第86話 懇願

谷垣さんの合図と同時にリング中央へ行き、梨花ちゃんにジャブを繰り出す。


梨花ちゃんは右ハイキックを警戒しているのか、ガードが上がりっぱなし。


『ボディ、ガラ空きっすよ!』


そう思いながら右のハイキックを放つと、周囲からどよめく声が聞こえてくる。



梨花ちゃんはハイキックをガードで受けた途端、体勢を崩していたんだけど、目をキラキラと輝かせ始め、なぜか背筋に寒気が走っていた。


「打ってきな」


それだけ言うと、梨花ちゃんはパンチやキックを繰り出していたんだけど、カズ兄のトレーニングと比べたら、全然痛くないし、完全にガードしきれる。


パンチをガードした一瞬の隙に、左ミドルを脇腹目がけて繰り出すと、梨花ちゃんは蹲って悶絶してしまった。


「あ! ごめん! レバー入った!! 大丈夫?」


慌てて駆け寄りながら言うと、梨花ちゃんは苦しそうな表情のまま少し笑い「無理です」と…。


「ちょっとごめん」と言った後、梨花ちゃんを横向きに抱きかかえると、梨花ちゃんは「キャッ!」と言いながら私の首にしがみついてくる。


リングサイドに梨花ちゃんを寝かせ、リングを降りた後に再度、梨花ちゃんを横向きに抱えると、梨花ちゃんの顔は見る見るうちに赤くなっていく。


梨花ちゃんをベンチに寝かせた後「アイスバック持ってくるからちょい待ってて」と言うと、梨花ちゃんは赤い顔をしたまま、小声で「かっこいい…」と…


「え? かっこいい?」


「す、すいません… お姫様抱っこされたの初めてで… あ、もう大丈夫です! アイスバックなくて大丈夫です」


「そっか。 少し寝てなね」


それだけ言った後、グローブを嵌めてくれた子に外してもらい、グローブとバンテージを所定の場所に。


それ以降、誰かに何かを話しかけることもなく、黙ったまま更衣室に向かっていた。



更衣室で着替えていると、美奈と早苗、そして千夏ちゃんが更衣室に駆け込み、大騒ぎし始める始末。


3人が大騒ぎする中「腹減ったから帰るわ」と言うと、美奈が「ご飯食べに行こうよ」と切り出し、おじいちゃんの家に電話をした後、3人でファミレスに行くことに。


『学校帰りにファミレス寄るの、初めてだなぁ…』


そんな風に思いながら食事を終え、おじいちゃんの家に向かっていた。



おじいちゃんの家から自宅に戻ろうとすると、急に背後から腕を引っ張られ、振り返ると奏介の姿が…


何度か腕を振り払ったんだけど、その度に腕を掴まれ、パンチも掌で受けられてしまい、逃げ出すことができず。


奏介は何も言わないまま私の腕を引っ張り、アパートの中に押し込んだ途端、強く抱きしめてきた。


必死に抵抗したんだけど、奏介の抱きかかえる力を押し返すことができずにいると、奏介は「…別れねぇかんな」と、悔しそうに言ってきた。


「二股かける気?」


「あいつとは付き合わねぇよ」


「約束したんだから守りなよ」


「…なんで好きなやつと別れて、好きでもない奴と付き合わなきゃいけねぇの?」


「じゃあなんで黙ってたの? あの子が入ってきた時に、言えば済む話だったんじゃないの?」


「試合前にそんなこと言えるかよ!! 話して、試合に集中できなくなったら嫌だろ? 春香の事もあったし、余計なことを考えさせたくなかったんだよ。 頼むから… 頼むから別れるとか言わないでくれ…」


奏介は今にも泣きだしそうな表情で、必死に、何度も懇願してくる。



試合に集中してほしいから言わなかった?


もしかしたら、これも嘘?


春香の事があったから言えなかった?


もしかしたら、嘘かも…



いろいろなことが頭を過る中、奏介の表情を見ているだけで、胸が苦しくなり、目を逸らしたまま黙っていた。

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