さすがは俺のお嬢様

ブンカブ

さすがは俺のお嬢様

「パンがなければ青山のカッフェでパンケーキを食べればいいじゃない!」


 そういって高笑いをかましている金髪縦ロールの女子高生が、恥ずかしながら俺のご主人様だ。その髪型たるや、大昔のテニス漫画に登場する女子高生夫人を彷彿とさせる。ただし、瞳の中にキラキラ星は住みついていないので、そのあたりは貧乏くさい。


「あら、嫌ですね。はしたない。これだから庶民出の成金さんは」


 我が主を流しそうめんの如く冷ややかな目で笑っているのは隣のクラスの女生徒だ。こちらもまた我が主に負けず劣らずの資産家の御令嬢だった。ただし彼女は正真正銘、由緒正しい昔ながらの金持ちであり、その父親は代々続く政党の党首だった。


 今、彼女たちは大理石で造られた無駄に絢爛な学生食堂で、たがいの食事の内容について討論し、これまた無駄なカロリーを消費している。いったいそのカロリーでどれだけの難民たちの命が救われるものかわかったものではない。


「きーっ、生意気ですのよー! セバスチャン!?」

「はっ、お嬢様。そして俺は高橋洋一、そのような名ではありません」


 猿のように鳴く我が主の失態を前にしようとも、常に涼しい態度を崩すことがないこの俺、つまり高橋洋一は成金お嬢様こと園田麗子の忠実な執事だった。その付き合いは長く、物心ついた時にはすでに彼女の「おもらし」を隠す手伝いをさせられていた。ちなみに「おもらしパンツ」の隠し場所は10年経った今でも見つかっていない。もはやタイムカプセルだ。5年後の成人式の際には大々的にオープンしてあげようと思っている。


「黙りなさいセバス」

「はっ、失礼を」

「……コホンッ、よ・ろ・し・く・て天竜寺さん?」


 わざとらしく咳払いをすると、お嬢様は洗濯物が洗えるほど真っ平な胸を自慢げにそらしながら言葉を続けた。ボー○ドのCMの座でも狙っているのだろうか。


「はい、なんでしょうか園田さん?」


 一方で天竜寺と呼ばれた由緒正しきお嬢様は、我が主とは比較にならない膨らみを組んだ両腕で持ち上げてみせながら、艶やかな黒髪を揺らす。やはりこちらはいろいろと本物だ。対して我が主は作り物。一見して天然のブロンドに見える髪も、実は高級店でそれっぽく染めてもらっただけだった。胸部の方も、パッドを1枚入れていることを俺は知っている。だから1枚では足りないと言ったのに……。


「家の品格は執事の品格、本物の良家ならその執事も一流のはずですわ」


 麗子お嬢様は唐突にわけのわからないことを得意げに言い出した。


「ええ、一理ありますね。来なさい、雪彦」


 パンパンッ、と天竜寺様は美しい所作で手を鳴らす。すると、さながら呼び鈴で呼ばれた高級レストランのボーイのごとく、それまで人混みに紛れるようにして立っていた長身の美男子が進み出てくる。彼こそ天竜寺お嬢様の執事を務める青年、小笠原雪彦だった。その経歴は俺自身目を通して驚いたことがる。彼はもともと日系アラブ人であり、幼少時は紛争の続く国で兵士として戦っていたらしい。それを不便に思った天竜寺様の父親が引き取り、愛娘のボディーガード兼執事として教育を受けさせたのだとか。


「はい、お嬢様」


 雪彦は柔らかな笑みを浮かべると、次いで我が主と俺に恭しく頭を下げるのだった。


「執事に求められるはその忠誠心。礼儀をわきまえつつも、主人のためとあらば恥も外聞もなく使命を全うする。そして、その主人もまた執事のために恥を忍ぶ覚悟が必要ですわ」

「つまり……?」

「ルールは簡単ですわ! うちのセバスとあなたのデクノボー、どちらが優秀かを『お使いバトル』で決定する」


 お使いバトル。


 それは古来より伝わり、執事の優劣を決する際に執り行われるやんごとなき戦いの名だった。もちろんこの俺、高橋洋一も幾度とないこの争いの勝者として勝ち残ってきたからこそ、麗子お嬢様の執事として存在し続けられている。


 だがしかし、今、この場で、よりにもよって学校で、このやんごとなき戦いの火蓋が切られようなどとは誰が想像できただろうか。俺もまさかこのようなことになるとは思っていなかったので、夕方から美容室を予約してしまっていた。執事は身嗜みにも超一流の気を遣うのに。


 お使いバトルの名前が出た瞬間、食堂中の生徒たちがざわめき立つ。彼らもまた超一流の両親を持つ将来を約束されたエリートたちだった。


「面白いですね。しかし雪彦の意思もあります。どうかしら……?」


 言葉とは裏腹に、天竜寺様は目元をニヤニヤとさせながら自らの執事の様子をうかがう。どうやらよほど自信があると見える。


「お嬢様のご命令とあらば」


 雪彦は一切の私情を挟まず、あくまで執事として対応する。


「敵ながらあっぱれですわ。では、さっそくお題に––––」

「お嬢様、お待ちを」


 が、俺は寸前のところで止めに入った。まるで状況と話の流れが理解できなかったが、とりあえず無駄な争いだというのはわかる。どのくらい無駄かというと、ツ○ッターで「いいね」の数を確認しているくらい無駄だ。


「なによセバス、あたしに文句があって?」

「洋一です。失礼ながらお嬢様、お使いバトルは執事界に伝わる神聖な戦い。このような場は相応しくないかと」


 そもそも、どうしてお嬢様方のいざこざで執事の俺たちが巻き込まれなければならないのかがわからない。青山でも表参道でも勝手に行って、バケツでケーキを流し込めばいいじゃないか。


