第二話 宿と冬の日
少女が【みんなの家】の三階を忙しなく往復していました。
三階にある部屋の掃除と洗濯物の回収を叔母さんと一緒に行います。
この王国の冬は昼間が短く、九時前に日が昇って、十六時前には日が沈んでしまいます。
そして、洗濯物は太陽が昇る前に回収して部屋が暖かい場所で乾かすそうです。
昼間は冬でも部屋の壁が暖かくなるため、乾きやすいのだと叔母さんは言っていました。
少女は三階の窓を開けます。
「ふはぁー、キレイなあさひ……」
赤茶色の屋根と白や黄色の壁がある家々を太陽の光が優しく包んでいきます。
少女は以前、叔母さんからもらった青色のロングスカートと白色のエプロンをしていました。
どうやら、この服はこの宿での正装のようでした。
「何してるんだい。次は二階のダイニングの掃除だよ!」
「は、はい!」
少女は景色をゆったりと見る時間も物思いに浸る時間もありませんでした。
マッチを売っている時よりも凄く忙しかったのです。
朝は部屋の掃除。次にダイニング。その次は一階にある食堂の掃除が待っています。
お昼頃には食堂でウエイトレスとして働いて、お皿を洗って。宿の受付をして、夜はまた食堂でウエイトレスとして働きます。
マッチを売るために歩き回っていた時よりも身体は疲れ、頭の疲労も酷くなりました。
でも、それでもご飯が貰えて、暖かい布団で眠ることができました。
それだけで幸せだと思えて。
辛くても懸命に少女は働いていたのです。
「お、おまたせしました」
「大丈夫かい、お嬢ちゃん。一つもとうか? 一つずつでいいんだよ?」
「い、いえ。だいじょうぶです、お兄さん。お、おまたせしました」
お客さんは基本的に優しく、少女が懸命に食事を運ぶ所をびくびくとしながら見守って。
「名前、違いますよ?」
「――ふぇ? うう、ウソ。ご、ごめんなさい」
「あはは。いいですよ。自分で書きますから」
宿の名簿を付ける時も読み書きができないせいで、沢山間違えて、沢山怒られたけれど、それでも優しいお客さんも沢山いて。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
少女は現状の幸せだけでは、満足できなくなっていきました。
そんな風に少女が思うようになった、ある日のことです。
「ノロノロしてるんじゃねぇぞッ‼︎」
食堂に怒鳴り声が響きました。
少女はびっくりして、食事を床に落としてしまいます。
「ご、ごめんなさい」
少女の小さな身体では、大きな食器を二つ持つだけでも大変でした。
でも、温かい料理を早く持っていけば、お客さんが喜ぶと思って。
今までも二つ持って、ゆっくり進めば落とさなかったから。
だから、少し危なくても。落とす可能性があっても。
少女はいつも二つずつ料理を運んでいました。
「あ? お前、この前まで街中でマッチを売ってた娘じゃねーか」
一日中歩いて、次の日も歩いて。
少女はずっと街中でマッチを売っていたのです。
街のみんなが少女を知っていました。
「俺の料理に何してるんだ、マッチ売りしかできない分際でッ!」
震えが止まらなくて。
下を向いて謝ることしかできなくて。
そんな時でした。
バチンっと部屋に音が響きます。
気が付いた時には、少女は地面に倒れていました。
「どうりでノロノロとしてるわけだな!」
頰がヒリヒリと痛みます。床に落とした食事が顔に付きました。
綺麗だった服は汚れて、転がった食器と床が目に映ります。
それは見慣れた景色でした。
そして、慣れた痛みでした。
少女はぶたれていたのです。
「なんでこんなガキが食堂にいるんだよ。飯が不味くなるだろうがぁ!」
少女の震える身体にドンという音が響きました。
身体に鈍くて、呼吸が一瞬止まってしまうほどの蹴りがお腹に入ります。
