第15話 袂を分かつ
夜明け前に、コダは第二大隊情報部隊の隊舎を抜け出した。不思議と追ってはこない。
おそらく自分は、何者かの手のひらの上で踊らされているのだろう。
四人部屋の誰にも気が付かれず抜け出せたとはコダ自身思ってはいない。
隊舎の一室には、二段ベッドが二台置いてあった。そのベッドの下段を使用していたコダは、前日から荷物の全てをベッドの下へと隠していた。それを引っ張り出す際、隣のベッドの下段の男は確かに寝返りを打ったのだ。
隊からの脱走は御法度だ。まして入隊を条件に収監を免れたコダは、脱走すれば拘置所へ逆戻りとなるのは明白だった。
(馬鹿げているな、我ながら。)
それでも決行しない理由などなかった。
先刻の第一大隊近衛部隊所属ロサ伍長との会話の最中から、いや、その前から、コダにはわかっていた。
「・・・」
それはただの意地だったのかもしれない。
ちっぽけなプライドだったとしても、自分の中から沸き上がる情を無視することはできなかった。
・・・
月が陰ってきた。闇が深い。
足音を殺して近付いた厩舎には仄かな明かりすらなかった。コダの、腰から下げたカンテラの光のみがゆらゆらと揺れる。
壁に掛けていた自身の鞍を手に取って、一頭の馬の前に立つ。馬は何かを察したのか、闇の中からコダをじっと見据えた。
「お前に、別れを言うつもりだったんだがな、」
コダの静かな言葉は馬たちの息遣いの中に紛れて消える。青鹿毛の馬は、コダの言葉を理解しないのか、グググググと鼻を鳴らすように低い声を漏らした。
「・・・」
馬の瞳がコダを捕まえて離さない。
黒い瞳に写るコダは呆れ気味に苦笑していた。
「一蓮托生か?いや、俺を利用して自由を得るか。」
青鹿毛の馬の首を擦りながら、馬せん棒を外す。
そして闇夜の微かな光を拾って艶やかに黒光りする馬の背に、鞍を乗せた。
蠢く影が風と変わり、第二大隊情報部隊参謀本部の入る建物の横をすり抜ける。
その勢いは何モノにも削がれることはなく、警備兵の制止を振り切りゲートを飛び越え吸い込まれるように闇の中へと消えていった。
・・・
「予定どおりですね。」
眠気覚ましの濃いコーヒーを片手に、暗いばかりの窓の外を眺めているウィリデ少佐に声をかけたのはサンディークス少尉だった。
「こんな事態を予定するか馬鹿者。隊から脱走者を出すことの意味を知ってるだろ。」
「得意の始末書を書くんですよね?」
「得意なわけねぇだろ。」
「でも、これでうちの隊は堂々と首都へ出兵できますね。」
サンディークスは心底楽しそうに笑った。
それを見てウィリデは溜め息混じりにコーヒーを啜る。
「・・・お前の入れるコーヒーは相変わらず不味いな。」
「知ってます。」
「悪びれねぇな。」
「反省と善処は常にしてますよ?」
「どの口が言いやがる。」
「オレはいつでも隊のために動いていますから。」
にこやかに言って退けると、最敬礼してサンディークスは退出していった。
閉まる扉を見る緑色の目が細る。
ウィリデは濃くて不味いコーヒーを一気に飲み干すと、揃いの模様があしらわれた青い陶磁のソーサーに、そのカップを静かに置いた。
「始末書用の紙とインクを、フスクスに補充させるか。」
そしてウィリデは深緑色の外套を手に取り肩に掛け、ゆっくりと執務室を後にした。
・・・
青鹿毛の馬の足を持ってしても、首都ペルティナーキアへ到着するには二日かかった。
早朝、首都近郊の雑木林で一旦辺りを伺いながら、二日前に隊舎の食堂で盗んだ固いパンを齧る。その傍では青鹿毛の馬が草を食んでいた。
