第7話 沈むように飲み込まれていく

 

 サンディークス少尉が去った後、ほの暗い路地裏でコダは力任せに拳を壁に叩きつけた。


 その時の傷がまだ癒えていないある日の夕刻。

 乗り合い馬車に乗って帰路につくコダは、不意に周囲に気づかれない程に小さく笑った。

 その町の一角を通りすぎる際の一瞬を、コダの黒い瞳は見逃さなかったのだ。


 目を合わすことなく俯いていた女が遠慮がちに握っていたのは、確かに自分が先日渡したあの薄汚れた手拭いだった。


     ・・・


 幾つも星は瞬いて、丸い光が漆黒の空をぼんやりと照らす。

 今日は見事な満月だった。


 それでも光の足りない闇の中。誰もが見上げない屋根の上で大きな影が静かに蠢く。


(まるで博打だな。)


 疎らに行き交う人を見下ろしながら、コダはそっと苦笑を漏らした。

 

 あの女が、今この女郎屋のどこにいるのかはコダには知れない。

 それでも交わした約束を反古にするわけにもいかなかったし、叶えない選択肢など頭の片隅にもなかった。


 とりあえず、いつもの粗末な部屋が位置する、レンガ造りの窓のひさしの上に一旦降り立った。ひさしに掴まり、そのままぶら下がるように部屋を覗き込むと、室内は灯りもなく深い闇が広がっていた。

 壁に足をかけ、片手を伸ばし、そっと窓を手前に引く。思いの外軽い感触に一瞬その手が止まった。


「・・・」


 そこに意図があると踏んで再び窓を引き開けると、薄いガラスが震えてギイッと鈍く軋んだ。だがあちらこちらから漏れ聞こえる獣のような喘ぎがそれをにわかにかき消す。


 観音開きの両窓を開け放った。

 同時に、壁を蹴って勢いをつけ、振り子のように一気に室内に入り込んだ。190センチある巨体でありながら、猫のように身体をしならせ四つん這いに着地する。その際漏れた音は、微かに床が鳴く程度だった。


 わずかな灯りもない暗闇の中、目を慣らすためにしばらくその低い体勢のまま息を殺す。その時、あからさまに何かが眼前で蠢いた。それは小さな人影だった。


「・・・」


 安堵ともとれる息を一つ吐いて、コダはゆっくりと立ち上がった。


「待たせたな。」


 耳をすませなければ聞こえないほどのコダの声に、小さな影は首を横に振った。


「さあ、行くぞ」

 

 コダがその大きな手を差し出すと、小さな影は小走りで近寄り、一瞬躊躇いながらも、おずおずと手を伸ばした。その手をコダは半ば強引に掴むと、一気に引き寄せ女を肩に担いだ。


 そしてそのまま踵を返して窓に飛び乗り、臆することなくコダは大股で階下へ飛び降りた。ドスンと派手に着地する。


 一方で担がれた女は、あまりに雑な救出劇に悲鳴を上げそうになる口を手で抑えることに必死だった。


 そんな女を労る小器用さを持ち合わせていないコダは、女を荷物のように肩に担いだまま、闇に乗じて国境沿いの原生林へ向け走り出した。


     ・・・


 原生林の先は隣国ルーベンへと繋がる国境となる。

 ルーベン側はコロル軍の侵攻を警戒して厳しい警備網を敷いていると聞く。だが日々「害獣」である有翼人の駆逐に追われるコロル軍は、ルーベン側からの人の流入には無頓着だった。


 コダは、女を連れてルーベンへ不法入国することを目論んでいた。ルーベンへ入ってしまえば、少なくとも第二大隊情報部隊に追われることはなくなるだろう、そう考えていた。

 

 原生林へ入ってしばらく、女の手を引いてぐんぐん獣道を歩いた。足場が悪く、あまり外に出ていなかった女は何度も足をとられて体勢を崩した。その度に支えるように手を引っ張るが、埒が明かない。


「少し急ぐぞ」

「え?あっ」


 有無も言わさず再び女を肩に担ぐ。

 そしてコダは駆け出した。



 月の灯りも届かない。

 闇のみが広がる鬱蒼とした木々の合間に少し拓けた場所を見つけ、女を下ろした。

 頭を下げた状態で運ばれ続けていた女はふらつきながらその場にしゃがみこんだ。

 そしてそのままコテンと横になる。


「すまなかったな。しんどいか?」

「いえ、大丈夫です。・・・ただ少し、眩暈がするだけですから、少し休めば、大丈夫です。」


 闇に紛れてはっきりと見えない女の顔は、おそらく微笑んでいた。

 コダはそうかと少し笑って、肩に掛けていた全財産の入った鞄から小さなカンテラを取り出した。火打ち石で火を灯す。


 そのカンテラを咥えて女を抱き上げると、大きめな木に背を預ける形で座らせた。

 