「そうですね」


 すると、雪彦も同じことを考えていたのか、その名が示す通り雪のような繊細さを感じさせる横顔で朗らかに微笑んだ––––


「僕の勝ちが確定している以上、彼に失礼かと。園田様もおかわいそうです」


 ––––と、思っていた。


 違った。この雪彦という執事、完全にやる気だ。俺は彼の優しげな瞳の中に、青く揺らめく野生の炎を見つけた。祖国での兵士の血が騒ぎ出したのか。もはや彼にとって、俺は喉笛をかききられるのを待つだけの哀れな獲物にすぎないのだろう。


 だが、ここまで言われてしまえば、俺も黙って引き下がるわけにはいかなかった。


「……失礼だが」


 一歩進み出て、頭ひとつ分は背の高い雪彦をにらみ上げる。


「俺を侮辱するのはかまわない……が、麗子お嬢様の名をあげるのは許せんな」

「ほう?」


 雪彦は1ミリたりとも臆すことなく、俺の両目を鋭い光の灯った眼光で見つめ返してくる。


「たしかに園田家の歴史は浅い。しかし逆を言えば家名を頼ることなく、己が実力だけでのし上がった真に実力を持つ家系だ。祖先の甘い汁をすする君たちとは違う」

「旦那様の悪口は許しませんよ……?」


 互いに鼻息を強く鳴らし、踵を返して離れる。


 どれだけ大そうな経歴をもっていたとしても、所詮は俺と歳の変わらない男だ。それに、俺だって実力主義の園田家において、麗子お嬢様の執事であり続けたという誇りがある。この勝負、負けるわけにはいかない。


「セバス、あなた……!」


 麗子お嬢様は先ほど俺が切った啖呵に心を震わされたらしく、感極まって両方の目に涙を蓄えていた。だから俺は大きく頷いて答えた。


「はい、お嬢様を馬鹿にしていいのは俺だけですので」


 そのまま麗子お嬢様の横を抜けて後ろに控える。お嬢様が癇癪を起こして何か騒いでいたが、俺はあえて聞こえていないふりを通した。


 では、ここで改めて“お使いバトル”がどのようなものなのかを説明しておこう。俺たち執事には「主の命令を忠実に実行する正確性」が求められるが、それ以上に必要とされるのは「主が本当に必要としていることを見定める能力」だ。早い話、言葉での伝達には限界があり、主人が自身の意図を齟齬なく完璧に申し付けてくれているとは限らない。言い換えれば「顧客が本当に必要だったもの」を提供できるかどうかを判断するテスト。それが執事による“お使いバトル”だった。


 手順としてはまず、ご主人様たちがそれぞれの執事には分からぬように「お使い」の内容を紙に書く。次に、ご主人様同士でその内容を交換し、わざと間違いを発生させるような内容に書き換えた上でお互いの手に戻す。当然、この際に明らかに簡単すぎる内容や、もとの内容とはかけ離れすぎたものなどは書き直しとなる。こうしてお互いが十分に納得のいく内容になったなら、その内容を執事に口頭で伝えるのだ。この時、執事はメモを取ることなど許されはしない。主の指示を一言一句間違えずに記憶できないようでは、その執事の質などたかが知れているからだ。


「セバス、わたくしの身になって考えるのですわ」

「洋一です」


 いつもの軽口を叩くが、今回ばかりは俺もお嬢様も緊張を余儀なくされていた。何せ相手は政界随一の大物、天竜寺の御令嬢とその執事だ。しかもその執事はハリウッド映画顔負けの出自ときている。正直、執事よりもスパイ映画に出た方が稼げるだろう。


「いいですわね、一度しか言いませんわ」


 主人が申し付けるお使いの内容も、一度しか聞くことは許されない。二度聞するような無能は、どこまでいっても二流、三流の執事にしかなれはしない。俺は全神経を集中させ、お嬢様の吐息ひとつ、髪のこすれる音ひとつ聞き逃すまいと身構えた。


「わたくしからのお使いは小麦粉を使って––––」


 と、彼女がお使いの内容を伝えていたその時だった。


「ぶえええぇっくしょぉおおおおいッ! てやんでえべらぼうちきしょーめええいッ!!」


 やたらと江戸っ子なくしゃみが食堂全体に響き渡った。


「––––に隠したものを取ってきてちょうだい」

「…………え?」

「頼んだわよ!」


 …………。

 ………………。

 ……………………まずい。

 まったく聞こえなかった。


「おや、どうかしましたか?」


 見ると雪彦は冷めた表情をしながら準備についている。


「スタートは同時です」


 言われなくてもわかっている。


 俺は平常を装って革靴の紐を結び直すと、彼の横に並んだ。

 麗子お嬢様と天竜寺お嬢様、二人の合図で俺たちは一斉に走り出す。俺は大理石の柱を抜けて白樺の階段を飛び下り、華麗に回転して受け身を取ると再び大地を蹴った。


 まずい。実にまずい。


 いや、落ち着け。落ち着くんだ俺。わずかに聞き取れた情報とお嬢様の性格から推測し、正解を導くことなど超一流の執事にはできて当然のことだ。俺とて幼少よりお嬢様の遊び相手を仰せつかった身。麗子お嬢様のお考えは、本人よりも理解しているつもりだった。


 お嬢様はあの時、確かに「小麦粉を使った」と言っていた。そして今回の争いの発端はパンだかパンケーキだかだ。つまりパン、あるいはスイーツに関するお使いだと推測することができる。


 だがこれでは方向性は定まっても、特定には至らない。さすがにお嬢様ともあろうお方が、春のパン祭りに胸躍らせたりはしないだろう。ちなみに俺は後一つでスタンプがたまる。言ったら取られそうなのでお嬢様には教えないが。


 やはりヒントは最後の言葉。「隠したものを取ってきて」という部分だろう。


「隠す……?」


 俺は巨大な校門を飛び出すと、とりあえずは市街に向かうバスに乗りながら考え込んだ。


「ふふっ、やはりあなたもこちらですか」


 ハッとして顔を上げる。


 深く考え込んでいたので気づかなかったが、俺の背後には長身の雪彦が立っていた。彼は品のいいタキシード姿で吊革につかまっている。俺は向かい合うと、顔だけは優しげに見える彼に話しかけた。


