ロンラレソル-010 今の時間は飲み屋だよ

アヤノ皇子は、立ち上がりながら振り返った。大きなどっしりとした引き戸のある宿屋と、嬌声を上げる女性が男にしなだれかかる飲み屋との間に、小さな家があった。玄関の庇の下に引き戸があって、入口だけの幅の小さな家だった。その家の引き戸は閉じていたのだがガラス格子で、ガラスの中は、真っ暗で誰もいないのが見て取れた。

「今の時間は飲み屋だよ」

と誰かのささやき声がした。アヤノ皇子はそちらを見た。うっと息を飲む姿は、他の男達の影に隠れて見えなくなった。アヤノ皇子はそちらへ踏み出す。「うわ、来た」としゃべった男が、胸に突っ込んであった布財布を引っ張り出して小銭をテーブルに投げると逃げていった。他の男達もアヤノ皇子が振り向くと、視線を落とすか、テーブルのつまみをむやみに指でちぎりだすかして、おかしな光景になっていた。


背筋の伸びた青年が歩こうとすると、全員の肩が揺れて関係ないと言うように、目立たないように背を向ける。全員が同じように動くのだから、奇妙に波だつ様に見えた。気圧されたくない、威圧感が叶わない、と思っているようなのだが、面白がって真似をしている者もいた。


その中で、アヤノ皇子は踏み出しながら、不思議な気持ちで眺めていた。いつもと違う。いつもなら、動いても叫んでも、周囲の人間は他の人を呼ぶか、誰かに相談しているか、自分以外の人間に視線を向けて、自分を見ない。なのにここでは、みなが自分を注目している。しかし、誰も目を合わせない。同じなのに何かが違う。アヤノ皇子は、周囲の男たちを、何が違うのかと視線を彷徨わせてから、通りの向こうの灯の落ちた医療所の格子扉を見つめた。


時を止めた龍王陛下の魔法の中で、あの青年は喉から噴き出た血を、まるで気にせず馬を駆った。飛び出た血が、まるで何かの牙のように見えたと言うのに、穏やかに、龍王陛下に話しかけては考えて、何かを感じていたようだった。


永遠に時を止めて入れば、あの青年は助かるのだろうか、とアヤノ皇子は不安な気もちになった。そして、陛下の命令を遂行できない、と思うと何かが壊れて行くような、足元が消えて行くような気持になった。


唇が震え青ざめていたのだろう。そんなアヤノ皇子を見て、口の中で舌打ちした男がいた。アヤノ皇子の目に茫漠とした底のしれない恐怖が見えて、舌打ちした男は、イラっとさせられたようだった。こんな若造がなんて目をしているんだ、と思ったようだ。だからだろうか、アヤノ皇子が女給の前で立ち止まって、棒を飲んだように動きを止めると、

「ゼーン楼だ。あっちの二階だ」

と声をかけた。


アヤノ皇子が視線をゆっくり動かして、声の主を探している、と言うのが分かると、ゆっくりと手を上げて、横を指さした。その先には明るく提灯で照らされた二階に続く階段があって、階段の下には、両側に店の者達が並んでいて、来る客に膝を折って挨拶をしていた。ゆっくりうなずきながら階を上る客の姿は、厚手の布や刺繍の上等な服を着ていると言うだけでなく、鷹揚な頷き方や、表情の読めない笑顔などから、下の飲み屋の男達と全く違った世界の人たちに見えた。


飲み屋の二階は、店から店へと繋がっていて、大通りの両側に延々と続く回廊になっていた。その回廊の欄干からは煌びやかな、豪華な衣装で着飾る男女が欄干に乗りかかるようにして、提灯に照らされた大通りを眺めたり、空を眺めて何か小唄を歌ったりしながら、楽しそうに過ごしていた。


王都の街の中では味わえない解放感を楽しんでいるように見えた。奥には廊下があって、その廊下を盆を抱えた給仕たちが、勢いよく駆けまわっているのだが、大通りからはほとんど見えない。アヤノ皇子達がいる飲み屋から見ると、まるで、豪華な衣装や、享楽的な動きとが相まって、別世界の展覧場のようにも見えた。

「止めた方がいいぜ、にーちゃん」

と囁くように止めた男がいた。アヤノ皇子がじっと二階を見上げていたから、ふと心配になったのだろう。上品に見える青年だが、上品に見えるからこそ場違いだ、と思ったらしい。アヤノ皇子の茫漠とした表情と、唐突に立ち止まってしまった危うい動きに、心配をした者もいたようだ。飲み屋にいる全員でからかっていた、と言う気になって、ひけめに感じた者もいた。


しかし、アヤノ皇子は反応しないで、じっと二階の回廊を睨むと、「医師が必要だ」とつぶやいて、ついっと階段に向かって歩き始めた。それを見て、『ゼーン楼だ。あっちの二階だ』と言った男が、大通りにはみ出たテーブルで飲んでいたのだが、

「急げ、急げ。急げば一杯飲み始める前に、引っ張り出せるぞ」

と声を掛けた。


アヤノ皇子は声を背に、まっすぐ階に向かって歩き始めた。さっきまでの不安な表情は消えていて、口を引き締め、客を迎えに並んでいる店の男たちを見る目には、力が宿りだしていた。「助ける」「助けなければ」と言う言葉が口からこぼれ、そこには、あの、『龍王陛下の命だ』と言っていた時の、狂信者めいた眼はなくなっていて、真剣な面差しだけが残っていた。


上の階だと言った男は、そんなアヤノ皇子の顔を眺めると、ちょっと乾杯するようにジョッキを上げて、「若者には幸運を」と言って飲み干した。


男は、丸椅子の縁に手をついて、足を投げ出して座っていたのだが、裏に絹の生地を使った茶の上着を着ていた。白糸の刺繍を入れた上品だが派手さのない上着で、王都らしい姿をしていた。上の階にいそうな姿だったが、この男も、王都へ戻り損ねたのか、疲れの出た顔であくびを噛み殺すと、アヤノ皇子が階段の下で店の男達ともめ始めるのを眺めながら、皿に残った干し魚に手を伸ばし、「若者よ、がんばれよ」とつぶやくのだった。

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