第三話 嘘と春の日
それは雪が溶け始める春先の日のことでした。
お休みをもらった少女は、街の北にあるフィヨルドに来ていました。
長閑な自然が一望できる高台からは船が見えて、頭上には青空が広がっています。
少女は服を買うお金を貰っていたのに、仕事服を着ていました。
夫婦に大きな恩返しができるその日まで、お金を貯めるつもりだったからです。
街で買ったパンを食べながら、のんびりと景色を見ます。
数ヶ月前までは考えられなかった時間でした。
生きるのに必死で休暇を取るという考えも、お金を使うという考えもなかったからです。
「このまちって、こんなにキレイだったんだ」
草が芽吹く大地から優しい匂いがしました。
冬が終わったことを告げる春の香りがしました。
あんなに暗くて、窮屈だった街はとても大きくて。でも、それよりも空は広くて、大地と海は地平線の彼方まで広がっていました。
「じゆうって……こういうことをいうのかな」
叔母さんが全く休まない少女を見かねて教えてくれた秘密の場所です。
叔母さんのお気に入りの場所みたいで「自由っていうものを感じられるよ」と教えてくれたのです。どういう意味か分からなかった少女も実際に来て、納得してしまいました。
そして、そんな素敵な場所を教えてもらえたことが、嬉しくて幸せな気持ちでした。
春の優しい風を感じて、草むらに寝転びます。
「ポカポカで、あたたかい〜」
少女は静かに目を閉じて、春の陽気を味わっていました。
暫くして、遠くから教会の鐘の音が聞こえてきます。
いつの間にか眠ってしまった少女は、周囲を見渡しました。
空は茜色に染まっていて、十六時を知らせる鐘の音色だと気が付きます。
「うそ⁉︎ もうこんなじかん⁉︎⁉︎ いそいでかえらなきゃ」
暗くなる前に帰ってくるように言われていた少女はバスケット持って、走り出しました。
坂道を下って、麦畑を通り過ぎて、少女はゆっくりと走る速度を落としていきます。
そこはまだ、街ではありませんでした。
少女が昔住んでいた小屋です。
叔母さんと来て以来、一度も来ていませんでした。そして、ここを通らなくても街には帰れました。でも、少女はどうしても一度、来ておきたかったのです。
決してお父さんに会いに来たわけではありません。
ただ、少し。ほんの少しだけ様子が気になっていたのです。
「おや、お嬢ちゃん。この家に用があったのかい?」
「あ、い、いえ、そういうわけでは」
「そうかい。ここの家の人はね。どこかへ行ってしまったよ」
通りすがりのお爺さんの言葉を聞いて、少女は家を見詰めました。
手に持っていたお金を握り締めて、マッチが入ったポケットに入れます。
「あ、ありがとうございます。おじいさん」
少女は頰に光る滴を流して、走り出しました。
分かっていたことでした。もう二度と会うことがないことを。
だから、あの時、お別れの言葉を言ったのですから。
でも、まだ十歳にも満たない少女にとって、生みの親に会えないのは辛いことでした。
そんな気持ちを振り払うように少女は走ります。
街まで戻ってきた時には涙は止まっていて、ゆっくりと速度を落としました。
すると、街の手前で柵に寄りかかる青年がいました。
薄手の格好にマウンテンハットを被っています。身体は震えて、服は汚れていました。
「ど、どうしたんですか?」
少女は昔の自分と重ねて、青年にそう問います。
「き、木を売りにきたんだ。山を二つ超えた先にある美しい木を」
青年が震えながら見上げてきます。春先とは言え、長袖を来ていないと寒いはずです。
なのに青年は上着もなければ、袋一つ持っていませんでした。
「でも、途中で目を離した隙に荷物全て奪われてしまったんだ」
「そ、そう、でしたか」
「あはは、すまない。子供に話すことではなかったね」
少女が心配そうに見るのを見て、青年は明るく振る舞って立ち上がりました。
しっかりとした体でした。
鍛えられた体で身長も大きかったのです。
少女は青年を見上げながら、明るい笑顔には似合わない清潔感のなさが気になりました。
「い、いつのはなし、ですか?」
「数日前だよ。どうにかこの街に辿り着いたけど、もうお金がなくてね。どうにかして、次の街まで行けば、友達がいるんだけどね」
青年はそう言うと気まずくなってか、どこかへと行こうとします。
無理に元気を出そうとする姿はとても辛そうで、
「あ、あの、このおかねをつかってください」
少女は自然と手を掴んで、青年を引き留めていました。
少女はバスケットの中のパンとお金の入った袋を渡します。
「君、どこでこんなお金を……。いや、これは貰えないよ」
「い、いえ。パンはたべきれなくて、おかねも、そのぶんはだいじょうぶですから」
少女は嘘を言ったわけではありませんでした。
寝てしまってパンは食べ切れなくて、お金もその分は最初から渡そうと思っていたものだったからです。ただ青年に最初から渡すために持っていたわけではないというだけです。
「……君はまだ子供だから分からないのかもしれないけど、知らない人にお金を渡したら返ってこないと思わないとダメだ」
青年は真剣な面持ちで教えてくれて、少女は俯きました。
「し、しって、います。だれも……おかねをくれませんでしたから」
少女は何度もマッチを売ろうとして、売れなくて。
誰からもお金を貰えなかったのです。
生きるお金もなくて、困っていたのに。
誰も。
だから、
「それに、そういうふうにおしえてくれるひとなら、――しんじられます」
本当は信じてはいないけれど。
少女は嘘をつきました。
お金を渡す人がいないのだから、少女がお金を渡したら、その人からお金が帰ってくるわけがないのです。本来、ここで少女はお金を渡してはいけないのですから。
そのお金で誰か、困っている人が助かるのなら。
何より、この人が死なないで済むのなら。一回くらい信じてみたいと思ったのです。
漁師さんにぶたれた時、少女は知りました。
自分を犠牲にして、誰かを喜ばせようとしても、誰も喜ばないことを。
きっと、ただお金を渡すことは、世の中ではダメなことだと少女は思います。
だから、みんなお金をくれなかったし、困っていても助けてはくれませんでした。
なら、少女は自分の心を守るために、
「そ、そのおかねでふくをかって、おひげをそって、つぎのまちまでがんばってください」
青年のために優しい嘘をつくことにしました。
叔母さんには、嘘はいけないと何度も怒られました。
少女が仕事で無理をしていないというと、いつも決まって顔を見て、そう言うのです。
きっと少女は嘘をつけないのだと思います。嘘をついてもバレてしまうのでしょう。
「い、いつか、このまちにある【みんなの家】にとまりにきてください。まっていますね」
きっと二度と会わないだろう青年を見て、少女は朗らかに笑いました。
「これはまいった。俺はここから東にある森で木こりをしてる者だ。クリスマスは必ず街にいると思うからその時かな。必ず会いに行くよ。今度はちゃんと髭を剃ってな」
「は、はい。おまちしています」
青年が走っていき、少女は手を振って見送りました。
話し込んでいる内に日は暮れてしまって、少女は走って帰りました。
叔母さんに迷子になったと嘘をつくと、すぐにバレて少女は凄く怒られました。
それはもうこっぴどく。
目がウルウルになるくらいに。
今日の出来事を洗いざらい聞かれて、お金を渡したことにもう一度怒られて。
少女は優しい嘘以外はついてはいけないことを再認識したのでした。
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