第8話 拙い文字で
略取及び誘拐の罪で捕らえられたコダは、後ろ手に手枷を嵌められたまま、第二大隊情報部隊の本拠地内にある拘置所へと移送された。
格子のついた黒塗りの馬車から降ろされてすぐ、三人の看守に囲まれた。そのうちの一人に腰縄を引っ張られる。そのまま建物裏側のひときわ頑丈な扉の入り口から、建物内へと連行された。
薄暗く寒い廊下をひたすら歩く。
そこはいくつもの扉が規則正しく並んでいた。その中の一つの前で待機させられた。
一人の看守が鍵の束から一つを選んで扉を開け、別の看守に腰紐を外される。そして背中を強めに押されて入室すると、すぐさま重い扉がバタンと閉じられた。
見渡すほどでもない。狭い部屋には窓もない。
底冷えのする剥き出しの石の床に、コダは腰を下ろした。冷たい壁に背を預け、見るでもなく見据える先には、足の長い蝶がクモの巣に引っ掛かり、もがき苦しんでいた。
手の自由を奪われた今のコダは、たった一匹の蝶を助けることさえもできない。
自分が無力だと、もはや嘆くこともない。
それが事実であることは身に染みた。
苦笑が漏れる。
しかしその黒い瞳は、陰ることも曇ることもなく、寧ろ以前よりも強い光を孕んでいた。
・・・
第二大隊情報部隊参謀本部二階の角部屋にある執務室は、西日が差し込むため夏場はひどく暑い。
だがこの執務室は、比較的季節の移ろいが穏やかなコロルの気候を無視するように、ひどく暑い夏が終わると、途端に日が差し込まなくなり底冷えがする。
そのためどの部屋よりも早く、暖炉に火が灯った。
「くそ、一番執務に貢献してやってんだぞ。いい加減部屋を代えろってんだ」
独りごちながら、第二大隊情報部隊副隊長ウィリデ少佐は忌々しそうにずり落ちかけた銀縁眼鏡を上げつつ、薪を数本少々乱暴に暖炉に投げ込んだ。途端に爆ぜて火の粉が舞う。
勢いを増した炎が、整髪料でガチガチに固められた緑色の髪をテラテラとオレンジ色に彩った。
「・・・」
その光さえも不機嫌そうに見えるのは、今の自分の心持ちのせいなのだろうと、軍属事務官フスクスは、束になった書類を胸に抱えながら、シワだらけの顔をそっと苦く歪めた。
「お忙しいところ何度もすみません少佐、何度も申してますように、できれば早急にこの書類の方にサインをお願いしたいのですが、」
「だからするわけないだろ。何度も言わすな」
「・・・」
取り付く島もない。もはや不毛だとしか表現できない。この一連のやり取りに、フスクスは毎度のことながら落胆する。
やはり一度でサインを頂けないのか。ウィリデがこちらを向いていないことをいいことに、フスクスは苦い顔のまま何度目かの溜め息を漏らした。
「しつこくて本当に申し訳ありませんが、ルボル大佐は少佐のサインを貰うようにと執拗におっしゃられておいででして。少佐がサインをしていただかないと、マルタイが勾留期限を迎えて正式に被告として裁判にかけられるため第一大隊に引き渡しとなりますので、その前に、と大佐が、ですね、」
毎度のことながら、事務仕事を押し付け合う第二大隊情報部隊の二大巨頭に板挟みとなっているフスクスは、季節外れの汗を拭きつつ書類をウィリデの机にそっと置いた。
ウィリデは忌々しそうに舌を打つ。
「確かに駒は欲しい。だが、なあ。・・・どうして大佐はこうも俺の下に厄介者を置きたがるんだ。」
それは言わずもがなでしょう。と思いはしたがフスクスは口にしなかった。代わりに張り付いたような愛想笑いを浮かべた。
第二大隊情報部隊には複数の副隊長が各々の名を冠した中隊を率いているが、ことのほかウィリデ中隊所属の小隊長たちは曲者揃いで有名だった。その筆頭が01小隊長のサンディークス少尉であることは言うまでもない。
「くそ、厄介事ばかり増えるな」
愚痴が止まらないウィリデは、上質な本皮でオーダーメイドしたオフィスチェアが軋む勢いで座ると、愛用の万年筆を引き出しから取り出した。
・・・
ようやくサインをもらって事務室へと向かう廊下でふと立ち止まり、フスクスは懐から薄汚れた手拭いを取り出した。そしてそっと重い息を吐く。
「ルボル大佐もウィリデ少佐も、娘のロサも、私を胃炎で殺したいのかな?」
フスクスの娘、ロサは、現在第一大隊近衛部隊に所属している。
そのロサが先日、とある奴隷の女を首都ペルティナーキアへと移送する際の護衛を仰せつかった。その女は元・遊女で、この度政府高官メトゥスに見初められ、奴隷として買い上げられたとのことだった。
常々より奴隷制度を疑問視していたロサは、数日かけて首都ペルティナーキアへと護送する馬車の中で、さめざめと泣く奴隷の女と密かに言葉を交わしていた。
《お父さんの立場はわかっているけど、どうか私の我儘を通させてください。》
フスクスが妻経由で受け取った娘からの手紙は、そんな書き出しから始まった。その内容は読めば読むほどフスクスの胃をキリキリと痛めた。
《この手拭いを、コダという傭兵に返してください。彼女が書いた手紙と共に。》
ロサの手紙に同封されていたのは、この薄汚れた手拭いと、一枚の便箋。
その便箋には、拙い文字で、
《ありがとうございました。セイレーン》
それだけが記されていた。
「・・・」
フスクスはこの手紙を見るたびに目頭が熱くなる。
識字率が高い大国コロルにおいて、この手紙を妙齢の女性が書いたとはとても信じられなかった。
幼児の書いたような醜い文字が踊る手紙。
この手紙を書いた女は、その拙い文字で、自身を誘拐した被疑者に感謝を伝えようとしているのだ。
「・・・理不尽だなぁ」
一介の事務官であるフスクスには、どんな些細な問題でも詳細を伝えられることはない。
だがこの度の、ウィリデにサインをもらった一連の事務手続きが、コダという名の傭兵の、強制入隊のためのものだということはわかっていた。
本人の了承なく入隊させられる隊員は、往々にして有翼人討伐の最前線に送られる。傭兵たちと仕事内容は同じだが、傭兵たちと違って出来高で報酬を得られるわけではない。強制入隊させられた彼らは、ただ労力を搾取される捕虜と同じ扱いだった。
「・・・本当に、理不尽だよなぁ」
フスクスは、遊女から奴隷になることとなった女の手紙を、哀れみを込めて数回、優しく撫でた。
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