「君は11歳のころまで中東にいたらしいな」

「はい、その通りですが?」

「そのころ、俺はすでに麗子お嬢様にお仕えしていた。悪いが君とは信頼関係が違うんだよ」

「確かに、僕と恵美お嬢様は会って日が浅い。しかしお嬢様は僕の実力を買ってくださっている。僕のボディーガードとしての腕を」


 冷ややかに、そして自信に満ち溢れた顔つきを雪彦を見せた。


「ただのボディーガードならば執事の敵ではない。そんなに荒事が恋しければ、いつでも生まれ故郷に帰るが良い」

「そういうあなたも、執事は遊び相手とは違いますよ?」


 雪彦はニヤリ、と口の端でほくそ笑む。


「あなたがどれほど有能な執事なのかは拝見させていただきました」


 言いながら、雪彦はスマートフォンを操作してニュースサイトの画像を表示してみせる。


「全日本お使いバトル選手権ジュニア部門、最年少優勝を達成した天才少年執事。そして代々この国のトップに立つ家系に付き従ってきた由緒正しき執事の家系の嫡男だ。本来ならば園田家などという成り上がり組ではなく、血統ある家系に仕えるべき身分。それがどうして?」

「……」


 園田家に入ったのは、確かに俺の意向ではなかった。もともとは父親が執事としての修行のため、荒波に揉ませるために新進気鋭の園田家付けの執事に任命されたのだ。俺としても、ある程度成長したら古くから名の知られる名家の執事になるものだとばかり思っていた。だが、結局は自分から辞退したのだ。俺はお嬢様……麗子様に一生仕えると心に決めていた。


「家名、血統……主と執事の関係はそんなくだらないものではない。君が遊び相手だと馬鹿にするその関係性こそ、俺はもっとも大事な信頼関係だと考えている」


 揺れる吊革につかまる二人の執事。互いにピシッとアイロンのかかったタキシードを着て向かい合うその様は、市街地行きのバスの中では明らかに浮いていた。


  駅前に到着すると、俺はバーバリーの黒ネクタイを締め直す。襟元を整えるこの動作は、俺が本気を出すための大事な儀式だった。


「僕へのお使いはお嬢様が大好きなスイーツ。ですがお嬢様は日によって嗜まれる味と店が異なります」

「曜日固定か? ずいぶんと簡単な内容だな。ずるをしているんじゃないのか?」

「フフフッ、まさか。曜日さえもバラバラです。お嬢様がお召し上がりになるスイーツはその日の体調によります。起床時間、歯磨き粉の種類、朝ご飯と昼食の内容、そしてお通じの加減と排尿の量……無論、その全てを僕は把握しています」

「なん……だと……」

「だから言ったでしょう。僕の勝利は確定していると。それではまた後ほど」


 朗らかな笑みを浮かべつつ、雪彦はショーウィンドウが並ぶビル街を抜けて人混みの中へと消えて行ってしまった。


 どうやらただの傭兵上がりと甘く見ていたらしい。確かに、ご主人様の体調管理もまた執事の役目。無論、俺とて麗子様の体温や食事の栄養バランスなどには目を光らせている。だがしかし、まさか排便排尿まで監視しているとは。さすがの俺も、そこまではできなかった。


「まさかこの俺が教えられるとはな」


 今日からは俺もお嬢様のトイレに付き添うことにしよう。


「さて……」


 それはともかく、肝心の「お使い」の内容だ。俺の勘が正しければ麗子お嬢様もまた食べ物に関するお使いを命じられたはず。そもそもの問題の発端が、学食の名物である“日本産小麦使用の超高級フランスパン”が売り切れてしまっていたことが原因だった。仮に同じようなパンをご所望ならば、最初の文言である「小麦粉」にもつながってくる。


 だがこの青山周辺にわざわざ日本産の小麦を使ったフランスパンを売る店があるのだろうか。確かに、日本産の小麦は高級品だ。一般的にパン屋で使われている小麦は単価を下げるためにアメリカで大量生産された小麦を使用している。しかし、そういった小麦には例外なく大量の農薬が使用されていた。それも収穫する直前に振りかけるのだ。これは小麦の収穫量を増やすためと、収穫の速度を上げるためなのだが、当然体に良いものであるはずがない。そうした意味でもお嬢様たちの学園では、日本産の安心安全な高級小麦を使ったパンしか提供していなかった。


 いくら青山がハイソな街だといっても、利率の低い日本産小麦を商売でやっている店はあるのだろうか。仮にあったとしてもすでに時刻は昼。それほどまでに貴重なパンならば、午前中に売り切れてしまっている可能性もあった。


 雪彦がすでに目星をつけている以上、俺も遅れを取るわけにはいかない。しかしこちらには彼ほどのヒントはなかった。俺は街中を巡り、いくつかのベーカリーをのぞき、フランスパンを購入しては一口かじった。しかしそのどれもが日本産小麦を使用したものではない。俺ほどの執事になれば、両者の違いを見分けるのは容易かった。


 すると、ここにきて俺の脳裏に一つの疑念が浮かび上がる。麗子様がお求めになられているものは、本当にパンなのだろうかと。それにお嬢様が最後に言っていた「隠した」とは何のことなのだろうか。


 いや、謎かけのように複雑に考える必要はないのかもしれない。「隠したパンを持ってこい」と考えれば辻褄は合う。しかし意味はわからない。


 俺はショーウィンドウ越しに見える鮮やかなきつね色のパンを見つめながら考え込んだ。


 そもそも、普通はパンを隠すことなどない。俺はもちろん、食い意地を張った麗子お嬢様とてそのようなことはしないだろう。ではパンというのは何かの比喩か。


 待てよ、そういえばお嬢様はもう一つ言っていたはずだ。


『わたくしの身になって考えるのですわ』


 お嬢様の身になって考える。


 そんなものはお使いバトルにおいて常識だ。相手の身になって物事を考えられないというのは、執事以前の問題だろう。つまり、わざわざ言う必要のない言葉だ。実際、今までも麗子お嬢様の執事としてお使いバトルを繰り広げたことはあったが、そのような前置きを付け加えられたことは一度もなかった。


 パン、隠す、そして身になる……これらの条件から導き出される可能性に気がついた時、俺は脳内に電流が走るのを感じた。


 まさか、いや、しかし!


