ランレル-010 川鰐がいる、粉を撒け!

ランレルを、男たちにベンチに横たわらせてもらうと、トチ医師は顔をしかめた。広場の柱にあるベンチは、鐘の梯子の近くにあった。音が酷くて、そばに盥の水を運んでくれた男たちや、布を渡してくれた女たちは、辛抱強い表情で黙然と動き続けていた。


ランレルは、横になって体の揺れが少し収まり、慌てて身体を柱にもたせ掛けて座ろうとした。が、腕を支えにベンチの板で体を起こそうとすると、そのままずるりとベンチの上に落ちてしまう。トチ医師は、しっかり横になるようにランレルをベンチに抑えて、自分の上着を脱いで丸めると、枕の代わりに頭の下に突っ込んだ。

「すいません。ちょっと力が入らなくて」

ランレルが謝ると、トチ医師が聞こえなかったのか耳を傾けて顔をしかめた。しかし、様子から何を言ったのか察したのだろう、

「血が戻っていないのだろう。どういう状況か分からないが、あの傷の後だ、安静にしておくのがいい」

と言って、傷口がまったく見えなくなったつるりとした肌の肩のあたりをちらりと見た。


ランレルは、あの傷の後と言われて、思わず肩に手をやった。痛くもないし、傷の後もないし。と思いながら、トチ医師の上着の枕の頭を落とした。頭を枕に沈めながら川面を見ると、夜の月あかりか何かが反射しているのだろう、明るく、こぶりな船が、揺れている小舟に近づいていくのが見えた。遠くの暗い稜線がその向こうに見え、対岸は暗くて見えない。ただ、川の中ほどの、少年の小舟がぽつりと浮いているようにも見えた。


トルンを乗せた船は、小舟に近づくと、錨の紐を掴んだ男が錨を引っ張り上げて、そのまま、小舟を牽引しながら岸へと戻り始めた。戻りながら、一人が引き寄せた小舟に飛び移ろうとしていた。ランレルが見ていると、中央の少年が、片膝立ちになって、さらに腰を浮かせて、そして、空へ向かって何かを叫んだ。と、小舟の男が、空を見て拝んでいた男が、川へと飛び込み、それを追うように小舟に乗り移ろうとしていた男が、同じように飛び込んだ。


水音が聞こえたような気がした。そして、桟橋の男たちが息を飲むような息遣いが聞こえたような気がした。ランレルは、ぼぉっとなりながら、川を見つめていた。と、

「川鰐がいる、粉を撒け!」

桟橋で船に向かって男たちが怒鳴り始めた。しかし、声が届かないのか、トルンたちが、小舟を引き寄せ、川に飛び込んだ男を探し、船を揺らせているのが見えるだけだった。桟橋に立っている男の一人が、大声でさらに、

「川鰐だ、おい! ちくしょう、聞こえなのか!」

と怒鳴りながら、別の一人が、

「鰐の季節じゃないからだ」

と一人が言うと、

「この冷たい川じゃ、鰐だって動けまい」

と言う声がして、見つめていると、小舟へ近づこうとする、鰐の背のぬめりが光っているのが見えた。

「だめだ! 鐘を止めさせろ、一瞬だけだ」

と町の長だったのだろう。誰かが飛び出すように走りだし、はしごに取り付いて登って行った。そして、鐘を鳴らし続ける男のズボンを引っ張って、「止めろ! 鰐だ!」とどなった瞬間に、鐘の音がぴたりと止んだ。


「なんだ、どうしたんだ?」

とトチ医師がつぶやいた。ランレルの脇で片膝をついて周囲を見回していた。

恐ろしいほどの静けさだった。ランレルが答えよとする。が、すぐに、

「川鰐だ、粉を撒け!」

と言いう男の声が川面を渡った。慌てたように船の男たちが何か布袋をまき散らした、と同時に鐘が再びカンとなった。しかし、それと同時に、

「龍だ!」

と言う甲高い少年の声が鳴り響いた。


町にいる、全ての人が空を見た。船に乗っている男たちも、川に飛び込んで男を肩で支えて船に上げよとしていた男も、同じように空を見た。ランレルも空を見た。雨雲がすっかりと流れて消えて、美しい月がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。川が明るく見えたのはこのせいか、とランレルが思って月を眺めていると、

