凍てつく大地から

第32話:奏でる旋律は繊細に

 透き通るような肌を持つ細い指が、鍵盤にソッと触れると高い『レ』の音を響かせる。次から次へと流れる様な指捌きで、鍵盤に触れ様々な音を紡ぎ一つの調べを生み出す。


 その調べは曲となりこの広いコンサートホールに鳴り響く。


 指がピタリと止まると、それに合わせ曲もスッと止まる。一瞬の静寂も曲の一部であるかの様に聴いていた皆が余韻に浸り、幾ばくかの間を置いて、パチパチとまだらな拍手が生まれ、そして大きな拍手へと変わる。


 黒いドレスを着た少女はゆっくりと椅子から降り、優雅にお辞儀をする。


 長い髪をハーフアップまとめる、髪留めの黒い花が銀髪の上に咲き誇る。まだ幼さの残る上品な顔立ちを見せる少女は、エメラルドの瞳に観客を映すと優雅に微笑む。


 天使のような微笑みに老若男女問わず酔いしれ、うっとりして小さな幸せのため息をついてしまう。



 * * *



 エメラルドの瞳は窓の外を映す。短い春の深緑しんりょくが、更に増して瞳に映し出されている。

 手に持ったカップの中の紅茶にジャムを入れ、優雅に混ぜると口にそっと運ぶ。


「お嬢様。次の予定ですが、これからコンサート会場の方々への挨拶。次に地元の新聞社のインタビューを受けた後、主催者との会食となっています」


 スーツ姿の女性は、手に持つ手帳をメガネに映しながら窓の外を眺める少女に予定を告げる。


 カタカタとカップとソーサーが旋律を奏で始める。


「お嬢様?」


 不思議そうに見る女性に対し、少女は小さな口で可愛らしい笑みを作ると、ちょっと罰が悪そうな悪戯っ子の様な表情を見せる。

 その表情でさえ天使を彷彿させ、スーツの女性はうっとりしてしまう。


「ごめんなさい。さっきの緊張がまだ残っているのかしら?」


「お嬢様程の方でも緊張なさるのですね」


「当たり前よ。お客様に私の演奏を聴いていただくのですもの。失敗出来ない、そう思うと手も震えるのよ」


「配慮に欠ける発言でした。申し訳ありません」


「いいのよ。それより移動の準備はいいのかしら?」


 女性は深々と頭を下げるとお礼を言って部屋を出ていく。

 ドアが閉まり静寂が訪れると、少女は微笑みながら静かにカップとソーサーをテーブルに置く。


 ドンッ! 


 少女が座ったまま横にある壁を叩く。


「あーめんどくせぇな」


 窓の外を睨むエメラルドの瞳は相変わらず深緑しんりょくを映している。



 * * *



 ロシアの春は短い。そんな短い間でも草木は自身の存在感をアピールするかの様に背丈を伸ばす。


 少女の名はエヴァンジェリーナ・クルバトフ。大富豪クルバトフ家の一人娘である。

 誰をも魅了する容姿に加え、慈愛に満ちた性格で周囲を幸せにする天使の様な少女だと噂されている。

 福音の意味を持つ彼女の名は、親しみを込め「エーヴァ」と呼ばれている。


 そんなエーヴァは今クルバトフ家が所持する車に乗って移動中である。後部座席の隣に座るのはお世話役のアラ・ベロノゴフ。エーヴァが幼少の頃からお世話をしている女性だ。


「アラは疲れていないの? 移動中ぐらい気を抜いていいのよ」


「お気遣いありがとうございます。ですがお嬢様を差し置いて休むことなど出来ません」


 エーヴァは微笑むと小さくため息をつく。


「アラ、私との付き合いも13年。もう少し気軽に、それこそ友達みたいに話して欲しいのだけど」


 アラは手のひらを広げてエーヴァに向けると、首と共に激しく振る。


「め、滅相も御座いません。私はお嬢様にお、お仕え出来るだけで光栄なのですから」


 そんな様子をちょっとだけ悲しそうな瞳で見るエーヴァは「そう」と言って車の窓から外を眺める。


「たくぅ、堅苦しいんだよな」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 それから直ぐだった。キッツ!! っとブレーキ音が短く鳴り少し車が前のめりになる。


「どうしたの?」


 アラが頭を打ったのか額を押さえながら声を荒げ運転手に尋ねる。


「前方に車がいて道を塞いでいるのです。すぐ確認しますので、お嬢様方はこのまま座っていてください」


 運転手の男の横に座る屈強な男が状況を説明してくれるが、その道を塞ぐ車がなんなのかは直ぐに知ることとなる。


 黒い覆面を被り目と鼻、口しか見えない集団がエーヴァの乗る車を囲い銃を向ける。

 その中の1人の男が運転席の窓をノックすると、コンコンっと音が車内に響く。

 アラはエーヴァを庇うように抱き締め、頭を撫でながら「大丈夫です、大丈夫ですから」とエーヴァに語りかけている。

 その体が震えているのは、抱き締められているエーヴァの方が、アラ本人より知っていた。


 運転席の窓を少しだけ開けると、男が久し振りに会った友達かの様に話しかけてくる。


「この車にエヴァンジェリーナ・クルバトフお嬢様は乗ってるかい? いるんだったら御同行願いたいんだけどな」


 運転席の男が何か言おうとするのを男の言葉が遮る。


「いるか、いないか。それを尋ねてるんだ。安い忠誠心で命を散らしても仕方ないだろ? 知ってるぞ給料安いんだろう? 無理すんなよ」


 その言葉に噛みつこうとする運転手の言葉は又もや遮られる。


 ただ今度はエーヴァの言葉だが。


「パーヴェル落ち着きなさい。フランツは銃から手を離して」


 助手席のフランツと呼ばれた男は腰に隠していた銃のグリップから手を離すと手を上げる。それを見て覆面の男は目と口でニタリと笑って、後部座席に座るエーヴァを見る。


「ありがとうございますお嬢様。いつ撃たれるかってビクビクしてたんですよ。あー助かった」


「いいえ、どういたしまして」


 おどけてお礼を言う男にいつもの笑顔を向け答えるエーヴァは、自分を抱き締めるアラの背中をポンポンと叩いて離れるようにお願いする。


「お名前は教えてもらえなさそうね。では覆面のおじさまと呼ばせて頂きますわ」


「お嬢様はお綺麗なだけでなく、ネーミングセンスもおありのようで」


 大袈裟にお辞儀をする覆面の男を見てクスリと笑うエーヴァ。


「覆面のおじさま、私をエスコートして頂けるかしら? 招待状はお忘れなのでしょうからこの3人に詳しいことを教えて頂けると嬉しいわ。この3人からお父様にパーティーのご招待の旨をお伝えさせますから」


「ええ、仰せのままに」


 アラたち3人を車に残しエーヴァは1人外に降りて覆面の男についていく。

 その様子を見て自分達を助ける為に自ら進んで覆面の男の元へ行ったと悟り、必ず助けると心に誓う3人は、覆面の男との約束通りエーヴァを乗せた車が走り去るのを見送ってエーヴァの父の元へと急ぐのだった。

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