 本当に「アレ」なのか?


 いくら麗子お嬢様が突拍子もないお方だとはいえ、大勢の前であのようなものをご所望になるとは考えづらい。だが、そうとでも考えないと「隠した」の意味を説明することができなかった。それに、思い返せばお嬢様はこのようなことも言っていたはずだ。


『主人とのためとあらば恥も外聞もなく使命を全うする。そして、その主人もまた執事のために恥を忍ぶ覚悟が必要ですわ』


 お嬢様は少しばかりわがままで頑固で時間にルーズだったが、それでも自分の心にはいつだって正直な方だった。少なくとも、思ってもいないことを口に出したりはしない。ひょっとしたら、お嬢様は本気で恥を忍ぶつもりなのかもしれない。いや、むしろ自ら過去の過ちを認めることにより、園田家の人間としての覚悟を示そうとしている可能性さえもある。そうとなれば、そのお心に応えることこそ執事の務め。


 俺は行列のできる昼時のスイーツ店を見る。まさに長蛇と呼ぶにふさわしい列には、一際目立つタキシード姿の長身の青年がいた。この調子ならば、まだしばらくは列に並び続けることになるだろう。


 俺は踵を返すと、昼下がりのアンニュイな表情で紅茶を嗜むマダムたちを横目に、スマートフォンを取り出した。


「俺だ。大至急ヘリを回してくれ」


 電話を繋いだ先は園田家のセキュリティー部門だ。麗子様専属執事である俺には独自の権限が与えられており、彼女の要望をかなえるためであるならば、ありとあらゆる人員、備品を利用することができた。もちろん、ヘリの1機や2機など造作もない。

 青山のど真ん中にヘリを呼び寄せた俺だったが、ここには着陸できるヘリポートなどあろうはずもない。そのため、上空に静止したヘリから縄梯子を下ろしてもらい、それに捕まって郊外にある麗子お嬢様の自宅へと急いだ。


 麗子様のご自宅、つまり園田邸は都心から少々離れた場所にある。


 ヘリコプターが庭園内のヘリポートに着陸すると、俺は急いで館へと入った。


「高橋さん!」


 ウエスタンレッドシダーでできた重厚な無垢扉を開け放つと、素早く駆けつけてきたのはメイドの内海菜々子だ。彼女は裾の長いエプロンドレスとふんわりとした三つ編みを揺らしながら近づいてくると、必死な顔つきで俺を見上げた。


「内海さん、どうして……?」


 メイド隊はお嬢様の帰宅時には集合して出迎える規則があったが、今はまだその時間には程遠い。それまでの間、彼女たちはメイド長の指揮のもと屋敷の掃除や雑務をこなしているはずだった。


「麗子お嬢様の一大事と聞きました。お使いバトルをされていると!」


 俺は静かに、しかし力強くうなずいて見せた。


「その通りだ。そして執事の……ひいては園田家の品格を試されるこの戦いにおいて、俺が負けることは許されない。内海さん、コード201を」

「コード201っ!」


 内海はギョッと目を見開きながら大きく口を開けてしまい、慌てて自らの手で口元を隠した。


「それではついに打ち明けられる時がきたのですね」

「ああ、お嬢様たってのご希望だ」


 この内海菜々子もまた、麗子お嬢様とは幼いころよりの付き合いだ。当然、大人たちに話していない多くの秘密を共有している仲でもある。


 俺は早速とある場所に隠されていたソレを容器ごと回収する。すでに時間は30分近くが経過していた。あの雪彦もそろそろ学園に戻るバスの中にいるだろう。


「高橋さん、待ってください」


 急ぎ足で館を出ようとしたその背後から声をかけてきたのは内海だった。


「それだけで本当に勝てるんですか?」

「……どう言う意味だ?」

「これを」


 彼女はいつの間にか手にしていた数十枚の紙の資料を手渡してくる。いったい何のつもりだろうかと思いつつ資料に目を落とすと、そこには雪彦の顔写真と経歴の全てが記されていた。だがそれは俺も目を通したことのある書類だ。学園の全生徒と、その執事やメイドたちの情報は全て頭の中にインプットしてある。


「雪彦の経歴は知っている。今更––––」

「わたしも調べたんです。高橋さんが彼と戦うと聞いて。書類の最後を……」


 不安と緊張がないまぜになった表情を見せつつ、彼女は言った。


 彼女が秘密裏に集めてくれていた情報は俺を驚愕させるのに十二分な内容だった。その内容とは、雪彦は執事となってからわずか5年しか経っていないにもかかわらず、本場英国で行われるお使いバトル、通称“執事ロワイヤル”のジュニア部門で前代未聞の5連覇を成し遂げている。


「そういうことか……」


 傭兵上がりとは思えないあの気品、気遣い、佇まい……それもこれも、紳士の国イギリスで培われたというならば納得がいく。


「でも、これほどの経歴の持ち主なのに、高橋さんは知らなかったのですか?」

「執事ロワイヤルは通常の大会とは大きく異なる。大会主催者は英国の諜報機関だ。その優勝者はおろか、参加者さえも公表はされない」


 この辺りの事情は俺も詳しくは知らなかったが、もともと執事ロワイヤル自体が英国のスーパースパイを選出するための催しだったことに起因するらしい。今でもスパイ云々の話が残っているのかは知らなかったが、少なくとも当時の秘密主義の風習は根強く残っているらしかった。