「龍だ!」

と言う別の声が聞こえた。脇にいるトチ医師のつぶやき声だったのだが、桟橋近くにいる男たちも、空を指さし震える声で、「龍がいる」と言いだして、町の方からも同じような声が上がり始めた。そこに、

「港を龍神さまがお望みだ。鎮まれ。速やかに龍神さまをお迎えせよ」

と言う良くとおる、少年の声が響き渡ると、鐘が、さらにカンっと何度かゆっくり鳴っていたのだが、その鐘を打つ音も止まった。


「おお、龍だ。本当に龍がいた」

とランレルが声がする方を見ると、ランレルの水盥を抱えていた男が、膝をついて恐ろしいものを見るように空を見上げていた。トチ医師が歯を食いしばっているような声で、

「龍神だ。本当にいたのか」

とつぶやいた。ランレルは、人々が言う方を見て、空を見た。やはり、月が美しく輝くだけで、その外には何もなかった。

「トチ医師さま。龍は、どこにいるのでしょう?」

とランレルが聞くと、トチ医師は驚いたような顔で振り返った。そして、

「目が見えなくなっているのか? 空から下るように、龍の顔が空いっぱいになってこちらへ降り始めているぞ」

とランレルを心配しながら話してくれた。ランレルは目を見開いて、身体を起こした。目は見える。トチ医師も見えるし、周りの板敷きの広場も、天井の木組みも、空も見える。

「月夜ですよね?」

「ああ、きっと。龍の向こうに月が見えるかもしれないな」

とトチ医師はやはりランレルが見えなくなっているとでも思っているのか、目を覗くようにして答えてくれた。


その時、

「これは、幻だ! だまされるな! 龍などいない!」

と大声を張った男がいた。船で立ち上がるようにして、船の男たちに、そして、静かになった町の人々に、トルンが言い、さらに声を張って、

「龍はいない!」

と怒鳴った瞬間、船の男たちがトルンを抱えるようにして船底に倒れた。「危ない!」と言いながら何かを避けようとしたように、ランレルには見えた。

「龍神様は怒っておられる」

その時、少年が同時に大声を上げていた。少年はさらに、

「龍神は信仰心のある者には慈悲深い。ないモノには、容赦がない。龍が襲うぞ」

と言った途端に、町の中で悲鳴と逃げるような騒動が起こり始めた。


ランレルは、何もない空を見上げていた。トチ医師は、

「危なかった。龍が食うのか」

船の方を見ながら言っていたのだが、トチ医師は「龍が襲うぞ」と言う声に、ランレルをかばうようにして床へ伏せた。ランレルは、肩から板へどんっと当たるようにして横になり、それでも空を、川面の上を眺めていた。


「何もない」

ランレルがつぶやくと、トチ医師は、

「見えるようになるだろう。大丈夫だ。傷も治ったんだ。きっと目も治る。大丈夫だ」

と励ますように言っていた。ランレルが、

「龍はいない」

と言うと、トチ医師は戸惑ったような顔をして、ランレルは板に手をついて身体を起こすと、

「龍はいない!」

と強い声で言った。トチ医師は、驚いたように空を見ていた。何かを探すように空をみて、おや、と言うような顔をした。とその時だった、

「空に龍はいない」

と静かだがよく通る声がした。声は、風に乗って船にも届いたようだった。声が桟橋を渡り、町の中へと入って行く。不思議な広がりのある声だった。すると、悲鳴を上げたり、逃げ惑っていたり、信じます、信じます、と膝をついて祈るように言っていた声が、徐々に戸惑いのようなモノへと変わって行った。

「おお、やっぱり幻だった、龍はいない!」

嬉しそうな声を上げたのは、トルンだった。船に川から上がった男も、船べりを掴んで空を見て、ほっとした顔をしていた。引き上げられて、小舟で祈っていた男は、屈みこんでぶつぶつ言っていたのだが、ぼんやりした顔で空を見ていた。そして、すぐに耳にカバーがかけられたようだった。


ランレルは、ベンチの前で座りなおした。板敷きに足を組んで座って、川を見ていた。


小舟の少年は両腕を振って、「龍いる、そこにいる、我らの心を図っておられる!」と言うのだが、それに反応する町の人間は出てこなかった。と、小舟はここで、慌てたように川の中央から、向こう岸へと戻り始めた。


それを見て、桟橋で川をにらむように立っていた男たちが、

「逃げていくぞ!」

「去ってくぞ!」

と声を上げ、次第に、喜びの声へと変わって行ったのだった。

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