今までなら、少女を助けてくれる人はいませんでした。
でも、常連のお客さんが「おい、やり過ぎだ」と止めようとしてくれます。
――っえ。どう、して。
前に心配してくれた優しいお客さんと周囲の何人かが止めようとします。
でも、漁師さんは力任せに集まってきた人たちを殴り飛ばしてしまいました。
「――あ。そ、そんな、お兄さん」
「人の心配か、ガキの分際で。とっとと新しい料理待ってこい!」
少女は恐怖のあまり腰が抜けてしまって動けませんでした。
顔を蹴られ、お腹を蹴られ、また顔を蹴られて。
汚い物に触れたくないと言うように、手ではなく硬いロングブーツを履いた足で。
何度も、何度も。
「ごめん、なさい」
肩くらいの長さの金髪を引っ張られて地面に叩きつけられても。
手を踏み潰されても。
「ご、めん、なさい」
悲鳴だけは上げずに。何度も何度も。
「ごめんなさい。ゆるして、ください」
少女は抵抗することなく、謝り続けました。
マッチ売りの少女の時から変わりません。
地面に視線を送って謝り続けたあの日々と。
どこまで行っても少女はマッチ売りの少女で。
誰にも振り向いてもらえず、誰の力にもなれないのだと思いました。
自分はどんなところにいても貧しい身分で。
どうしようもない厳しい現実があるのだと、思わずにはいられませんでした。
助けようとしてくれた人の気持ちすら考えないで。
ただ、頭を下げて謝ることしかできません。
どんなに綺麗に着飾っても。
少女の心はあの大晦日の夜から変わっていませんでした。
「テメェ、うちの店で騒ぐ意味分かってるんだろうね!」
騒ぎを聞きつけて、叔母さんが駆け寄ってきました。
額に皺を刻んで、睨み付けると集まっていた人たちが自然と道を開けます。
身体は細くて、美しい女性なのに。
誰よりも大きくて、獣よりも強い女性に見えてしまうのは、きっと少女の気のせいではないのでしょう。
「あ? 女は黙ってろ。そのガキが悪いんだろうが」
「この店は【みんなの家】だ。楽しい飯の時間に子供の失敗を笑い飛ばせないような奴はいらないよ」
見上げた先に映る叔母さんと漁師さんは頭二つ分以上、身長差がありました。
でも、見下ろしているのは叔母さんの方だと少女は思いました。
「俺はこの街の漁師だぞ。お前のところに食材が来なくてもいいのか!」
「テメェのところなんかから仕入れたりするか! こっちから願い下げだよ」
大きな背中が少女を守るように、漁師さんの進路上に現れました。
正面から向き合った両者を見て、お店にいた人たちが盛り上がります。
叔母さん対漁師さんの戦いに周囲はどっちが勝つかで賭けを始めてしまいました。
夜は特に賑やかな食堂ですが、今日は一段と騒がしくなってしまいます。お酒を片手に、娯楽の少ない雪国で楽しめるおもちゃを見つけたように。
叔母さんを止めないといけないと少女は思いました。
でも、お父さんよりも怖い叔母さんをどうやって止めるのか分かりませんでした。
なら、漁師さんの方を止めるべきかとも少女は思いました。
でも、漁師さんは少女よりも二倍も身体が大きくて怖い人です。
止め方も分からずに少女が床に倒れていると。
ドンっと床から大きな音が鳴りました。
全員が厨房の方を見ます。
漁師さんよりも大きく、髭を生やした人が一歩踏み出した音でした。
周囲から囁き声が聞こえてきます。
『誰だ?』
『お前知らないのか? じゃじゃ馬娘の旦那だよ』
『てことは、静かな巨人か』
と囁くお客さんは叔父さんに睨まれて黙り込みます。
多分、声がした方を見ただけだと思いましたが、気迫に圧倒された気持ちは少女にも分かります。少女も最初、叔母さんに紹介された時は震えが止まらなかったからです。
「な、なんだよお前。お前の店員がお客様に無礼を働いたんだろ!」
漁師さんも声に威勢があっても、腰は引けていました。