「内海さん、もう一つ調べてもらいたいことがあるんだが……」


 俺は彼女に頼みごとをした後、左手首につけたオメガのステンレス時計の針に目を落とす。学園の昼休みが終わるまで、あまり時間がない。俺はすぐさま中庭に待たせていたヘリに飛び乗ると、そのまま決戦の舞台へと飛び立った。


 郊外からとはいえ、ヘリコプターならば学園までの距離は一瞬だ。何せ園田家が保有する機体はウェストランドリンクスというイギリス軍で実際に使われていたものであり、その最高速度は時速400kmに迫る。一部の形状、そして色合いは民間機らしい青や赤といった原色をふんだんに使って和らげられてはいたが、こいつが一度本気を出せば世界中どこへでもお嬢様の危機に駆けつけることができる。


 上空500mから下界の景色を見下ろしていた俺は、ビル群を抜けた先の大きな森林公園の向こうに、曲線を主体にして造られた現代風の校舎の姿を見つけた。麗子お嬢様の通われている学園だ。


「ミスタータカハシ!」


 園田家専属パイロットを務める男が航空ヘルメットのシールド越しにこちらを見ていた。


「リンクスはここには下ろせない。梯子も無理だ」


 彼の言う通り、この巨体が学園の真上まで下りてきたら、周囲の物を風圧で吹き飛ばして多大な迷惑をかけてしまうだろう。


「構いません。パラシュート降下します」


 こうなるだろうことは事前に理解していたため、パラシュートはすでに装着済みだった。


 余談だが、本来は国土交通大臣の許可なしに航空機からパラシュート降下することは認められていない。故に俺のようなプロの執事以外の者が独断で降下することはけしてやってはならないことだ。これは特別な訓練を受けたプロによる実演だと付け加えておこう。


 俺はヘリコプターのドアから空中に身を投げ出すと、学園の中庭––––学生食堂のテラスめがけて一直線に降下した。そして傘タイプのパラシュートを開くと、テラス席を覆う赤いレンガの床に着地した。この時、傘タイプのパラシュートでは速度が殺しきれずに、足にかなりの衝撃が伝わる。そのため、俺は体を倒し込むように受け身を取ることで着地でのダメージを完全に殺し切ってから立ち上がった。


「セバス、遅いですわよ!」


 テラス席には麗子お嬢様をはじめとし、天竜寺様や雪彦、そして観衆たちが集まっている。俺はタキシードについた汚れをはたきながら、不機嫌そうな麗子様の前へと進み出た。


「はっ、申し訳ございませんお嬢様。そして俺は洋一です」


 左手を胸に添え、右手を後ろに回し、お嬢様に対する礼を示す。そして顔を上げると、次いで天竜寺様の背後で儚げに微笑む雪彦を見やった。


「どうやら間に合ったようですが……」


 雪人はやれやれと肩を竦めながら苦笑する。


「名門の執事と呼ぶにはあまりにも派手な登場。もう少しスマートにはいかなかったのですか?」

「郷に入りては郷に従え。むしろ君への敬意を示したつもりだ。なつかしい光景を見られただろう?」


 俺が皮肉を飛ばしたその瞬間、わずかな間ではあったが、それまで永久凍土のごとく変化することのなかった雪彦の笑みが、一瞬だけ崩落し、怒りの感情を宿したのを俺は見逃さなかった。だが、それも束の間、次の瞬間には再び元の柔和な笑みに戻り、何事もなかったかのように後ろへと下がって行った。


 午後の授業が始まるまで時間はなく、決戦の火蓋はまもなくして切られた。


 学生食堂のテラス席は、緑あふれる中庭を一望できる小高い丘の上に設置されており、床材は本場イタリアから仕入れた赤レンガを使って固められている。そしてその周囲に白亜色で塗装されたアルミ鋳物の丸テーブルが設置されていた。麗子お嬢様と俺はその中央に立ち、また天竜寺様と雪彦はそれに対立するように並んだ。


「公平を期すために、先行はコイントスで決定させていただきます」


 俺は麗子お嬢様と天竜寺様の様子を伺い、反対のないことを確認してからその場にいた男子生徒に手持ちのコインを渡した。念のために、彼自身にコインに細工がないことを確認してもらう。


「表だ」

「では、僕は裏で」


 互いに意思を決定した後、俺は跳ね上げられて宙高く舞うコインの軌跡を追った。


 そして宣告された運命は「裏」だった。


 雪彦はこれを好機と捉えたらしかったが、俺としてもむしろこの結果は運命がこちらに味方していると考えていた。というのも、こちらには不確定要素が一つ存在していた。それは俺自身が麗子お嬢様の「お使い」を遂行できていない可能性があるためだ。あの時、お嬢様の言葉は途中で遮られてしまい、その全文は俺自身が推測するしかなくなってしまった。一方で、雪彦はその経歴と実力から考えても、確実に天竜寺様の期待に応えるだろう。俺にできる逆転の一手、それは雪彦の先を行き、執事としての経験の差を示すこと。


「それでは雪彦、あなたの回答を見せていただけるかしら?」


 天竜寺様が自信に満ち溢れた視線を向けると、雪彦は長い指先で大きな皿にかぶせてあったステンレスカバーをつまみ、サッと持ち上げて見せる。


「はい、こちら“パティスリー・ソウラ”青山本店のフルーツタルトです」


 それは青山本店でしか販売されていないという旬のフルーツばかりを使った贅沢なタルトだ。今の時期だと瑞々しいメロンが中心となって散りばめられており、それも一種類ではなく複数の種類が所狭しと飾られている。値段は1ピース3,000円だ。この値段を聞くとよく「1ホール」の値段だと勘違いする者がいるが、これは「一切れ」の値段だった。


