光の中へと消えていくのを感じた。自分であったはずの、海辺の記憶があった。母親が浜の朽ちた船の脇でたたずんで、駆ける自分を見つめていた。あの穏やかで湧き上がるような喜びの記憶が、遠い望遠鏡の向こうの景色のように見えだして、足の先から自分が消えていくのを感じた。頭とは何だろう、となったところで、腕も腰も胸も髪も、人間とは何だったか分からなくなり、最後に誰かの微笑みを見た気がしたのだが、そこで全てがぷつりと切れた。


茫漠と流れる景色を見ていた。


長い長い間、流れ続ける景色をランレルは見ていたのだと思う。始まりは、大勢の仲間が旅立って行くところだった。見送る己の心に耳を澄ませようとすると、心を感じるより早く、球状の半分に見える大地が光と緑と厚い水の色とに変わり続ける景色に変わった。


それから、どのくらい時が流れただろうか。景色はいつの間にか、もっと身近な森になり山になり海に変わって、時には人の戦になって、風のように景色は変わり、草原から湿原に、砂漠になって、気が付くと、泉の脇に立ち尽くしていた。


小さな突き出た岩の上に立って、泉の底に眠る姿をじっと見つめていた。そこは森の中だった。太陽が頭上に上った。と思ったら、月が頭上をよぎり、木々の緑が吹き出し、赤くなった葉が落ちて、白い雪に変わったかと思えば、春の花々に囲まれて。それを何度も何度も過ごしながらも、じっと水底に眠る美しい姿を見続けていた。


ランレルが、「愛しい」と言う言葉に行きついた瞬間、何度も流れる季節の流れが止まり、止まったと気づいた時には、ランレルはしっかりと目を開けて、身体を起こしていた。


どこにいるのか分からなくなり、身体が痛いと思ったところで、道路に寝ていた、という事を思い出した。


顔からぽたぽたと水が流れ、「寂しい」と言うのだろうか、寂寞とした思いに、ランレルは胸をぐっと掴まれたように感じた。たまらなくなって腕を上げて、目をぐっと腕で擦った。泣いている、とその時初めて気が付いた。これは自分の思いじゃない、という事だけはわかった。誰の思いかも、なんとなくわかった。


「起きろ。いくぞ!」

と言う声を聴いて、顔を上げると、月あかりに照らされたトルン達が歩き回っているのが見えた。そばに警邏の男が来て、一人一人揺り起こしていた。アヤノ皇子が飛び起きてきょろきょろしてから、側にサテンがいると気づいてほっとしているようだった。サテンは声を掛けられ立ち上がり、マントの誇りを片手で軽く払うだけで、まるで、王都の豪邸のソファーで体を起こしたかのように見えた。トチ医師は触れられた瞬間に目を覚まして、鞄を手に反射的に立ち上がり、警邏の男と目が合うと、ほっとしたように「患者じゃないのか」とつぶやいていた。


それからすぐに、警邏達と街道を進み始めた。カレルーラの町を後に、緩やかな坂を上り始める。谷側の欄干はすぐに消えて、道は岩の多い、歩きにくい細いモノへと変わりだす。避暑地への道から、山の道へと変わり始めていた。


ランレル達は警邏達に挟まれるようにして、足元の影を睨むように進んでいく。前を行く警邏が、時々手を上げて足元を指さすと、くぼみがあったり、岩が出ていたりした。


それでも、歩きやすい道だった、とランレルが、そう思うようになったのは、すぐの事だった。街道は、すぐに分かれ道に出た。と言っても、半円形のくぼみが山側にあるだけで、そこから川が流れた跡にしか見えないような崖を登って行く、道に見えない道があった。岩山を登る。巨岩が転がっていて、どこから落ちてきたのかと思うような大きな岩の間を縫って、崖に現れた細い筋のような道を登って行った。


土が流れた跡がある。踏み固めてあって、道だと分かる部分もある。つる草が岩の上に苔のように生え、時折、根を岩と岩の間に渡って伸ばした大きな樹が、オブジェのように現れる。


