第87話 涙

奏介から目を逸らし、ずっと黙ったままでいると、奏介は私の頬に手を当て、視線を合わせようとしてきた。


「…愛してる」


囁くように言った後、奏介は唇を重ねてくる。


重ねた唇は、徐々に熱を帯び、絡みついてくる…


奏介の唇が絡みついてくるたびに、心と体が切り離されるように感じていた。



「千歳… 愛してる…」


「…やったら別れる?」


「おま… 何言って…」


「いいよ。 やらせてあげる。 その代わりこれっきりにして」


そう言いながら部屋の奥へ行き、Tシャツを脱ごうとすると、奏介は背後から抱き着いてきた。


「やめてくれ。 頼むからやめてくれ…」


奏介は何度もそう言いながら、私の首筋に顔を埋めてきた。


黙ったままでいると、首筋に水滴が伝っていくのが分かった。



これは本物の涙? 


それとも嘘の涙?


どうしたらいいんだろう…


こういう時って、何か言った方がいいのかな?


やばい… 全然わかんない…



考えれば考えるほどわからなくなり、小さなため息が口から零れ落ちた。



しばらく黙ったままでいると、奏介は大きく深呼吸をした後、私を振り向かせ小さな声で切り出してきた。


「黙っててごめん。 ミサンガの事も、全部黙っててごめん。 けど、俺が愛してるのは千歳だけだから。 ずっと前から… 小学校の時からずっと見てたのは本当だから。 もし、やったら別れるっていうなら、俺は一生、誰ともしない」


「…そんなの無理に決まってるじゃん」


「無理じゃないよ。 千歳以外の奴としたいとは思わないし、千歳が『やったら別れる』って言うなら、誰ともしなくなるのは当たり前だろ? そうすれば、別れなくて済むし、千歳の隣に居られるだろ?」


「…私が嫌がったらどうするの?」


「殴られても、シカトされても、ずっと隣に居るよ。 俺たち、初めはそうだったろ? お互いムカついて、今みたく冷たい目をされても、ずっと隣に居たしさ… 千歳が笑いかけてくれるまで、隣に居るよ」


「バカバカしい…」


そう言った後、奏介の横をすり抜けると、奏介は私を抱き寄せ「バカって言うなバカ」と言い、唇を重ねてきた。


その瞬間『付き合ってるやつとしかキスしない』と言う奏介の言葉が頭を過る。



信じていいの?


奏介の言葉を信じていいの?


奏介の隣に居ていいの?



俯きながら唇を離すと、奏介は愛おしそうな表情で私を見てくるだけ。


「…帰る」とだけ言うと、奏介は部屋に置いてあったカバンを担ぎ、私と一緒に玄関を後に。


お互い、何かを切り出すことも、話しかけることもなく、ただただ黙って歩幅を合わせ、ジムに向かっていた。



自宅に帰り、軽くシャワーを浴びた後、ベッドで横になっていた。


あんな状況になっても、奏介が京香と約束し、私と付き合う直前に付き合い始めたことも、今、二股をかけられていると思っても、涙が一切出てこない。



『奏介、泣いてたな… なのに私は涙が出てこないとか… 小さいときに泣いて、殴られまくったから、枯れちゃったのかな…』


そう思いながらボーっと天井を眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る