「まあっ、すばらしいです。それで……雪彦、どうしてあなたは私がこれを望んでいると思ったのですか?」

「はい、まず前提としてお嬢様は油分の多いものを召し上がられた日には、チーズ系やバター系などの口に味の残りやすいスイーツは嗜まれません。そして本日の昼食は日本産小麦粉を使った最高級の焼き立てフランスパン。味も良いですが、少々口に油が残る。この点からあっさりと食せるフルーツ系のいずれかかと考えました」


 確かに、麗子お嬢様と天竜寺様は昼食のフランスパンの件でもめていた。そもそも、天竜寺様の方が先に並んでいたのだが、買おうとしていた物が売り切れてしまっていたので、仕方なくフランスパンを選んだのだ。しかしそれによって麗子お嬢様が目をつけていたフランスパンが完売してしまい、今回の争いへと発展していた。何度考えても麗子様が完全に悪い。


「ではゼリーか、はたまたクレープやシャーベットも考えられます。次にヒントになったのは、お嬢様の本日の体調です。お嬢様、失礼でなければ……?」


 天竜寺様の顔色を伺うように雪彦が言うと、彼女は目をつむったまま不敵な微笑みを返す。


「かまいません。名家の娘たるもの、その程度のことを恥とは思いません」

「かしこまりました。お嬢様はここ数日の間、お腹の調子がよろしくありません。食事は減らしておりますし、意識的に冷たいものも避けられています。この事実からシャーベットやクレープなどの冷たいもの、そしてゼリーなどの水っぽいものも選択肢から除外されます」


 完璧な洞察力だ。


 俺もずいぶんと長いことこの業界に携わっているが、わずか5年でこれほどの観察眼を身につけられるとは、才能というより他にない。いや、むしろ1ミリの油断さえも許されない戦場で育ったという境遇が、この雪彦をこれほどまでの執事へと押し上げたのか。


「さらに付け加えますと、お嬢様はパティスリー・ソウラ本店のフルーツタルトが更新されるたびに、必ず一度はお召し上がりになっています。そして今回のタルトはまだ口にされていない。以上のことから、お嬢様はこのフルーツタルトをご所望されていると考えました」

「お見事です。園田さん……?」


 天竜寺様が含み笑いをしながら麗子様を見やる。すると彼女は悔しげに肩を震わせながら、天竜寺様から預けられていた紙を開いて見せた。


「……正解ですわ!」


 麗子お嬢様が広げた紙には、恐ろしいほどの達筆で「パティスリー・ソウラ青山本店のフルーツタルト」と書かれている。いや、本当に達筆すぎた。ボールペンではなく墨と筆で書かれている。そういえば、天竜寺様の母方の家系は書道で有名な名家だと聞いたことがあった。


 雪彦が披露した見事な推理ショーに観客が湧き上がる。


 それに対して俺は––––


「本当にそうですか?」


 ––––横槍を入れた。


 それまでの歓声が嘘のように静まり返り、視線という視線が一斉に俺へと集中した。


「……何をおっしゃいますか」


 雪彦は少々強張った顔をしつつも、冷静に言葉を返してくる。


「紙に書いてある通りです。証拠がある以上、結果は変わりません」


 麗子お嬢様、そして天竜寺様も固唾をのんでいる。


「確かに、お使いの答えはフルーツタルトだったのかもしれない」

「でしたら……」

「だが、それは天竜寺様の真に望んでいたものではない」


 俺が強く言い切ると、雪彦をはじめとして誰もが目を丸くする。もちろん、話題に挙げられている天竜寺様本人も驚きに目を見開いていた。


「内海さん、例のものを!」


 俺がこの場にいないはずのメイドの名を高らかに呼ぶと、突然赤レンガの床が金庫の蓋のように開いて、その下の階段から三つ編みのメイドが出てきた。


「なっ、菜々子っ! あなたなんでそんなところから……!?」


 麗子お嬢様はポカンと大口を開けて固まってしまう。無論、他の学生たちも同様だ。この場で彼女の登場に驚いていなかったのは、俺をはじめとした執事とメイドたちだけだった。


「麗子お嬢様」


 内海は恥ずかしげに微笑みながら口を開く。


「この学園には執事やメイド専用の地下通路があるんです。ヘリコプターほど速くはないですけど、お屋敷からも一直線なんですよ?」

「え、えぇー……」


 状況について来れず困惑している麗子様はいったんおいておくとして、俺は内海に頼んでおいたものを手にした。それは例によって食べ物を乗せたトレーであり、銀色の蓋の下には天竜寺様が本当に欲しがっていたものが入っている。


 このズッシリとした手首を圧迫するほどの重さ……そして蓋の隙間から流れ出してくる香ばしい匂い。俺は悠々とした動きで進み出ると、戸惑う天竜寺様の目の前でステンレス製の蓋を開き、その香りを解放した。


 そこにあったものは––––


「らっ、ラーメンッ!!?」


 素っ頓狂な声をあげたのは観客の誰かだ。あるいは麗子お嬢様だったのかもしれない。しかし、そんなことは重要ではない。大事なのは目の前にいる天竜寺様の瞳が焦りに揺らめいたことだ。それは見ようによっては、強い風に吹かれた蝋燭の灯火のようでもある。


「フッ」


 と、吹き出したのは雪彦だ。彼は細い指で顔を押さえながら堪えきれなくなったように大笑いした。それはさながら水を溜め込んだダムが決壊したかのようだった。


「ハッハッハッハッハッ! それは何の冗談ですか? 言ったでしょう。お嬢様はお腹の具合がよろしくないと。食事も減らしている。第一、ラーメンが食べたければ学食に…………ッ!?」


 そこまで言いかけ、雪彦は自らの過ちを悟ったように表情を凍らせた。


「その通りだ。ラーメンなら学食でも食べられる。普段はな。しかし今日は違った。いや、今日に限ってはと言うべきか」


 天竜寺様は麗子お嬢様が買おうとしていたフランスパンを買ったわけだが、もともと買おうとしていたものは違った。それが何であるのかを正攻法で知ろうと思えば本人に直接聞く以外に方法はなかった。だが蛇の道は蛇、この学園の防犯カメラの映像は学園のネットワークに接続されている。俺が内海に頼んでおいたのは、そこに侵入して食券機の前のカメラ映像を探ることだった。


