第5話

「お願い、吾妻ちゃんも……」

 風呂から上がった私達は、滴る水滴も気にせず昨日肌を重ねたベッドへなだれ込んだ。

「っ……それは……」

 一通り私の身体を味わい尽くした冬音は、潤んだ瞳で懇願する。

 きっと、傷を見ても引いていないという確証が欲しいのだろう。そんな心配はしなくていい。ただ私は……この芸術に触れていいのか葛藤しているだけなのだから。

「あっ……」

「……」

 掴まれた腕が無理やり引き寄せられ、一本の線が指先に触れる。同時に溢した冬音の甘い吐息を、私はこの先一生忘れることはないだろう。

「……吾妻ちゃん……もっと……」

 せがまれて、思い出したように線をなぞっていく。両手を使い、舌を使い、彼女が背負う傷全てを、磨いていく。

 愛撫には程遠い、おどろおどろしい手付き。それでも次第に膨れ上がる嬌声は、冬音の性感帯が常人とはかけ離れてしまっていることを証明していた。


×


 どれくらい、そんな時間を過ごしていたのだろう。汗やら他の汁やらでぐっしょりと重くなったシーツに、二人で力なく倒れ込む。

 私としてはもういっぱいいっぱいだったので、ようやく終わってくれたという感情が強かったが、冬音が弱々しくも手を伸ばし、なおも私を求めた。

「冬音……もう」

「「えっ」」

「えっ?」

 私の拒絶に対して返された反応は、一つではなかった。急いで声の発信源、部屋の隅に目をやると、そこには椅子に座り、ワインを揺らしてこちらを見つめている遠子がいた。

「うわっ」

「おっと、思わず声が出てしまった。観葉植物失格だな」

 侵入にも視線にも気づかないなんて……私達が愚かなのか、遠子のステルス性能が異常に高いのか。……いや、冬音に驚いている様子はないし、単純に私が鈍いだけなのかもしれない。

「なにしてんの」

「察しが悪いな、晩酌だよ」

「趣味の悪い肴だね」

「そうかい? 忙殺されるような仕事から帰ってきたら、若く美しい女の子二人が愛のあるセックスをしている。最高の環境だと思うがね。三億で作れるなら随分安い」

 つまり……遠子は最初からこれが目当てで私を家に招いたと……? 手の込み様が、金の掛け方が異常な変態だ。

「あーあー私のことは気にしないで。さぁ、続けて」

 私に気づかれたことで隠れる意識を喪失したらしい遠子は、脚を組んでふてぶてしく座り直す。

「だって、吾妻ちゃん。いいよね、いいんだよね」

「ちょ、ちょっと」

「ああ、私の芸術品が……私の所有物が……また別の美しいものに犯されている……なんてことだ……ああっ……たまらない!」

 また一つスイッチを入れたらしい冬音を制止するすべを私は知らず、興奮に震える声を、興奮に震える手で持つワインで抑え込む遠子に辟易する他なかった。


×


 結局その後、遠子がワインを三本空けるまで夜は続き、終わっても冬音は私から離れようとしなかった。

 次の日の夜、こうして三人で食卓を囲んでいることに酷く違和感を覚える。昨日のことは全て夢と言われても信じてしまうだろう。

 しかしそんな想像を、遠子が許してくれるわけもなかった。

「吾妻、君があの日、まんまと乗せられてくれて良かったよ」

 初めてこの家に来た際、胃袋を掴まれてしまったカレーを囲み、始まった遠子の演説に嫌々耳を傾ける。

「君の目は真に孤独を知る輝きを持っていた。こう見えて市場リサーチはしている方でね、君くらいの年でそんな目をしている子と会ったのは初めてだった。そしてその目をしている子が、冬音を拒絶するはずもないだろうともすぐに確信できたよ」

