第7話
新潟の山の方にある小さな学校、
「雪月、今日、なんか用事あったの?夢月が先行ったって言ってたけど」
私の教室――5−1に、ヒョコリと顔を出したのは、6−2の紫夕くん。私はランドセルを片付けに行くふりをして、そっとその場から離れた。
――あたしと紫夕くんが二人で学校に行けるように、協力して!
みっちゃんは、お願い!と必死に頭を下げた。うん、とうなずくしかなかった。普段は、夢月は近くの友達と行ってしまうから、私達三人で通っていた。紫夕くんのことが好きなみっちゃんにとって、私はすごく邪魔者だったのだと思う。
私は次の日、いつもより早く家を出た。しんと静まり返った通学路。いつもは三人で歌を歌いながら歩く、楽しいはずのそれは、今の私にとっては、怖いものでしかなかった。遠くから聞こえる、かすかな車の音さえも、小五の私を怯えさせるには、十分すぎるほどだった。
そんなこんなでやっとこさたどり着いた学校は、時間が早いせいで数人の先生しかいなかった。
誰もいない靴箱。足音の響く廊下。静まり返った教室。私の動く音だけがあたりに響く。
だれか、早く来て。私はそう、一心不乱に願った。ちょびっと泣きそうになった。いや、実際はほんの少し泣いたかもしれない。
「雪月、一緒に帰ろ」
教室を出ようとすると、急いで走ってきたのであろう紫夕くんが、私の前にやってきた。目のあった5−2のみっちゃんが、驚いたような顔をして――目を、そらしてしまった。
彼には深い意味はないのだと思う。みんなもきっと、仲の良かった幼なじみが突然、何も言わずに先に学校に行かれたら、なにかあったかなって心配するよね。まさしくそれだ。私はわかってた。
だけど――みっちゃんは、紫夕くんのことで、紫夕くんへの気持ちでいっぱいいっぱいだったのだと思う。恋愛と友情を、分けて考えられない。一緒くたとしてしか考えられない。
そんなみっちゃんを見て、少し胸が、痛くなった。
ごめん、と断り、一人で校門を出た。
「人間って、面倒くさいよ‥‥‥」
どうして、みっちゃんに、気を使わないといけないのかな。
「どーしたの、雪月ちゃん」
上から聞こえた、聞き覚えのある、優しい声。
「――京吾くん」
見上げてみるとやはり、中学の制服を身にまとった、紫夕くんの兄、京吾くんだった。
京吾くんは「とうっ」と石段から飛び降り、私の横に並んだ。
「雪月ちゃんは、人と関わるの、昔っから苦手だよねー」
しみじみと、思い出すように言う京吾くん。
「引っ越してきたとき、俺、嫌われてんのかってレベルで避けられてたし」
ははっと声を上げる。うう‥‥‥なんだか覚えがあるような‥‥‥。周りより体の大きかった京吾くんは、私にとっては恐怖の対象でしかなかったような気がする。
「人間ってさ、面倒くさい生き物なんだよ」
「‥‥‥え」
私の呟き、聞いてたの!?
「それとうまく付き合う――それが賢い生き方なんじゃねえの?」
ま、俺はそういうの、めちゃんこ苦手だけどな、と笑う京吾くん。
そっか。うまく付き合うのが、賢いのか。
「ありがとう、京吾くん。私、わかったかもしれない‥‥‥!」
早口で言い切ると、回れ右をして、学校に向かって駆け出した。
「若いねえ」なんて京吾くんのおじさん臭い呟きは、私の耳には届かなかった――。
「雪月!?」
わずか二百メートルほど後ろを、ゆっくりと歩いていたのは、紫夕くんだった。
京吾くん、もしかしたら紫夕くんを待ってたのかもなって思って、なんだか申し訳なくなる。
「やっぱり私、紫夕くんと一緒に帰る!」
「‥‥‥おう!」
私ばっかり、我慢してたらだめだ。私は一人で寂しく帰りたくなんてない。こうなったらみっちゃんへ、マッコウショウブってやつだ。
人間は、面倒くさい生き物だから。ぶつかって、喧嘩して、仲直りして、またぶつかる。そんなものだから。何なら私は、ぶつかってやる。ぶつかってきたのなら、ぶつかり返してやるんだ。
「雪月ちゃん、ひどい‥‥‥」
次の日、朝一番に聞いたみっちゃんの言葉は、「おはよう」でもなくそれだった。
「紫夕くんのこと好きだって、言ったじゃん!雪月ちゃんにしか言っていないんだよ!協力してよ!雪月ちゃん、頑張ってって言ったじゃん!」
断末魔のような叫びが、ずきん、ずきんと胸に突き刺さる。
ここ、どこだっけ。
私、何してるんだっけ。
なんで私は――この子と仲良くしてるんだっけ。
一切反応のない私にしびれを切らしたみっちゃんは、私に向かって飛びかかり、そこからはあまり記憶にない。血みどろの戦いをしたわけではないが、思い出したくもない、ボロボロの戦い‥‥‥のような気がする。今となってはそれも懐かしいのだが。
寝坊したらしい紫夕くんと、ちょうど出てきた夢月が止めに入って、丸く収まったけれど――一度狂ってしまった歯車をもとに戻すのは、本当に大変なことなんだなってその後、身を持って知った。
それからは、みっちゃんが自ら進んで早く学校に行くようになった。そんなに私と顔を合わせたくなかったのだろうか。とはいえ、私はあんな怖い道を一人で行く気はゼロだったから、少し救われたのは事実だ。元々違う組でみっちゃんと顔を合わせることはなくなった。基本家に帰ってからも外に出ないし、土日はみっちゃんが避けているらしく、私達の関わりは、皆無に等しくなった。
「雪月」
優しく呼びかける紫夕くんの背景には、ひらひらと桜が舞っている。
――卒業。それは、避けたくても避けられない事実、そして、年齢の差を唯一恨むことだった。
来年からは、一人で通う。それが私にとって、一番辛いことだった。
「俺さ、今だから言うけど‥‥‥雪月のことが好きだ。俺の隣に、いてほしい」
紫夕くんの声は、熱っぽい。ああなるほど――そういう意味で。なるほど、がってんしょうちだ。と変な回想に至っていた私は、反応が遅れた。
みっちゃんの気持ちは、今の紫夕くんと同じだって、そうわかった。
――ごめんなさい。
私はそういうことしかできなかった。
遠くにみっちゃんがいる。声こそ発していないものの、ひどいと、唇が言う。
中町中に進学した紫夕くんとは会わなくなり、また、小学校卒業と同時に私は引っ越し、みっちゃんとも会わなくなり、二人とは連絡が途切れた。
――狂ってしまった歯車が、もう一度回ることは、なかった。
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