第162話:駆ける風
鹿はゆっくりとめい子に近付く。
なぜ電車の中に鹿がいるのか、この惨状はなんなのか、そのことを理解出来ずに混乱するめい子だが、その混乱の中でも鹿の異常さにだけは分かる。
電車の座席にペタンと座るめい子の目の前に鹿の口が迫ると長い舌で顔を舐められる。
不快な感触に身を引いて、嫌そうな表情をするめい子を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。
身の危険を感じためい子が、おもわずショルダーバッグを握って思いっきり振り抜くと顔面にヒットするが、相変わらず笑みを浮かべたまま鹿はめい子を見ている。
「なによ、この鹿……ひっ!?」
めい子が振り抜いた右腕に長い舌が巻き付き這い進んでくる。その不快な感触に思わず短い悲鳴をあげてしまう。
舌はめい子の首筋を舐め、襟の隙間から侵入し鎖骨に沿ってやがて左胸へとたどり着く。
その不快さと恐怖で声も出ないめい子が、周囲を見ると鹿に襲われる自分を見て、逃げる人たちの姿があった。
「助けて」との声も出せず、自分を見棄て行く人々に死を宣告されたようで絶望が心を支配する。
鹿は満足そうにめい子の激しく動く心音に合わせ、首を縦に振りリズムを取り始める。
最初こそ右手を引っ張ってみたが、巻き付いた舌の力は強くビクともしない。
意味が分からない。自分が今からどうなるのかも分からない。周りに助けてくれる人はいなくて、目の前には鹿がいるだけ。
これから起こること、最悪死ぬかもしれないという恐怖に震えながら。自分の人生を振り返る。
だが最近の出来事を中心に思い出される内容はどれも辛いこと。良いことが思い浮かばない自分の人生に悲観してしまう。
「あぁ、つまんない人生だったな……」
舌が触れる不快感の方が強く、頬を伝う涙の感触も感じないめい子の呟きだが、それは電車の窓が粉砕される音に掻き消される。
窓を突き破り前足でブレーキをかけ、腰をひねり器用につんのめる後ろ足を地面に付ける赤い毛並みの犬は、鹿とめい子を見て赤い毛並みを風もないのに巻き上げ逆立たせる。
ガラスを突き破り侵入したきた犬を見て、瞬時にめい子に巻いてあった舌を巻き取る鹿の勘の良さと、すぐさま角を構える戦闘センス。
故に風を纏う犬の爪に反応し爪と角が激しくぶつかる。
爪を防がれバク転し宙に身を置くと、身動きの取れないであろう犬めがけ、鹿の頭から伸びた角が枝を伸ばし襲いかかる。
犬が腹を天に向けたまま後ろ足で宙を蹴り、強引に落下すると前足で地面スレスレを蹴って、飛び上がり再び身を委ねる空中で屈み前方へ弾ける。
鋭い風の刃となった犬は空気ごと伸びた角を切り裂く。バラバラと落ちる角の破片が床に落ち跳ねる中、2匹の蹄と爪がぶつかる。
蹄と爪が
風は上から下に強烈に吹き伸びる角をへし折り、床にぶつかるとその風が逃げないように犬は掬い上げ、上空へと巻き上げ角を砕く。
円を描く風を纏い集め、先端を尖らせ槍となった風が鹿の肩を掠める。
ここまで一瞬の出来事。目の前の出来事に思考がついてこないめい子を、更に混乱に陥れるのは赤い毛並みの犬が自分を見て口を開き喋ること。
「おい、逃げるぞ。乗れ」
犬がめい子を頭で掬い上げ背中へ放り投げる。背中に着地し思わず犬を掴むめい子。
そのまま犬が跳ねると窓ガラスに突撃する。
「う、うそっ!! ぶ、ぶつかる!?」
目をつぶって手を広げバタバタして叫ぶめい子のことはお構い無しに、犬はガラスを突き破り電車から飛び出す。
「あれ? 痛くない」
ガラスを突き破って、頭にガラスが刺さっていると思っためい子は頭を擦りながら、景色が物凄いスピードで流れていくのに髪も乱れないことに気付く。
「あまり暴れないでくれ。一旦奴から離れ、お嬢さんを逃がすからそれまでしっかり密着してくれ」
「え、密着。あぁ風の抵抗的なこと?」
「いや、オレのヤル気的なことだ。かなり重要だ」
なにを言っているのか意味は分からないが、めい子は犬のふさふさの毛に身を委ねしがみつく。
「うわぁぁふわふわ、ん? いいシャンプー使ってるね。いい匂いするっ!」
毛皮に鼻を突っ込みクンクンと匂いを嗅ぐめい子に、フンフン! と鼻息荒く興奮気味に走る犬。
「そう言えばキミ、今朝あった犬だよね。なんで喋ってるの? ……はっ! まさか私死んでるとか? でこれは夢で、いや夢だとおかしいようなぁ、あれ?」
「今さらな質問だな、お嬢さんは死んではない。オレの……ん?」
会話の途中で犬が上空を見上げる。
トンビが円を描きながら甲高く鳴く。その鳴き声は縄張りをアピールするのではなく誰かに告げる鳴き声。
「ちっ、こっちに向かってきてやがる。思ったより速いな」
住宅街まで来た犬は爪を立て地面を滑りながら円を描き方向転換すると、迫り来るであろう鹿を迎える。
「オレの名はシュナイダー、お嬢さんとゆっくり仲を深めたいところだが、今は逃げること優先だ。行け」
背中にしがみついていためい子を降ろし、身構えるシュナイダー。
「あっ……」
降りた途端、ペタンと座り込むめい子。
「ごめん、腰抜けたみたい……」
そんなめい子を見てシュナイダーは、フッと笑い近付くと背中を見せる。
「背中に手を付け。乗れるか? 取り敢えずそこの物陰に隠れていろ」
シュナイダーの言う通りに背中にすがり、住宅の塀の陰に降ろされる。
「そこで大人しくしてくれ。状況によっては逃げるからその気構えだけは持っててくれ。
オレが必ず守る」
それだけ言うと、道路にゆっくりと歩いて行く。
その背中を見送るめい子は、シュナイダーと名乗る犬をカッコいいと思うのだった。
だが、シュナイダーを正面から見たら自分のセリフが決まったことにニヤニヤする、だらしない顔であることをめい子は知らない。
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