ロンラレソル-008 急ぎで医師が必要だ

アヤノ皇子は素直に看板に近寄り、腰高窓のカーテンで閉ざされた暗くなった部屋を外から覗き込んだ。日が暮れて、遊侠街となった今、店はしっかりと扉を閉じて、人を寄せ付けなくなっている。遠くから来た人々が、土産をここで準備して王都へ挑む。または、物価の高い王都では土産を買えなかった人々が、ここで土産を揃えて帰って行く。夜の遊びのために、または、プレゼントや仲間を驚かすために、ここでお金を落として、くだらない、または、不思議な、そして、物珍しいものを、このハーレーン商会で買っていく。


アヤノ皇子は脇のドアノブに触れて開けようとした。ノックをしなければと言う意識は無い。ドアは開けるものだ。と、ドアを押す。しかし、開かない。この時間酔っ払いや強盗除けで、閉まっていて当然だったのだが、アヤノ皇子には分からない。扉を押して動かないので、扉についたガラスから中を覗き込んだ。薄暗いが外が明るいお蔭で良く見えた。テーブルやソファーに布が掛かっていて、もう、今日は誰もいないのだと分かる。今日のみなのか、それともずっとなのかは、アヤノ皇子には分からなかった。だが、いないと言うのが分かっただけで十分だった。


アヤノ皇子は踵を返して、人間のいる方へと歩き出す。すぐ先に、飯屋があった。二階家の下に広々とした土間があり、通りにまでテーブルが並ぶ。雨が止んで、通りに出ているテーブルにも人が戻りはじめ、奥の厨房からは肩の高さに盆を上げて歩き回る女給がいた。


今は飲み屋になっていたのだが、大勢の汗臭い旅姿や、身体を拭いて出て来たのかすっきりとした格好の男達が、陽気に食べて飲んでいた。通りにはみ出すテーブルにも、雨に濡れた椅子を女給が拭いていくのを待たずに、旅人が腰かけて行く。


男達は互いに話ながら、視線は通りや、宿屋で呼び込みをしている派手なドレスと髪粉をつけた女の泣きボクロを見て、にやにや笑ってジョッキを開ける。たまに、テーブルに乗っている揚げた鳥の骨をつまむために皿に視線を落とし、時々、横をすべるようにすり抜けていく女給たちの胸をちらちらと見て、それでも、結構穏やかに、

「王都の門が閉まってしまったのは痛いねぇ」

「ここで宿が拾えたのは幸いだったよ」

と世間話をしている。この先の旅程や計画は、とりあえず後にしよう、と言うような、あきらめ半分のゆったりした時間を過ごしているようだった。そんな中、その飲み屋に、アヤノ皇子は近づいた。そして、鳥の骨をつまんで口に放り込もうとした男の脇に立って見下ろすと、

「医師を呼べ」

と簡潔に言った。アヤノ皇子の言葉に、飲み屋にいた男達が驚いたように顔を上げた。王城の門が閉められて、ここにやっと戻って来て、最後の宿部屋をやっと見つけて助かった、なんてことを話しながら、よくここであう旅仲間と話していたのだが、男は、驚いたようにアヤノ皇子の顔を見る。その顔に、アヤノ皇子は、

「医師を呼べ。必要だ」

と再び言った。まっすぐ彼らを見る目は、青く澄み切っていて揺るぎがない。なのに使う言葉は高慢で、言われた男は、戸惑ったような顔から、むっとしたような顔にかえ、

「酔っ払いかよ。向こうへ行け」

と手にした鳥の骨を、しっしと払うように振って見せた。アヤノ皇子は眉間に皺を寄せ、

「陛下の命である。可及的速やかに、医師を要する」

「で、どんな病人がいるっての?」

と鳥の骨を持った男の前で、赤い酒をジョッキでぐっと飲んでいた男がバカにしたように聞いた。健康その物にしか見えないアヤノ皇子を上から下までわざとらしく見て、けっと口の中で音を出す。しかし、アヤノ皇子は、

「怪我人が参る。医師がいる。家人はおらぬので、おまえが呼んでまいれ」

「おいおい、家人が呼んでくれるような御大層なお家のおぼっちゃんって言うなら、とっととその家人を呼んで来ればいいだろうが」

「おらぬから言っている」

「俺らぁ、あんたの雑用の為にここで飲んでいるんじゃねぞぉ」

と唸るように言うと、口の中で不愉快そうに罵りの言葉を言ってから、ジョッキをぐっと傾けた。アヤノ皇子は少し困惑した顔になった。しかし、ぐるっと周囲をみまわして、

「急ぎで医師が必要だ。誰か医師を呼んでまいれ」

とさらに言った。重要な要件だ、と分からせるように彼らの目を見て、命じる声で言い放つ。

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