ランレル-009 どんな幻を見ているのか

ランレルは馬上で体を起こした。馬から降りようと鞍に手をかけて、ふと川面を見た。対岸が遠く、山の稜線が暗いせいか、きらきらと水が光って明るく見えた。その中ほどに一艘の小舟が見えた。


こちらから、小舟に向かった船が半ばで止まり錨を降ろしているのか川面に揺れている。船の上の男たちが、遠目にも奇妙な動きをしているのが見えた。手を上げて耳を抑えている者もいれば、空を見上げて両手を伸ばして、何かを称えるように叫んでいるようにも見えた。遠い上に、鐘の音が鳴り響いている為、何と言っているのか分からないのだが、三人の内一人が空を見て、ひとりが耳をふさいで、もう一人が錨の紐にしがみつくようにかがみこんで震えている、と言う風に見えた。


中ほどの小舟には、対照的に、ただ静かに、両手を組んで空を見上げている少年の姿があった。白いローブのような服を着て、長く広い袖から細い腕を出して、頭上に掲げて両手を握る。黒髪は短く、額の上で切りそろえ、遠目にも色白なのが分かるのだが、頭上を見る目は揺るがず、何かをつぶやき続けているのか、リズムを取るように、身体を前後に揺らしていた。随分離れているはずなのに、不思議なほどよく見えた。


「耳栓をした者で船を出せ! まずは、中ほどの船を回頭させて岸に戻すぞ」

トルンと言われた警邏の男の声がする。


ランレルは大きく息を吸って頭が左右に揺れそうになるのを抑えた。そして、馬の鞍に腹を乗せて両足をぶらんとさせて滑り降りると、アヤノ皇子の横に立ち、

「申し訳ありません。私が手綱をいただきます」

と言って、馬の手綱を受け取った。自分の馬の手綱を皇子に握らせて引いてもらう、と言うのは、さっきまで元気だったせいもあって、後ろめたく感じて、丁寧に、そして、礼の意味を込めて、手綱を掴んだ手を軽く掲げてみせた。アヤノ皇子は一瞬迷ったようだったが、サテンが川辺に向かって歩き始めるのを見ると、

「任せた」

と言って、こちらを見ずに、そのまま、サテンの後を追って行った。


ランレルは馬の首をねぎらうように叩いて、額をつけて、そのまま、もたれる様にして身体を休めた。大地に足がついているとは思えない程、身体が揺れているような気がしていた。

「どこか、座れる場所に行こう」

と言ったのはトチ医師だった。言うと同時に、周囲にいる川の男たちに、

「ベンチは無いか? 休憩所のようなところはないか?」

と声を上げて聞いていた。と言っても、そばに行かないと声が聞こえないので、ランレルから離れて、男たちを掴んでは、耳元で大声で怒鳴っているようだった。ランレルは、馬の肩に額を寄せながら、こんな大きな鐘の音がするのに、不思議なほど声がよく聞こえるな、と思いながら、身体がだんだん沈み込むでいくのを感じていた。


馬の首に手をまわし、肩に額を押し当てていたのが、ずるりと手が離れて額をつけたまま馬の脇に身体が落ちる。と思ったところで、大地にそのまま崩れ落ちた。気づいた男たちが、慌てて駆け寄ってきて引き上げる。連れのトチ医師へ両手を振って、休憩所でもあるのだろう、川沿いの屋根の広場へと向かうぞと合図をしてから、ランレルを両側から肩で支えるようにして歩き出す。


サンテは、桟橋近くの岸に立っていた。サテンは振り返って、ランレルとトチ医師の様子を見ていたのだが、休めば大丈夫だと思っているのか、じっと眺めるだけで、広場のベンチに、男たちとトチ医師が、ランレルを横にさせると、視線を川面へ戻した。


桟橋は三本ほど川の中へと飛び出している。その内の端にある一本から、警邏の隊長のトルンが川の男たちの漕ぐ船に乗って、漕ぎだそうとしていた。サテンは、板敷きの端に立って、川岸の葦が目の前で揺れていたのだが、その前で、川を見ていた。そのわきを、トルンは足早に川の男たちに話しながら通って行った。

「狂信している者は、しばらくはそのままになる。耳をふさいでも変わらん。しかし、時がたてば、それほど洗脳されていなければ、普通に戻る。相手の声を聞かなければいいだけだ。ただし、小舟の小僧が何か命令をしたら、その通りに動くかもしれない。船を転覆させたり、こちらへ飛び掛かってくる可能性もある」

「警邏の隊長さん、泳げますかね」

と言って、上から下までトルンを眺める目は、剣を腰にし、鋲のある上着やブーツをはいている姿では、船が沈めばそのまま沈む、と思っているようだった。そのせいか、トルンが問題ない、と言うようにうなずいて、

「ああ、大丈夫だ」

と答えた時には、疑わしそうな眼を見せた。しかし、それ以上の事は聞かずに、足早に桟橋を踏み鳴らしていく。


そんな彼らがサテンの横を通る時、サテンが、

「どんな幻を見ているのか」

と聞くと、低い声だったにも関わらず、この鐘の音の中でも聞こえたようで、トルンは、はっとした顔で振り返って、

「分からぬ。聞けば、向こうの術中に入って戻れなくなる」

と厳しい声で答えた。トルンは、そのまま、立ち止まらずに、川の男たちと船に向かった。


係留されている船は、岸を離れていたのだが、男たちは、紐をひっぱり、桟橋に戻し、次々に乗って行った。最後にトルンが乗ると、男たちは耳に手を当てそれぞれ耳栓をつけているようだった。


サテンの横で、彼らを見ていたアヤノ皇子が、トルンの答えを気にしていたようで、船が出る前に、

「わたくしが聞いてまいります」

と言って桟橋を駆けだそうとした。しかし、サテンが、

「いらぬ」

と言うと動きを止め、サテンがさらに、

「いずれ分かる。拝んでいる男も連れ戻ってくるからな」

と言って、岸を離れて行く船を眺めていると、アヤノ皇子は、「御意のままに」と言って、サテンと同じように川面に目を向けるたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る