第161話:迫る!向かう!

 どんなに国が情報を押さえ込もうとしても、記録が残らないとしても目撃者が増えれば嫌がおうにでも噂は広がり、認知され始める。

 ましてや、大量に死人が出ている現状においては尚更である。


 町に突如として現れた、大きな鹿は暴れ人を見つけては血を吸い尽くす。


 ただ、男は踏み潰し、女のみ血を吸うという拘りをみせるが、この混乱においては気付くものもおらず、どのみち殺されるので人々は逃げるだけである。


 これらの情報は命からがら逃げた人々によってもたらされ、お昼のニュース等を騒がせることとなる。


 だが、このことを誰よりも早く知った者は走る。人々の喧騒の中を駆け抜けそいつの元へと向かう。


 赤い風が人々の波と逆に力強く走っていく。



 * * *



 ショッピングモールを闊歩する鹿に見付かるまいと息を殺して柱の影に隠れる女性。

 ここまでの惨劇を目の当たりし、泣きそうになるくらい怖いのを我慢し、自分の口を押さえ震える女性。


 蹄の音が遠くに行くのを祈る彼女だが、突如生ぬるい感触の赤く長いものが腕に巻き付くと、無理矢理引っ張られる。


 肩の間接を外されながら、引きずられた女性は、目の前にいる鹿と目が合う。


 ただこの鹿は自分の知るそれとは違い、どこか人間めいている。鹿は女性を見るとニチャァと気持ち悪い笑みを浮かべ、長い舌をゆっくり体に這わし、尖端を目の前に向ける。


 舌の先端が横に割れ開くと小さな歯が生えている。

 舌が女性の胸元にそっと触れ、肌の上を舐め進むと左胸の上で止まり、唾液を滴しながらそっと寄り添う。


 恐怖で動けない女性の、激しく動く心臓の鼓動に合わせ目をつぶり、首を縦に振りリズムを取る鹿。


 不快なぬめりを女性に与えながら、舌先にある口を開くと、牙を立て甘噛みする。

 甘噛みと言ってもそれは鹿にとって。女性は、胸元に食い込む牙の痛みに自分の死を予期しガタガタと震える。


 目を開いた鹿がニタァと笑う。同時に女性の胸から僅かに血が吹き、床に赤い点を付ける。


 やがて血の気を失った女性は力なく倒れ、鹿は口の周りを真っ赤に染めいななく。


 満足した笑みを浮かべ走り始め、新たな獲物を求めて人の匂いの多い方へ向かう。四角い乗り物が沢山あって人の匂いが集まっている場所へ。



 * * *



〈──閉まるドアにご注意ください〉


 軽快なメロディーと共に、プシュっと音を立て電車のドアが閉まる。


 帰宅ラッシュでもないお昼過ぎ、まだあまり混んでいない車内の中で椅子に座るのは容易なことだった。


 金堂こんどうめい子はぐったりと広々とした座席に座る。

 左肩に掛けたショルダーバッグに引っ張られ、右に傾くめい子は魂が抜けそうなため息をつく。


「はぁ~、向いてない、やっぱり向いてないわぁぁぁぁ」


 めい子は人が少ないのをいいことにブツブツと文句を言う。


「大体さ、屋根にソーラーパネル付けるんなら最初から付けてるっての。

 先輩はお年寄りを狙えって言うけどさぁ~、はぁぁぁぁ、できないよねぇ~」


 恥じらいもなくふんぞり返って車内の天上を仰ぎ見る。


 ガタンッ!!


 天上から吊り下げられていた広告が大きく揺れる。


 発車して数分も立っていないのに突然、鉄を削る耳をつんざく音が響き激しい揺れと共に電車が止まる。


 めい子を含め周囲にいる人たちは、座席から転げ落ちてしまう。


「いたたっ、なによぉまったく」


 鼻を押さえ立ち上がるめい子が辺りを見回すが、周囲の誰もが今の状況を把握出来ずに混乱している。

 加え、車内アナウンスも流れず情報がまったく入ってこない。


 スマホを見るがなぜか画面は写らず、たまに表示されてもノイズが走り消えてしまう。


 混乱する中誰かが「人身事故か?」と呟く。その一言で皆がとりあえず納得してしまう。いや、現状を把握したい気持ちから無理矢理納得したと言った方が正しいかもしれない。


「人身事故かぁ、やだなぁ」


 めい子も人身事故だと決めつけ、ぼやきながら座席に座ると今朝見た犬と猫、カラスの会合を思い出す。


「あれは癒されたな。やっぱ動物に関わる仕事したいよ、ほんと……」


 めい子がそう呟いたとき、車掌さんがやって来て現状の説明が始まる。連絡がつかず結局なにも分からない、今外に出るのは危険だから現状が把握できるまで車内に待機してくれと、それだけが分かる。


 皆が落胆し、座席に座り動かないスマホをどうにか動かそうとしたり、目をつぶって時間を潰そうとする人などいる中、めい子は目をつぶる選択をする。

 暴れたり、文句を言う人がいなくて良かったと安堵しながら眠ろうと試みる。


 目をつぶって数分たっただろうか、大きな破裂音が響き車両が大きく揺れる。


 寝ていたわけではないが、なにも考えないようにしていたので、ぼんやりした意識の中で周囲を見渡すと周りの人もキョロキョロしている。


 人の運命とは分からない、今日たまたまそこに座っていたから、一歩前に出ていたから、その僅かな差で生死を分けることがある。


 めい子は、はしたないと思いつつも座席に上がり窓を開け外を覗く。


 瞬間車両を繋ぐドアがけたたましい音ともに、周囲にいた人も巻き込んで吹っ飛んでいく。


 その惨事を座席に上がっていためい子は回避できた。だがそれは新たなピンチの始まりに過ぎない。


 ドアを突き破って現れた鹿は、赤く染まった角についた布や、肉片を頭を振って弾くと、物色するように車両内を見回す。


 そして座席で目を丸くして、突然現れた鹿を見るめい子と目が合う。


 鹿はめい子を見て不気味な笑みを浮かべ、舌舐りをしながらゆっくりとめい子の元へ近づいていく。

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