コダはその馬の気配を頬に感じながら、馬に話しかけた。
「こっから先は人間の領分だ。お前はお前の本懐を果たせよ。」
パンを咀嚼しながらの言葉を馬がどこまで理解したのか知れない。しかし、草を食んでいた馬はいつの間にかコダをじっと見据えていた。コダも振り向き、その目を見据える。
そしてコダは徐に、馬の背の鞍を外した。そっと地面にそれを置く。金具の擦れる音がガチャリと微かに響いた。
「野に放たれることがお前にとって幸せなのかは知らねぇが、それが望みなら、行け。」
青鹿毛の馬はしばらくコダを見ていたが、やがてゆるりと背を向けて、雑木林の奥へと歩みを進めた。
小さくなっていく黒い影を見送ることもない。
コダは荷物を肩に掛けて、首都ペルティナーキアへと歩き出した。
首都において城下に広がる街は最も賑やかで人の往来が激しい。
普段コダが暮らす郊外の喧騒とは規模が違う。
それでも黒くボサボサの髪は一目を引き、コダはフードを深く被り直した。
人の波を避けるように城下町を抜け、人気の少ない路地を進むと、街の端に到着し、視界が開けた。その頃には日はとっぷり暮れようとしている。
オレンジ色の空から漏れる夕日を遮るように、眼前には一際高いレンガの壁が立ち塞がった。
コダの遥か上空にある壁の上部には有刺鉄線が何重にも螺旋を渦巻かせている。何者の侵入も許さず、何者の脱走も許さない。
コダは薄ら笑いを浮かべ、路地まで戻った。
そして夜の闇が辺りを覆い尽くすまで、建物の影で息を殺した。
人々の目から逃れたその場所で、ゆっくりと白刃を抜き、丁寧に何度も研石を刀身に走らせた。
・・・
「きゃあああ!」
女の悲鳴が突如地下牢から響き渡った。
衛兵が走る。
同時に伝令兵が監視所内にいたカエルラの元に馳せ参じた。
「中佐!囚人が一名脱走した模様です!」
さすまたを手に駆け出したカエルラは、地下牢の暗い通路の一角で、視野の端に金色の髪を見つけて思わず足を止めた。
戸惑う衛兵がカエルラに声をかける前に、先に行くよう促した。
そして残されたのは、カエルラと金髪の女のみ。
『カエルラ、貴方は私の味方ではなかったのですか?』
人の気配を感じさせない金髪の女は、ふわりと笑って黄金色の目を濁らせた。
カエルラは、奴隷のイワンに頼んでいた秘事がこの金髪の女に漏らされた事実を知り、やはりと喉の奥でくくっと笑った。
「もちろん、僕はずっと貴女の味方ですよ、プルウィウス様。貴女のお望みの通り、政府高官のメトゥスを斡旋しましたし、ルーベンより《混沌のニグレド》を密輸させたじゃないですか。それなのにどうして僕が味方ではないと?」
嘘ばっかり、とプルウィウスは蠱惑な笑みを溢す。
『ニグレドが覚醒するのを期待しているのなら無駄です。あんな女に、ニグレドが心動かされるはずがありません。ニグレドは、このまま緩やかに死んでいくことを望んでいるのだから。』
コロコロと楽しげに笑うプルウィウスを見下ろし微笑むカエルラは小さな声で呟いた。
「これはもう使えないなぁ」
生体のニグレドと、偽りの器に閉じ込められた魂のみのプルウィウス。
今後、有翼人の生態を調べていく上で最も重要なのはどちらなのか。
そんなものは天秤にかける価値さえなかった。
「囚人を捕らえる任がありますので、失礼します。」
カエルラは美麗な笑みを称え、プルウィウスに最敬礼した。プルウィウスの張り付いたような笑顔の口角が一瞬醜く歪んだが、カエルラはそれを黙殺して颯爽と走り出した。
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