 園田家のメイドである内海菜々子は、かつてCIA所属のハッカーだった男を師に持ち、自らも若干9歳にしてペンタゴンのセキュリティーを突破した天才ハッカーだ。メイドとしての家事や気配りはまだまだ修行中の域を出ないが、その腕前はお使いバトルにおいて度々活かされている。


 そして俺が聞かされたのは、天竜寺様がフランスパンの食券ボタンを押す直前に「油マシマシ家系ラーメン」のボタンを押そうとしていたという事実だった。


「しかしなぜ、お腹の調子が悪く、食事を減らしていた天竜寺様が、あからさまに胃に悪そうなものを? 誰もがそのように考えるだろう」

「そ、そうです! お嬢様の体調管理は僕が徹底している」


 いたたまれなそうに視線を泳がせている天竜寺様に対して、俺は鋭い視線を投げかけた。


「答えは簡単だ。天竜寺様は体調を崩されてなどいない」

「馬鹿なッ!」


 雪彦はなおも頭を横に振り、抵抗を見せる。


「食事や手洗いの回数。お嬢様の行動は確かに変化しています!」

「雪彦くん、君は確かに有能だ。だがそれはマネージャーや秘書としての有能さ。俺の目には、天竜寺様の体調は別段お変わりないように見える」

「だからそれがありえないと言っているんです! 事実、お嬢様の体重はここ一ヶ月で3キロも減っているんですよ!?」

「雪彦ッ!」


 半ば怒鳴りつけるように罵声を放った雪彦を、しかし天竜寺様は慌てて止めるように口を開いた。


「そう」


 俺はすかさず話を繋いだ。


「天竜寺様はお痩せになられた。当然だ。食事管理をされているのだから。お手洗いの回数が多いというのも、少しでも体を軽くするためでしょう」


 さすがにここまで言えば、どんなに鈍感な人間だろうとも答えにたどり着くだろう。


「まさか……お嬢様、ダイエットを?」


 呆然とした様子で雪彦が振り返ると、天竜寺様は恥ずかしそうに顔を赤らめて俯いてしまった。


「なぜ……なぜおっしゃってくださらなかったのですか! 僕に申し付けていただければ、もっと効率の良い減量方法をお教えできたのに」

「無粋だな雪彦くん」


 俺は二人の様子を伺いながら声をかけた。


「女性が男に体重の相談をすると思うか? 自分の体調管理を任せる相手でも、体重や体型の相談はできない。しかしそれは天竜寺様の落ち度ではない。彼女を心で理解できなかった君の落ち度だ」

「僕の……?」

「君は確かにすごい。仕事のためにあらゆるデータを取得している。だが君はデータとして天竜寺様を理解しているだけだ。心と心で通じ合えないようでは、真の執事には程遠い」


 俺はいまだ白い湯気の立つ濃厚なスープのラーメンをテーブルに置いた。


「天竜寺様、ラーメンの一杯程度で体重が戻ることはありません。恐らくは今月の身体測定に備えてのことだったのでしょう」


 5月といえば多くの学校で身体測定が行われる月だ。うちの麗子様も毎年この時期になると躍起になってダイエットを始めるのでよく理解している。まったく、その時ばかり痩せたって何の意味もないというのに。女性の心理というものは、執事であるこの俺にも理解しがたいものだった。


「お召し上がりください。当家のシェフに作らせたものですが、味は保証いたします。麗子お嬢様もお気に入りですよね?」


 チラッと横目で見ると、麗子様は少しやりづらそうに眉を歪ませながら頬をかいていた。


「そ、そうですわ! うちのシェフは五つ星ホテルに勤めていたこともあるんですのよ。ラーメンだって鶏ガラ、魚介、とんこつ、すべて最高品質ですわ!」


 麗子お嬢様は特に魚介を好んでいる。俺としては臭いがドギツイので勘弁してもらいたいところだが、その匂いを含めて癖になるのだとか。確かに煮干し由来の深いコクには舌鼓を打ってしまうが……いや、やはりあの臭いは苦手だ。


「お嬢様……しかし、それならばケーキもあまり体重にはよくないかと」


 雪彦が申し上げづらそうに言葉を濁しながらいう。


「そ、それは……」


 天竜寺様の方も答えづらそうだ。

 やれやれ、と俺が助け舟を出そうとしたその時のことだった。


「黙りなさい!」


 麗子様が一喝したのだった。


「乙女とはそういうものですわ。スイーツは別腹。太るということはわかっているのに、ダイエット中ほど食べたくなるものですのよ。だからせめて、普段の食事を減らそうとしたのですわね」

「園田さん……」

「わかりますわ。わたくしも同じですから。女とは、スイーツとダイエットの狭間に生きているのですわ」


 そう言って笑いながら、麗子お嬢様は天竜寺様の手を取る。その様子を遠目に見ながら、俺は二人の間には、もはや蟠りなどないことを感じ取っていた。麗子お嬢様は昔からこうだ。気の強い性格で自己中心的、周りと馴染むのが苦手で、すぐにはみ出しものになってしまう。しかし本当は誰よりも情に厚く、真っ直ぐな心根の持ち主だった。


 かつて俺が父親の意向に背いて執事界から永久追放されそうになった時、助けてくれたのは麗子お嬢様だった。まだ10歳にも満たなかった彼女は、ヤクザさえも顔面蒼白になりそうな強面の執事たちに立ちはだかって啖呵を切った。


『ヨーイチはわたくしの執事ですわ! 誰であろうと、わたくしの許可なく連れ出すことは許しません! もしもわたくしに歯向かうというなら、覚悟をもって挑みなさい! 後悔させてあげますわ!!』


