第4話
それからの一週間、私は初日の忠告を無視して、家事は全て冬音に任せてただ惰眠を貪った。
十四時間寝て、ご飯を食べて、たまに遠子が帰ってくると指示通りの体勢になり匂いを嗅がせて、また寝て、起きて、食って、寝て……。あまりに心地よい堕落をこれでもかと味わった。
「吾妻ちゃんは、ずっと寝ていて飽きないの?」
奇妙な共同生活にも慣れが生まれ、ようやくスラスラとタメ口で会話ができるようになった冬音は、ちょくちょく私の部屋にやって来ては背中に語りかける。
「夢を見てるから」
「そ、そっか。……あの、私も……その……」
その行動は、彼女のどんな期待によって生まれているか、私もいい加減気付いてた。
「一緒に寝る?」
「いいのっ?」
「私寝てるだけだけど」
「うんっ、うんっ、私も、私も寝るだけだから……」
遠子のせいで、人肌は少し苦手だった。その存在感だけ少し寝づらさを覚える自分がいる。
「んっ」
そして当然、遠子サイドである彼女が、一緒に寝るだけ済むはずもない。
私のうなじに冬音の手が、確実に触れた。
「ごめっ……ごめんなさい! 私、何やって、違うの、吾妻ちゃんの肌が、綺麗過ぎて、私、そうじゃなくて、違うの……「別にいいよ」
微睡んでいる時に泣きじゃくられる方が迷惑だ。
「触りたければ好きにすればいい。家事とか冬音にしてもらってばっかりだし」
「いいの……? 本当に……?」
初めて神を見つけた少女の声。疑問符は口に浮かべているだけで、その実引っ込みのつきようがない程、熱を帯びていた。
「あぁ……吾妻ちゃん……温かい……温かいよぅ……」
冬音の冷たい手のひらが背中に押し当てられ、思わず鳥肌が立つ。その手は触るだとか撫でるというよりかは、磨くような所作でゆっくり、蝕むように私を味わっている。
「っ……」
やがてそれらは私の前面に回り、まだ他人には触れさせたことのない膨らみも、突起も、容赦なく押しつぶされていく。
この
「どうしよう吾妻ちゃん、私止まらない……ごめんね、ごめんね……」
結局泣きじゃくりながら、出来うる限り体の全てを私に接着させて冬音は言う。
背中に押し付けられる体温は熱く、感触は――妙な違和感を抱かせた。
×
次の日、あいも変わらず絶品な冬音の手料理に舌鼓を打ちながら、私の心を支配し続けている問題を解決するべくある提案をした。
「冬音、今日はお風呂、一緒に入ろう」
「――」
冬音の指先から零れ落ちた箸が、高い音を立てて私の足元まで転がる。
「ん。大丈夫?」
「あの――はい」
箸を軽く洗いで手渡すと、久しぶりに返ってきた敬語。流石に急すぎたか。
「ど……どうして、ですか?」
戸惑い、不安、そして若干の――喜びと興奮。冬音の瞳は、口角は、言葉以上にお喋りで助かる。
「意味わかんなかったから」
「……意味?」
「昨日背中に押し付けられた冬音の身体、意味がわかんなかった。だから直接見て、理解したい。それだけ」
本当に、それだけ。
「……さんの……言ってた通りだ」
ポツリと呟かれた言葉を吟味するよりも早く、冬音は続ける。
「……じゃあ、先に入って待っててくれる? 心の準備が出来たら入るから……でも吾妻ちゃん、吾妻ちゃんも……心の準備をしておいてね」
その小さく弾んだ声音に、小さく歪んだ笑顔に、隠しきれない闇が漏れ出して、私と目が合った。
×
「すごい」
背中に触れていた違和感は確信に変わる。
冬音の身体は芸術品だった。
それは傷のない真珠の様に美しい身体――ではなく、体中に刻まれた無数の傷痕が、何よりも彼女の送ってきた人生を物語っている一つの芸術と化していた。
腕にはリストカットと思われる傷があり、それらの間隔は殆どない。遠目からは一本の分厚い道に見えるだろう。
そして真ん中には縦に特大の傷。しかも両腕だ。確実に、死ぬための傷。
傷はまだ続く。脇腹、下腹部、乳房にさえ、狂った彫刻家に愛された神木を彷彿とさせる傷、傷、傷。腕も、脚も、背中も、衣類に隠れて見えなかった部分にはありったけの傷痕が潜んでいた。
「どうしたの、これ」
「……私もお風呂、入っていい?」
「もちろん」
冬音はご丁寧に髪を、身体を隅々まで洗い、私のいる湯船に浸かった。二人で入っても余裕のサイズはさすが高級タワマンと言うべきか。
「お母さんがね、私のこと大好き、愛してるって言いながら、一つずつ創ってくれたの」
私に背を向けるようにして座る冬音。もちろん背中にも数え切れない傷痕。中には適切な事後処理がされていなかったのか、膿んだり掻き毟られたような痕も存在する。
「でも痛くて、怖くて、逃げようとして……切っちゃいけないところまで切られちゃった」
縦の傷か。もし動脈に達した状態でそこまで切られれば、まず命は無かっただろう。
「お母さんにも同じ傷があってね、それはお父さんからもらったんだって。お父さんは捕まっちゃって、お母さんは死んじゃって、親戚にも友達にも気持ち悪がられちゃって、どうしようもなかったときに遠子さんが拾ってくれたの。つい癖で……今もやっちゃうんだけどね」
時系列が乱れた。どのタイミングで母が死んだ? 殺したのは父? 問いたいことが沸々と湧いて出るも、冬音の声は、話口調は既に普通ではない。あとで推察するとして、今は話を聞こう。
「吾妻ちゃんが初めてここに来た時、遠子さんの洋服よりも自分の食事を優先したらって言ってくれたでしょう? あのときから……ずっと好きだった」
「それはちょっとチョロくない?」
「かもしれない。でも、私にとっては一番嬉しかった言葉なの。私を尊重してくれることが、本当に嬉しかった」
記憶の想起が幸せなものに切り替わったことで、それを語る雰囲気も穏やかになった冬音。
「そっか」
恋愛マンガならここで、後ろから抱きしめてやるんだろう。そして耳元で愛を囁く。きっと冬音もそれを望んでいるはずだ。私はそこまでわかっていて実行することができない。
過去の重い話に引いたとか、やっぱり女相手は無理とか、そういう次元の話ではなく、美術館で展示品に触れないのと同じ。
「きれい」
血が巡って赤みが強くなった傷痕達は、その姿を一層痛々しく、一層妖艶に浮かび上がらせていた。
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