「私がここまで溶け込むって、あの時点で?」

 こんな異常な環境に適応できると勝手に判断するな、そう皮肉を込めた一言を放ったつもりだったが、あの放浪生活をしている時点で私も普通ではなかったと気づく。

「ああそうさ。それに言ったろう? 冬音は『その気にさせる天才』だと。この体を見せられて惹かれない者など存在しない。私の姉が、生涯を掛けて娘に刻んだ愛の数々を」

 まぁ引いてしまう者も極少数いるようだが、と、嗤笑混じりに付け足した遠子は、少しだけ寂しそうな目をしていた気がする。

「……ねぇアンタって何の仕事してんの?」

 生まれてしまった沈黙に耐えきれず、今度は私から口を開いた。珍しく質問をされたからか、遠子は少し驚いた後に答える。

「一応デザイナーをやらしてもらっているよ。君たちくらいの年代には有名なブランドだと思うけど、知らないかな?」

 差し出された名刺には、確かにファッションや流行に疎い私ですら認知している名詞が刻まれていた。

 これの発案者というのなら、たしかに三億円など安いと言えてしまうのかもしれない。

「私のデザインは彼女の傷から着想を得ていてね。だから三億も、このタワマンも、冬音からプレゼントしてもらったと思ってくれたまえ」

 なるほど、人生どこにきっかけが落ちているのかわからないものだ。

「そう。……ありがとね、冬音」

「っ……うん。えへへ。私の方こそ、二人にありがとうだよ」

 話の流れで何の気無しに言った言葉へ、大げさに反応してみせた冬音。これだけ言われ慣れていない様子を見ると、しまったなと感じた。これからはもっとちゃんと、感謝を抱いたときは言葉にしていこう。

「さて、私は風呂でも入ろうかな」

 言うと遠子はいつもどおり立ち上がったその場で服を脱ぎ、風呂場へと邁進まいしんしていく。

「……」

 そして冬音はいつの日かのように遠子の服を拾おうとはせず、かと言ってカレーを口に運ぶこともなく、ただ、ただ私の目をジッと見つめていた。口角は微妙に上がっており、この後、私をどう料理しようか思案しているんだなと直感が教える。


 ×


「私もなんか……」

 その夜、やはり冬音の望んだ通りに料理され、体力の限界を迎えて寝転ぶと、意識せずにポツリと言葉が零れた。

「彫ってみようかな」

 我ながら稚拙な憧れだ。しかしここまで美しい、心惹かれるものを見せられてしまうと、それと同じ存在になりたいという願望が湧き上がるのは当然のように思える。

「だ、ダメだよ!」

 すると、ここに来て一番大きい冬音の声が響いた。

「吾妻ちゃんの身体は芸術だよ。こんなにキレイな身体……傷はもちろん、そういうのもダメ!」

「それは私も同感だな」

 またもや私達の情事を観察していた遠子は、私に触れるか触れないかの距離まで近づくと、細胞の一欠片ずつを視姦しながら言う。

「吾妻の魅力はどちらかといえばこの純朴さ……というのだろうか、素材の良さにある。人為的に生み出された冬音とは正反対のね。この対称性がいい。美しい。今の二人が絡み合う光景が……たまらないッ!」

 アルコールのせいもあるのだろうが、駅前演説でもする政治家のように語る遠子。

「そう。じゃあやめとく」

 この人生でこれほどまで人から、肯定をされたのは初めてだった。悪い気分はしない。

「素直だな! 素晴らしいことだ!」

「それじゃあ吾妻ちゃん、もう一回だけ……」

「ああ、うん」

 強引に押し倒され、冬音には見た目からでは測れない程、無尽蔵の体力と欲望があることを強く思い知らされる。

 その圧力を一身に受けながら、思考は少し離れたところにいた。

 今のような日々がいつまでも続くわけがない。私を迫害した家族とやらとも、放浪による逃避ではなく別のカタチで決着を付けなくてはならないだろう。少なくとも、この二人に迷惑を掛けないために。

 遠子と冬音のおかげで、死んでいた魂が能動的になったのは明確だ。

 あの日、三億円に人生全賭けオールインした自分の判断は――少なくとも現段階では――間違いではない。

 私はそんな、奇妙な確信と幸福感に酔いながら、濡れたシーツへと意識を引きずり込まれていった。

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タワマン、メンヘラ、3億円。 燈外町 猶 @Toutoma

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