城下-007 この少年の呼び名は?

サテンの脇で表情豊かに文句を言っていた男が、疲れたような声で、

「ランレル。着替えさせてあげなさい。この子を、この」

と言った後、サテンに向かって、

「この少年の呼び名は?」

と聞いた。サテンは、さてと言うように首を傾げた後、

「アヤ。何にいたすか?」

と聞いた。アヤノ皇子は、

「お望みのままに」

と頭を下げたまま答えたので、聞いていた男はバカらしいと言うように溜息をついて、

「伯父上。あなたが、アヤと呼んでいるなら、アヤなんでしょう」

と言った。そして、再び、先ほどアヤノ皇子にタオルを巻きつけ、その後、この展開を表情を変えずに、と言うより、変えないようにアヤノ皇子の後ろに立ち尽くしていた青年に、

「アヤ殿をお連れしなさい。風邪を引く」

と命じたのだった。

「かしこまりました」

と青年は答えて、膝をついて恍惚とした顔でサテンを眺めつづける青年をなんとも言えない顔で見下ろした。上品で品位がある。気品さえ感じられる。なのに、この残念な感じはなんだ、と思いつつ溜息を隠した。


アルラーレ、と言うのが、サテンを伯父上と呼んでいる男の名だった。年の頃は30過ぎ。灰色の髪のせいか年齢以上の年に見えた。穏やかな緑の目は、深いため息をついているせいか、少し疲れて見えるのだが、それでも活気があって生き生きして見えた。良い商売になったと無邪気に笑っている時には20代にも見える美丈夫だった。王都に大きな店を構えて、顧客には腰が低く、商売では抜けが目ない。大陸中に支店を構えるハーレーン商会の主であった。伯父上と呼ぶほどの気安さのせいか、サテンを相手に一歩も引かない度胸があった、と言うよりも、いい加減サテンに振り回されているだけのようにも見えた。サテンが、

「さっさと服を着替えてこい」

とアヤノ皇子に対して片手で追い払うようにして言うと、膝をついていた気高さに溢れていた青年がぱっと立ち上がって、青年ランレルを見る。そして、

「我の着替えはどこに?」

と雅な言葉で問いかけるのだった。


八角形の部屋は、奥の建物とをつなぐ廊下のような物らしい。アヤノ皇子が家人のランレルについて扉をくぐるとさらに回廊に出て、その先に別の建物があった。振り返ると、広い庭の中央に八角形のガラスの屋根が見え、その向こうに煉瓦造りの壁が、店舗の建物が見えた。アヤノ皇子はぼうっとした視線で雲から覗く薄日の中に光るガラスの屋根を見つめていた。前を行くランレルは腰低く案内をしているのだが、ぶしつけな視線を隠そうとして隠せていない。ぼんやりしたアヤノ皇子の顔は、おっとりとした大人びた子供のようにも見えるし、子供っぽい表情をする大人のようにも見えた。年齢が分からない。アルラーレは少年と呼んでいたが、丸みの消えた頬と言い、すっきりとした目元といい、どう見ても少年には見えない。しかし、目が穏やかだがどこを見ているか分からないような顔をするせいか、年端もいかない子供のようにも見えた。


立ち止まったまま、ついてこなくなった客人を待ってランレルは考えた。この店に奉公に入って3年。王都に出て来て4年。15歳で、海辺の漁師町から王都に母親の祖父の孫の婿、つまりは母親の従兄弟の婿、と言う血のつながらない遠縁を尋ねてやってきてから、4年。そろそろ20歳になろうとしている。店に出て接客をするようになって2年。鄙びた田舎町から出て来て、全ての人間が煌びやかで自信に満ちているように見えていた、あの15歳の日々から、王都の通り一つ隔たっただけで全てが変わってしまうような貧富の差や、生活の違いを知り、その違いによって生まれる立ち居振る舞いや言葉遣いの違いを学んで、だいたいどんな人間なのか分かるようになってきた、と思い始めた今日この頃だったのだが、この客人は分からない。


ランレルは赤茶けた母親似の前髪を指先でかき上げ、髪と同じ赤茶けて見える目を細め、客人をそっと見つめた。この容姿のお蔭で、母親の幼馴染でもあった母親の従兄弟の婿は、随分前に死別した妻の縁戚の者だと言うのに、懐かしいと快く迎え入れてくれて、仕事先を世話してくれたのだが。それはさておき。客人の黒く短い髪はどれほど手入れをしているのかと思う程黒くつややかで、上を見上げたまま、背をすっと伸ばして身じろぎ一つせずに立ち止まる姿には、気品を感じた。声を掛けにくいと思わせる程の品位があった。

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