漁師さんも怖いと思っているのだと少女には分かりました。
頭に丸太を握り潰せそうな大きな手を置かれた時は、少女も凄く怖かったからです。
でも、少女は知っています。
「俺の
一言、そう言った時、周囲が静まり返りました。
囁き声すら聞こえなくなる中で、叔母さんが「あんた……」と声を漏らしますが、叔父さんは肩にポンっと手を一度置くと、漁師さんの前まで歩いていきました。
誰よりも大きな叔父さんが漁師さんの胸倉を掴んで持ち上げます。
「この店は大声を出そうと酒に酔って楽しく喧嘩しようと構わん」
周囲が息を呑みました。
「だがな、ただ自分の鬱憤をはらすために楽しい時間を壊して暴れる奴は邪魔だ」
「お、俺は、」
少女は叔母さんに教えてもらって知っていたのです。
その大きな手が、誰よりも優しくて。
「――テメェはもう、俺の客じゃね」
大晦日の夜、連れて帰ってくれたのは叔母さんではなく、叔父さんだったことを。
叔父さんが豪快に漁師さんを扉に向けて放り投げます。
扉の向こうで地面に身体をぶつける音がして、ドタドタと足音が遠退いていきます。
「「「「うおぉおおおおおお」」」」
お店が今日一番の大きな声に包まれました。
喝采です。賭け事なんて忘れて、みんなお酒で乾杯しています。
耳が痛くなるほどの騒ぎの中、叔母さんが少女を優しく起こしました。
「大丈夫かい?」
「ご、ごめん、なさい。わたし、また、」
――めいわくをかけちゃって。
と言おうとして、少女の口に手が当てられました。
「お前さんは、強い子だね」
叔母さんはそう言って、少女は首を傾げます。
すると、身体がふわりっと浮き上がりました。
叔父さんが抱き抱えてくれていたのです。
「……少し、重くなったな」
また少女には理解できない言葉が叔父さんから出て来ました。
どうして、叔父さんと叔母さんは今、その言葉を口にしたのか。
少女には分かりませんでした。
「明日、医者に見せた方がいいね」
「頼めるか?」
「いいよ。じゃあ、あんたは掃除とか諸々頼むよ」
あの時も叔父さんはこうして抱き抱えて、叔母さんは困ったような顔をして、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべていたのでしょうか。
叔母さんは少女の頰に優しく触れて、
「遅くなって悪かったね」
そう囁きました。
少女は目を大きく開いて、顔を左右に振ります。
「困った子だね。じゃあ、言わせてもらうよ」
叔母さんは呆れたように少女の頰を優しく抓ります。
「どうして、あんな奴を怖がるんだい?」
少女は「っえ?」と言って、叔母さんはからかうように笑いました。
「私たち以上に、この街で怖い奴なんていないよ」
「ふぇ? え、えっと、――は、はい!」
少女が大きな声で返事をして、叔母さんと叔父さんがキョトンとなって。
一瞬静まり返って。みんなが盛大に笑い声をあげました。
その景色は夢で見た景色と同じくらい温かくて。
お婆ちゃんとの温かな生活を思い出せて。
少女はみんなが笑っている景色が大好きになりました。
――こんなまいにちが、つづいてほしい、な。
叔父さんが「まかないだ」と言って、出してくれる美味しい料理を食べても。
叔母さんが寒いだろうからと言って、温かい布団と服を用意してくれても。
少女は幸せだと思えても、足りないと思ってしまうようになっていました。
寒さを知っているからこそ。
少女は、みんなが笑顔になれることを、喜ぶためのことをしようと。
いつか、叔父さんや叔母さんみたいな、誰かに味方できるくらい強くになろうと。
それがマッチ売りだった少女が願った、――――始めての目標でした。
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