第3話

 リビングダイニングキッチンから見える別の部屋へと繋がっていそうなドアは四つ。引き戸の奥には和室がありそうなのでスルーするとして……まぁ適当に開けてみるか。

「ねぇ、この部屋使っていい?」

「うん。そこなら大丈夫。おやすみなさい、吾妻ちゃん」

「ん、おやすみ」

 一番最初にドアを開けた部屋にはベッドとクローゼットしかなく、未完成な伽藍堂具合にさっそく心を惹かれてしまった。

 かばんを投げ捨てベッドの身体を打ち捨てる。

 沈む沈む。それになんだか落ち着く匂いだ。なんだろう、考えなくちゃいけないことたくさんあるのに……今だっていろんな疑問が渦巻いてはどんどん大きな竜巻に成っているのに。

 台風の目にいるらしい私は、ずぶずぶと落ちていく。

 いいか、別に。難しいことは、明日の自分に任せよう。


 ×××


 私を這う奇妙な気配に意識が覚醒していく。

 スーパー銭湯のリクライニングチェアで寝ていたときも同じ感覚がした。すなわち、纏わり付くは変態の吐息。

「結局こういうことするのか」

 今が何時だかは知らない。ここの住所も知らない。確かなのは、私が寝ているベッドに私以外の人間が存在するということだけ。

「だったら三億は安くないか?」

「安心してくれ。君が考えているようなことをするつもりはない」

 いつの間にか部屋に侵入していた遠子は、高ぶった呼吸を隠そうともせずに、荒々しく鼻を鳴らして私の頭や首を嗅ぎ回っている。

「……じゃあこれ何してんの?」

「察しが悪いな。匂いを嗅いでいるんだよ」

 私はこいつが言った通り、妙なことをされると考えていた。それは裸に剥かれ、唾液まみれにされ、指やら舌やら器具やらで蹂躙される想像。しかしその斜め上を軽々と飛び越えていった変態行為に、私は生唾を飲む他ない。

「布団をめくって。両手を上げなさい」

 この程度の指示を聞くだけで三億円? 文字通りお安いご用だ。

 遠子は偏執的に腋の匂いを嗅いだあと、「シャツを捲ってお腹をみせなさい」と小声で指示を出したので従う。すると、私の魂でも吸っているのかと怖くなるほど臍付近で深く呼吸を繰り返した。

 その後も「膝を立てて足を開きなさい」だの「うつ伏せになってお尻を上げなさい」だの人生で初めてのオーダーをいくつもこなし、ようやく依頼主が満足した頃には私もうっすら汗をかいている程だった。

「これだけやって触んないとか、むしろ変態が過ぎるんじゃない?」

 別段触れられたいわけじゃない。これで済むならそれで安心だ。だから彼女がこれ以上の行為に出るつもりがないのか、私は確かめたかった。

「美しいものには触れない主義なんだ」

 私が見ていない内に自分で触っていたのか、触らずとも匂いを嗅いでいるだけで人種なのかは知らないが、とにかく、至極満足気に紅潮した頬を緩ませてそう返された。

「それに……そういうのはあの子にとっておいてあげないとね」

 慈しむように付け加えて遠子は部屋から出ていく。ドアが鳴らないようにそっと閉める動作に、彼女の人間性が垣間見えて、だから、さっきまでの異常性が際立って印象付けられた。


 ×××


「あの、吾妻さん」

「……ん」

「起こしてしまってすみません。あの、そろそろ八時を回りますので、よければ一緒に朝ごはんを食べませんか?」

 柔らかい声音に心地よく起床した。カーテンは相当分厚いらしく、朝日を完璧に遮断している。

「ん。……あれ、昨日タメ口じゃなかった?」

「あ、あの……はい。えと……「あーいいよいいよ。喋りやすい時に、喋りやすい方で」

「あっありがとう、ございます。それじゃああの、待ってま、待って、る、ね」

 ロボットか。他人に何かを言われて無理に自分を変えようとする行為とは無縁なため、どう助言すればいいのかわからない。

「……まぁ、とりあえず行くか」

 三週間の放浪は私の胃袋を随分小さくしたらしく、昨日のカレーによって未だ空腹は訪れていない。

 多少ある喉の乾きを潤すために部屋を出れば、コーヒー片手にノートパソコンへ片手で高速タイピングする遠子の姿。

「おはよう吾妻、昨晩はありがとう。非常に良い時間を過ごしたよ」

 こいつ、冬音がいる前でもお構いなしか。それはつまり、隠すべきことではないということで、去り際の発言から察するに、冬音もそっち側の人間と考えて妥当か。

「悪かったね、あんたらでよろしくやってる家に上がり込んじゃって」

 一応の探りを入れてみると、手を止めて挑発的に嗤った遠子から想定以上の返答を受ける。

「ふふっその謝罪は必要ない。流石の私も姪っ子相手にあんなことをするわけにはいかないからね」

「っ」

 姪っ子……? こいつら血が繋がってるのか? いや、そう断定するのは早計だが……にしても想像以上に込み入った事情があるのは間違いなさそうだ。

「さて、そろそろ行こうかな。昨日も言った通り二人で協力して、よりよい逃避行にしてくれ」

 冬音の作った弁当を受け取り、冬音にジャケットを羽織わせ、冬音にいくつか愛の言葉を述べると、遠子は襟を正して私に向かい合った。

「吾妻」

「なに」

「別にキミを買ったという認識はないがね、もし三億円に関して思うことがあるのならば、冬音の望むことを拒まないでやってくれ」

「まぁ気分次第じゃない?」

「それなら安心だ。冬音の身体を見てその気にならない人間なんていないからね。じゃあ、いってきます」

 軽い足取りで飄々と去っていく遠子へ「行ってらっしゃい」と慈しみを含んで送り出す冬音。

 今までの会話を聞きながら疑問一つ、訂正一つ入れてこなかった彼女に遠子に似た異常性を感じながら、私は自室へと向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る