城下-009 絨毯が水を吸っています

ランレルは、口の中の舌打ちが外に出てこないように抑えながら、

「こちらにお着換えください」

と再度言った。幼子に服を着せ替えさせるように着せ替えさせる気はさらさらない。自分でやれ、と言う気を前面に出して言ったのだが、客人はじっとしたまま、ゆったりと視線を動かしランレルを見る。用事を知らないダメな家人を見るかのような視線を向けた。ランレルはイラッとして、

「ズボンは濡れていますよね。絨毯が水を吸っています。さっさと脱いでお着換えください」

と言うと、軽く会釈をする、と言う程度の礼儀はして見せて、さっさと扉を開けて外へ出た。と、ドアを閉めようとしたところで、

「私が自分で服を着るのか?」

と言うつぶやきを聞いて、動きを止めた。嫌みやいらだった声だったら無視できただろう。しかし、この客人のつぶやきは、どう聞いても途方に暮れたようにしか聞こえない。上品な人間と言うのは、こんなにもダメなのか? とランレルは思い、振り返って顔を見ると、不安そうに目が揺れて、どう見ても親とはぐれた子供のようにしか見えない。ランレルは深いため息をついた。


ランレルは、今朝は朝から、店舗に出ていた。昨夜遅く、慌ただしく、王宮に上がっていたはずのソウラ・ギャベットが戻り、アルラーレの指示を仰いでどこかへ飛び出していく音を聞いた。ランレルの部屋は店舗の真上で、居住区とは離れているのだが、オフィスに近い。店番と言う意味もあるのだが、こう言う時には何かが起こっていると気づけて便利だ。しかし、朝起きてからはいつもと全く変わらない朝が始まり、主に聞いても、

「船を抑えに行っただけだ。私たちにはそれほど関係あるまい」

とだけ言った。本当に問題ない事なのか、食事がすむといつものように店を開けた。店は、朝からの雨で客足も悪く、一人二人と接客をすると暇ができたので、水気を吸ってスエードにカビが生えたり、飾り道具の鉄がさびないように、奥にある暖炉に火をくべようとカウンターの中へ入っていった。


カウンターの影にある炭箱を開けて、鉄ばさみで炭をつまんで籠に移していると、カタンと軽い音がして扉が開いた。店員になってからしごかれた習性で、瞬間身体を起こして扉に向かった。目が合えば、笑顔と共に挨拶を、と思って見るとフードを深くかぶった背の高い影のような姿がゆらりと中に踏み込んできた。しずくが店内にこぼれ、立ち止まると水たまりができてしまう。慌てて一見モップに見えない美しい布をつけた棒を手に、嫌味にならないタイミングで入口へ向かわなければと思ったのだが、ランレルは動けなかった。フードを後ろへ跳ね上げて出て来た顔は、ショーウインドーを華やかに照らす為に窓枠に下げていたランプの光を受けて、はっきりした影ができたせいか美しく幻想的な、しかし、表情が無いせいかぞっとするような何かがあった。


店舗には、茶会のテーブルを飾る小物を探して雨を押して出て来た子爵婦人や、雨が降っても雪が降っても退屈だからと隔日に来る大店の隠居や、次に来る買い物の下見にと言ってこの界隈に来たついでに寄って外国産の布を次から次へと眺め見ていた男爵夫人の親子がいるだけだったのだが、彼らも全員、入って来た男を見て、そのフードから出た顔を見て、動きを止めた。それほど、印象的な、ランレルはぞっとしたのだが、独特な雰囲気のある美しい顔だった。整っていると言うよりは、面長の色の白い顔は頬がこけはっきりとした意志を見せ、黒々とした切れ長の目に、大きく広がった唇と相まって人を見下しているようにも、周囲の存在を全く認めていないようにも見えた。それなのに、ゆっくりと動く視線に当たると、子爵婦人が頬を染め、男爵夫人とその令嬢が思わず視線を落としてしまうような何かがあった。


二歩踏み込んで、その後に、再び別のフードの男が入った時に、ランレルは呪縛が解かれるように身体がやっと動き出し、モップに向かって手を伸ばす。と、そこに、

「今度は何を拾って来たんですか、伯父上」

と言う、店主のアルラーレの声を聞いた。思わずランレルは背筋を伸ばして緊張した。初めて見る店主であるアルラーレの親族だった。

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