岩を縫って歩くと、空が見えるばかりで、どこを歩いているのか分からなくなっていった。急こう配を岩を掴むようにして登り、時々、滑るようにして木の根の脇を下って行った。月は頭上にあったのが、傾いていき、道の影は濃くなり、前方を行く人の姿が見えなくなり、自分と前を行くトチ医師と、後ろの警邏の男のみがこの世界にいるような気がしてきた。


すると、さっきの真っ白い夢を思い出した、ランレルはどうしよもない不安を感じた。ここの自分がいる、ハーレーン商会があって、アルラーレ様がいて、海辺の町から叔父さんの家に出てきて、人間として生きている、と心の中で言って聞かせて、不安になった。なぜ、人間として、生きている、と思わなければならないのだろう、と。


ランレルは、ふいに顔を上げた。空から何かが見ているような気がしたのだ。上を見た。降るような星空だった。明るい、まるで海に降りる星の川のようだ、と思って思わず止まって見惚れてしまった。


ランレルは山の峰に来ていた。見おろすと、大きな木は岩肌にところどころ生えて、ごろごろとした岩が黒い陰になって、その底に暗い谷底が見えた。随分登って来たんだ、と気づいて、顔を上げると、蛇行しながら登る人々の姿があった。人の世界にいる。ランレルはそう思ってほっとした。目の前を行くトチ医師は、荒い息で、それでも足を止めずに歩き続けている。


ランレルも、慌ててトチ医師を追って歩き始めた。


山の峰に出ると、なだらかな道になった。もう、ランレルは呼吸しか意識できずに、周りを見る余裕もなくなっていた。足元の大きな石ころを除けて、前を行くトチ医師の足元だけを見て、トチ医師が踏んだ場所を踏んで、それしか意識になくなっていた。だからだろう。


「ついたぞ」


と言う言葉に、何の感慨もなく、足を止めた。前を行くトチ医師の足が止まって、同じように足を止め、動くのをじっと見つめて待ってしまった。


顔を上げると、森にいた。驚いて見回すと、後方に岩の道があった。そこから森に入ったらしい。

「村か」

とランレルはつぶやいて、やっと村に、チェシャ村についたのだ、とほっとして正面を見た。すると、森の中に岩山があって、その脇を行く細い道が見えた。

「今日はここで休憩だ。様子を見てからさらに進む」

「だろうなぁ」

トチ医師の疲れたような声がした。トチ医師を見ると、周りを見ながら、耳栓を外していた。隊列が止まったので、何事かと耳のカバーを外したらしい。アヤノ皇子も同じように耳カバーを外し、警邏達の様子を見ていた。

「医師様は、村がどこかご存じなんですか?」

ランレルは、そういってから、慌てて耳カバーと耳栓を外した。人の聞こえるモノを聞く、と言うのを思い出したからだった。トチ医師は首を左右に振りながら、

「龍神信仰で有名なチェシャ村だよ。谷底を見下ろす急峻な崖に、信者が家を建てているという話を聞くし、人里離れた村だという話もある。こんなに一日二日、山に入ってつくような村じゃないはずだ」

そういって、トルン達が、岩陰にくぼみがあったようで、そちらにランレル達を誘導し始めていたのだが、歩き出しながら、

「まあ、休憩があるのはありがたい。もう、足が棒でこれ以上は歩けんよ」

と言ったのだった。ランレルも同感だったのだが、なんとなく言いにくかった。アヤノ皇子は絶対にこんなに長く歩いたことはないだろうと思うのに、全く頓着しない表情で、サテンの後を追って行くし、もちろん、警邏の男たちは全く疲れたような顔をしていない。自分だけが、医師様と同じように疲れた、とは言えなかった。海にいた時には誰よりも動けたと言うのに、山を登っているだけで、ほとんどの体力を使うとは、王都で体がなまったか、とちょっと悔しい思いをした。

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