「今日はここに夜営を張る。枝を集めてくるからここを動くなよ。」

「・・・はい。」


 獣に警戒しながら、カンテラを片手に焚き火用に枝を集めて急ぎ戻る。


「・・・」

 

 戻ってすぐさまカンテラで一瞬女を照らす。炙り出されたような女はぼんやり虚空を眺めていた。


 疲れているのかもしれない。コダは女の近くの地面の落ち葉を軽く払って、枝を井桁に組み、火を起こす。


 煌々と燃える火と木のはぜる音だけが響く森の中で、コダは火の守りをしながら女を見据えた。


 女は、コダを見ることもなく、ただ何もない東の闇に視線を投げていた。


 コダは、火に小枝を投げ込みながら、静かに言った。


「お前は、・・・『あいつ』じゃねえな」


 コダの言葉に、女はゆったりと振り返り、炎のオレンジに照らされながら艶やかに微笑んだ。


「いつ、入れ代わったんだ。」

『つい今し方。ニグレドの羽音が聞こえて。』


 女は恍惚とした表情で頬に手を当てた。自らの火照りを慈しむように、情に狂った笑みを漏らす。


「ニグレド?」

『ええ。私の愛しいニグレド。こんな近くにいたなんて。』


 もう、この女に自分の声は届かないのかもしれない。

 コダの胸に去来したのは、闇よりも深い失望だった。


『ニグレドの側まで連れてきてくれて、それだけは感謝します。お陰で、ニグレドの状況がわかりましたから。』


 言葉とは裏腹に蔑むように顎を上げ、女はすくっと立ち上がった。


『急がないと。急いで私の傍に連れてこないと。』


 熱に浮かされたように歩み始める女の足取りは羽毛のように軽かった。まるで重力を感じさせずに闇に紛れて消えていく。


 刹那コダは立ち上がり、


「セイレーン!」


 声の限り叫んだ。

 

 なぜその名が口について出たのか。

 コダ自身にも明確に説明できるわけではなかった。しかし、


「行くな!セイレーン!戻ってこい!」

 

 コダは駆け出し、ふわりふわりと走る女を追った。

 

「セイレーン!俺はお前を拐うと約束しただろう!お前も俺に拐われる覚悟を決めたんだろう!振り向け!セイレーン!」


 刹那女は立ち止まり、膝を折り、その場で四つん這いになった。


「・・・コダ、さん、」


 小さく漏れた悲鳴。

 コダは重心を落として獣のように駆けた。

 そして地を這うセイレーンの腕を掴んで強引に振り向かせた。


「セイレーン!飲まれるな。お前はお前だ!お前の中の有翼人に飲まれるんじゃねえ!」

「コダ、さん、ごめんなさい。お願い、逃げて・・・」

「セイレーン!俺は逃げねえぞ!俺は逃げねえ。お前を拐うと決めたんだ。お前は俺と行くんだよ!セイレーン!」


 セイレーンは名を呼ばれる度に、儚く幸せそうに微笑んだ。黄金色の瞳から溢れる涙が何度も頬を温かく濡らした。


「あなたに、見つけてもらえて、私、本当に嬉しかったんです。素敵な名前で呼んでもらえて、本当に嬉しかったんです。だから、もう、十分です・・・」

「諦めるんじゃねえよ!まだ何も始まってねえだろ!セイレーン!」

『その汚れた手を離しなさい、人間。』


 セイレーンの顔つきが一気に変わった。

 コダはすぐさま手を離す。

 すると女は天に吊られるように肉体や骨格を無視してまっすぐ立ち上がった。


「・・・くそ、」


 そこにいるのは、もう、セイレーンではなかった。


 コダの黒い瞳が一層黒く光る。

 その色は、怒りや憎悪に似ていたが、だがどこか楽しげでもあった。


「てめえから、必ずセイレーンを奪うからな!」


 コダの決意は芯を持って闇に轟いた。


 女は不穏な笑みを妖艶に漂わせ、


『くだらない。まさに愚の極みですね。』


 そして実像のない七色の翼を一気に開いて、吸い込まれるように夜空へと舞い上がっていった。




「賊がいたぞ!こっちだ!」


 何者かの怒号と共に、闇夜を引き裂く警笛が甲高く鳴り響いた。


 途端に数多の足音がみるみるコダを取り囲む。


 コダはゆっくりと空を見上げた。

 鬱蒼と広がる漆黒の中で、コダは幾人もの黒い鎧に無下に取り押さえられながら、静かに嘲笑を漏らした。




 




 

 

 


 




 

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