 もう随分と前の話のように思える。

 あの日、俺はこの魂に刻み込んだ。

 生涯をかけて麗子お嬢様に仕え抜くと。


「……さすがは俺のお嬢様」


 俺は誰にも聞こえないような声で、静かに麗子お嬢様を讃えたのだった。


「では、次に俺の方から––––]


 頃合いを見計らい、俺は口を開いた。


 結局のところ勝負はまだ続いている。俺は自分の携えてきた品を麗子お嬢様に差し出さなくてはならなかった。


 ……のだが、


「……いえ!」


 それを遮るように雪彦が声を上げた。


 彼は周囲の観客を一望し、最後に自らが使える主人である天竜寺様を見やった。彼の表情には先ほどまでの笑みもなかったが、かといって一切の陰りもない。まるで憑き物が落ちたかのように晴々とした顔色だった。


「お嬢様、申し訳ございません。しかしこの勝負、僕の負けです」


 その一言に周囲はどよめき立つが、天竜寺様だけは暖かな眼差しで雪彦の言葉を聞いていた。


「僕はまだ執事と呼ばれるには至らない存在なのかもしれません。お嬢様のために全身全霊の努力をしてきたつもりですが……いえ、その努力ですら独りよがりなものでした。僕はお嬢様のお気持ちを何一つ理解できていなかった」


 そのように言って彼は姿勢を正すと、今度は俺の方へと向き直る。


「高橋さん、あなたこそ真の執事。僕はあなたの後を追いかけたい」


 俺は一つ息を吐くと、オメガの腕時計に目を落としつつ口を開く。


「執事の道も一歩から。君にいくら才能があるといっても、俺は手加減はしない。いつでも相手になろう。かかってきなさい」


 こうして園田家と天竜寺家のお使いバトルは、めでたくも園田家の勝利で幕を閉ざした。執事である俺としても安堵の色を隠せない。


 天竜寺様はその後、内海に持ってきてもらったラーメンを完食していた。やはりダイエットで相当無理をしていたのだろう。天竜寺様の体型はけしてふくよかな方ではなかったが、古来より女性は必要以上に自分を痩せて見せたがる嫌いがある。そして往々にして男性とは、多少ふくよかな女性の方が好きなものだった。故に世の女性たちはそれほどダイエットに興味を示さない方がいいのだと思う。


「ところで……」


 学園からの帰りがけ、バス停へと向かう公園の歩道を歩きつつ、麗子お嬢様は俺に問いかけてきた。


「セバス、あなた結局のところ何を持ってきたんですの?」


 今回のお使いバトルは半ば不戦勝のような形になってしまったため、俺は麗子お嬢様のお使い内容を発表していない。俺はすっかりと散ってしまった寂しげな桜並木を見つめながら興味なく答えた。


「洋一です。もういいではありませんかお嬢様。お使いバトルは我々の勝利だったのですから」


 今となっては粗末な問題だ。俺の持ってきたものが正解だったか否かなど。


「ちょっとー、何よ気になりますわねー」


 しかし麗子様は悪戯を思いついた子供のような顔をして俺の腕をつついてくる。


 まったく、麗子お嬢様にも困ったものだ。普段は意識などしないのに、こういう無邪気なところは本当に可愛くて仕方がない。それもこれも俺たち執事やメイドを本質的には下に見ていないことの表れなのだろう。


 俺は嘆息すると、渋々と懐に手を入れた。


「まったく仕方のない方ですね。まあ、俺もそれなりに自身はあったのですが……」

「あら、そうですの?」


 お嬢様は意外そうに目を丸くする。


「てっきり、あのくしゃみで聞こえてなかったのだと思っていましたわ」


 いや、本当に聞こえてはいなかったのだが。


「さすがはわたくしの執事ですわ」


 茜色の夕焼けに照らされながら、麗子お嬢様の愛らしい横顔が柔和に微笑む。


「当然です。プロの執事ですので」


 あの程度の妨害など無意味だ。そのように胸を張って答えると、俺は掌大の銀色のカプセルを取り出した。


「なんですのそれは?」


 麗子お嬢様にはあの後、どのようにして俺と内海が「アレ」を処理したのかを話してはいない。当然、アレがこのカプセルに保管されていることは知らなかった。俺は手にしたカプセルをお嬢様に手渡してから説明する。


「お嬢様がご所望になられたものです」


 麗子様はカプセルを捻って蓋を開けると、その中に収められていたピンク色の布切れ––––幼少時代のご自分のパンツを抜き取った。


「自分の身になって考える……それはつまり身に着ける物を意味し、小麦粉使うとはパン……パンからの連想でパンツを意味する。そして最後に隠したもの……とくれば、昔お嬢様が俺に隠させたお漏らしの下着に他なりません。もちろん、下着は洗っておりますが、いくら洗っても微かな成分は残ります。当時の奥様はお嬢様のおねしょの癖を心配しておられましたし、俺が隠すことを懸念して下着の枚数や、おねしょの痕跡を細かに調べておいででしたからね。ああちなみに、まったく同じ下着を購入してタンスに入れておきましたので、未だに奥様にはバレていませんよ。ご安心ください」


 当時の苦労を思い返しながらとうとうと語っていると、しかしなぜかお嬢様は顔を真っ赤にして拳を震わせていた。


「このバカ執事ぃーー! そんなわけがありませんわーーーーッ!!」


 夕焼けに染まった茜空に麗子お嬢様の叫び声が響き渡る。


 ちなみに後日聞いた話によると、麗子お嬢様がご所望になられた品は、その前日に俺やメイド長に隠れて購入した夜食のカレーパンとのことだった。メイド長はお嬢様の食事管理にやたらとうるさいので、たまにこうして夜食を隠し持っているらしい。


 偉そうなことを言ってしまったが、俺もまだまだ麗子お嬢様の執事としては半人前ということだろう。


 まったく、さすがは俺のお嬢様だ。



〈終わり〉

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さすがは俺のお嬢様 ブンカブ @bunkabu

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