ロンラレソル-011 お客様じゃなきゃ上がれない
アヤノ皇子に無責任な励ましをつぶやいた後、男は小魚を口にした。黒髪に面長な顔で、通った鼻梁に丸い眼鏡が掛かっていて、表情が分かりにくい。年のころは30から40くらいか。口の端で加えた小魚が、嚙みながら消えて行く。ジョッキをさらに傾けようと持ち上げて、階段の下で店の男たちともめだしたアヤノ皇子をじっと見る。店の男が、
「お客様じゃなきゃ上がれないって言っただろうが!」
と両手で押すと、アヤノ皇子は視線を階段の上へ向け、
「医師を探している。けが人がいる」
とはっきりした声で言い返していた。それを見て、ジョッキを一度テーブルに戻し、顎に指をかけてつぶやいた。
「さて。どこかでだろう。見た顔だ」
低い確信のない声だったのだが、アヤノ皇子が、
「慮外者が、下がれ!」
と肩を押す男に両足を踏ん張って答えた姿を見て、ひょいと立ち上がったのだった。
「まさか」
と言う驚きの声を上げて。そして、上着の中から布巾を出して指を手早く拭うと、
「お勘定、ここにおくよ」
と軽く女給に声をかけて店を離れる。その後ろに、
「いつもありがとうございます!」
女給は、テーブルに置いたコインを手に、にこにこしながら声を上げ、勘定以上の金額を置いて行ったのだろう。いいや、と言うように背を向けたまま手を上げると、
「またどうぞぉ!」
とちょっと黄色い声になって見送るのだった。
その頃、店の者を前に、階段へ足を掛けたアヤノ皇子の前へ、階段の裏から腕の太い顔に刃物傷がある男が出てきて、
「お店に迷惑かけちゃなんねぇよ」
とガラガラ声で言いだした。刃物傷がモノを言うから用心棒になったという、気のいい男だと、知っている者は知っているのだが、見た目はいかつく、身体も大きい。実際、ちょっと手の平で押すと、普通の男はふっとぶくらいの威力がある。宵闇で見るすがめた目は恐怖をあおる。しかし、アヤノ皇子は、男の前から一歩も引かず、それどころか視線も向けずに、まっすぐに二階の回廊を見上げると、「医師はいるか! いるなら顔を出すがよい!」とよくとおる声を上げていた。
男はアヤノ皇子の鼻に顔を突き付けるようにすると、
「おいにいちゃん。お客さまはお休みの時間なんだよ。医師なら医療所が開いてる時間に呼びに行きな」
「けがは待てぬ」
と言うと、男は顔をしかめて、実際は、同情をしていて、飲んだくれようとしている医師に対して苦い気持ちになっていたのかもしれないのだが、吐き出すように、
「誰だって休みは必要なんだよ、ぼっちゃん」
と言って、さあ、帰りな、と言うように、アヤノ皇子の肩を押した。それを片手の甲で払うようにすると、実際は男の手に手の甲ががっと当たっただけだったのだが、アヤノ皇子は男を見上げて、
「医師が要る。参らぬならば、私が参る」
「お客様以外はこの階段は登れねぇんですよ。ぼっちゃんよ」
とだみ声で言って、さあ、ここを離れろ、と言うように、アヤノ皇子の手の甲をそのまま取って、ぐるっと背を向けさせた。とアヤノ皇子が声を上げ、
「大けがをしている。一刻を争う。医師にそう伝えよ。そう聞いて動かぬ医師はおるまい」
「ここの声は上に筒抜けになってまさ。これで、降りて来ないってのは、医師様の意志」
と苦い声で言った。アヤノ皇子はそのまま前へ踏み出して男の手を外すと、ついっと大通りへと踏み出して、二階を見上げる場所に立って、
「医師よ! 降りて来て患者を救え。救う腕がある者が人を救わずして、いったい誰が人の命を救えるのか! 疾く、下りて救ってくれ!」
と大きな通る声で二階へ叫んだのだった。
ざわめいていた二階の回廊から、何事かと下を見下ろすものが出はじめた。胡弓を奏でていた者が、曲がちょうど終わったのだろう。手を止め、次の曲のリクエストでも待っているのか、曲が止まった。すると、辺りが静かになった。遠くで小太鼓の音がして、嬌声や歓声が聞こえてくるのだが、場違いのような静けさだった。その中で、アヤノ皇子が、
「医師よ、下りて参れ。怪我人がいる。血が流れ過ぎて危ない者がいる。来て、その命を救ってくれ」
と頼むように言うと、二階から返事が返った。
「そんなに危ない命なら、そろそろ尽きている頃だろう。要るのは医師か? 坊主じゃないのか?」
「命は尽きぬ。龍王がおられる。直す事だけが叶わぬが、命は尽きぬ」
「そりゃ結構だ。ちょいと飲んでしまうまで、待ってておくれ」
と本気にしていないと分かるような声音で答えた。
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