城下-005 怯えたようなアヤノ皇子がいた

怯えたようなアヤノ皇子がいた。


戸惑ったような顔をしていたのだが、びっくっとすると動きを止めた。これほど穏やかに自然に話しかけられたことはない。すると、動かないアヤノ皇子にしびれを切らしたのか、男は、手早くフードを外しマントを脱がせ、中の上等な生地の上着が濡れて黒みがかってしまっているのを見ると、苦い顔をして、

「この季節の雨は身体に悪い。とにかく中にお入りなさい」

と言って、腕を取って、後ろも見ずに歩き出したのだった。サテンはそれを見て口の端をゆがめながらも笑っている。そんなサテンを見て、奥に入りかけた男は、

「ほら、伯父上。あなたも。周囲が濡れて迷惑でしょう」

と何の同情もない声で言うと、サテンが歩き出すのを待って、さらに奥へと進んでいくのだった。


店の中。サテンについて店舗に入ったアヤノ皇子は、腕を引かれるままに歩き、カウンターの脇を通って、細いドアの扉をくぐって、床板がきしむ中、板壁の暗い廊下を通って、店の奥へ連れていかれた。どこかの部屋に入るのか、腕を引く男が扉を片手で突き出すように押すと、びっくりするほどの光が廊下に差し込んできた。廊下は、暗くて分からなかったのだが、壁には小さな絵が飾られて、天井には格子枠の中に花の文様が描かれていて、出窓に器を飾る棚まであった。暗い廊下は磨き抜かれた美しい板床で、壁のふちには木の蔦彫りの飾りまである。王宮ほどではないが、アヤノ皇子の住んでいた屋敷よりもずっと美しく手の込んだ建物だった。


そして、その先、光のあふれた場所は、八角形の部屋だった。高い天井にはガラスが張られ、今はそのガラスに、八方の全ての壁に掲げられた明るいオイルのランプから上がる火の光が反射して、七色の光を部屋の隅々にまで広げていた。床には厚手の絨毯が敷かれ、四方に大きなソファーセットが四客も置かれ、さまざまな織物や布生地のクッションが置かれ、また、それぞれの場所には、タイルであったり、焼き物であったり、大理石であったり、それぞれの素材の床に、合わせた材質の机が置かれて、雑然と、しかし、どこかに腰掛ければとてもくつろげそうな広々とした空間が広がっていた。

「見本市ではないか」

とこれを見て、呆れたような声で言ったのは、アヤノ皇子に続いて入ったサテンだった。アヤノ皇子が振り返ると、サテンは上着に水が沁みていたのか、さっさと上着を脱ごうと袖を引き抜こうとしていた。腕にはりつく上着はなかなかひぱっても離れず、煩わしいように腕を振りながら脱いでいた。とても人間臭く見えた。アヤノ皇子を引っ張って来た男は、

「当たりまえでしょう。こんなバカ高い王都の空間を、無駄に使えるものですか」

とぴしゃりと言って、ふと腕をつかんだアヤノ皇子を見上げた。フードを取ったアヤノ皇子は青白いとはいえ肌理の整った肌にすっと通った目鼻立ちの美しい少年の様にも見える青年だった。そのアヤノ皇子が腕や肩に濡れた絹を絡ませて、震えるように立っている。

「温かいものに着替えましょう」

と今度は優しく言うと、その声を待っていたのか、八角形の壁のどこからか人が出て来て、アヤノ皇子の上着を引っ張るように脱がし始めた。そして、上着どころかズボンも濡れていると気が付くと、中の一人が、上着代わりにタオルを巻き付け抱き込むようにしながら別室へと引っ張り始める。アヤノ皇子は引っ張られるままに歩き出し、八角形の壁まで来ると、それが衝立の様になっていてその向こうに廊下や、別の壁があるのが見えた。そして、その先に行こうとして、サテンが付いてこないと言う事に気が付いた。サテンは、立って手渡されたタオルを頭に被せて首筋を拭っていた。腰の下は乾いているらしく、

「相変わらず、伯父上は器用ですね」

と言われながら、濡れて張り付いた上着を店の男の一人に引っ張られながらどうにか脱いで、中のシャツも軽く脱ぎ捨て、上からタオルをかぶるように巻き付けていた。アヤノ皇子は立ち止まって、サテンを待った。サテンが来なければ、別の場所へはいけないはずだ、と言うように。店の者が、

「お風邪を召してはいけませんから」

と言って引っ張っても、動かず、

「さあ」

と強引に力を入れて動かそうとする。しかし、アヤノ皇子は動かない。まっすぐサテンを見たまま微動だにしない。表情は驚くほど抜け落ち、能面のような顔になって、腕を引かれると身体を動かさないせいでねじれたようになったのだが、眉一つ揺らさない。

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