第9話 拳は白く染まる

 フスクスと名乗る初老の事務官からそっと渡された一枚の便箋は、コダの懐に今もずっとある。


 この手紙を受け取った時に思い知ったのは、やはりただ己の無力さだけだった。

 その胸に去来した痛い程の思いは怒りに近く、固めた拳は白く戦慄いた。


     ・・・


 拘置所で一晩過ごした後、軍務に従事することを条件に釈放される旨を告げられ、コダは二つ返事で了承した。


 その日から、正式入営後に所属が決まるまでの一週間、準備期間と称して第二大隊情報部隊所有の軍馬の世話を命ぜられた。

 そして事前の説明もなく、軍馬内でも特に気性の荒い馬が五頭ほど集められた505厩舎へと連れていかれた。


 軍属厩務員でさえ寄り付かないそこは汚れが酷く、辺りを漂う臭いもきつい。


 コダは必要最小限の用具のみを渡されて、口頭で簡易的に世話等の説明を受けただけでその場に放置された。


「・・・」


 それでも溜め息さえも飲み込んで、コダはほとんど素手で厩舎の掃除に取りかかった。


 厩舎での初日は掃除の要領を得ず、馬房の寝床が整わなかった。

 嘶き咬みつく馬たちを宥めるように、夜通し藁を運び入れ、同時に糞尿の清掃に追われて、明け方前に厩舎の隅で仮眠をとった。


 素人ながら昼夜の全てを掃除と世話に費やすことで、四日目には他の厩舎と遜色ないほどには馬房もきれいに整った。


 功を奏したのか、その頃になると五頭のうち四頭はコダにブラッシングを許すほどに落ち着いてはきた。

 馬たちのそんな姿は、時おり覗きに来る厩務員たちを驚かせた。


 しかし、それでも一頭、青鹿毛の大きな馬だけは、未だコダが馬房に入る度に歯を剥き出しにして咬みつこうとする。


「それでいい。人間なんかに簡単に気を許すなよ。」


 コダは笑みを浮かべ、諌めることも鞭で叩くこともなく、ただその黒い瞳で馬の目をじっと見据えた。


 その繰り返しを続けた七日目。


 馬の餌である乾草を配っていると、不意にコダのボサボサの黒髪が食まれた。

 顔をあげると、青鹿毛の馬が、首を伸ばして耳を立て、コダを直視していた。


「どうした、餌が欲しいのか?」


 コダは改めて乾草を青鹿毛の馬の前に差し出すと、青鹿毛の馬は躊躇うことなくコダの手から乾草を食べた。

 

 やがて乾草がなくなると、青鹿毛の馬は耳を横に伏せてコダに首を押し付けた。その首を撫でてやる。すると馬は満足そうに目を細め、艶やかな黒い尻尾を高く振った。


     ・・・


 入営第一日目。

 厩舎にいたコダは、伝令兵と思われる一回り近く若い男に呼び出され、第二大隊情報部隊参謀本部建物二階の角部屋へ向かうよう命ぜられた。


 出向く前に馬の世話を優先させ、馬房に藁を敷いていると、伝令兵と代わって現れた軍属の厩務員が、今後は自分が世話をしますからと微笑みかけてくれた。

 コダはそうかと頷くと、しばらく馬たちを眺めた。そして一頭一頭馬の首をさすり、厩舎を後にした。


 第二大隊情報部隊参謀本部は石造りの二階建ての建物で、コダはこの日初めて正面玄関から建物内へと入ることを許された。

 窓の少ない建物内はひんやりとしている。

 

 日中ということもあり、隊員の多くが警邏や訓練に就いているためか、建物内でほとんど人とすれ違うことなかった。辺りを見渡しながらゆっくり歩き、二階角部屋の比較的立派な扉の前にたどり着いた。


 二回ノックする。

 すると室内から硬質な男の声で入室を促された。

 失礼しますと声を張り、迷いなく扉を開けた。

 そして頭を下げる。


「この度は恩赦を与えてくださり、誠にありがとうございました。」

「遅い!命令を下して何分かかったと思ってるんだ!」

「申し訳ありません。」

「ち、所詮は傭兵か。やはり駒は駒にすぎんな」


 室内にいた緑色の髪を整髪料でガチガチに固めた銀縁眼鏡の男は、細く吊った緑色の目を一層細めて吐き捨てた。

 コダは頭を下げたまま、そっと拳を握る。


 その後口頭で配属と軍規を説明され、理解の有無を確認されることなく早々に退出を命ぜられた。


 深く頭を下げて再び詫び、部屋を後にする。

 扉を閉めると同時に背後の何者かに声をかけられた。


「アンタ、ホントどこまでも往生際悪いですね。」


 声で何者であるか判断したコダは、急いで振り返り敬礼する。


「サンディークス少尉、本日より01小隊に配属になりました。よろしくお願いいたします。」

「そんな形式張った挨拶はいいよ。そもそもアンタ、オレに敬意なんて心にもないでしょ。それより、」


 コダより少し背の低いサンディークスは、赤い瞳を歪めて、際立って尖った犬歯を除かせながらニヤリと笑った。


「助けようとした女に逃げられるっていうのは、ホント様にならないですよね。あの女が向かった先は知ってるんでしょ?」


 コダは憮然とした表情でサンディークスを見下ろすだけで何も言わなかった。


「あの女は今、ルーベンから密輸させた《混沌のニグレド》と逢瀬を交わしていますよ。」

「・・・混沌の?」

「そう。ニグレドの名は聞いたでしょ?あの女から」

「・・・っ」


 この時点で初めて、コダは逃走の一部始終をこの男に監視されていたことに気がついた。


 奥歯がギリリと鳴った。自分の愚鈍さに腸が煮えくり返る。黒い瞳に濁った光が宿った。

 その光を目の当たりにしてサンディークスは一層楽しげに微笑んだ。


「あの女が今も昔も求めているのは《混沌のニグレド》ただ一人。そのニグレドと風貌が似てた黒髪のアンタはただの代用でしかなかったんだよ。」

「・・・」

「まあ、結果的には、プルウィウスにニグレドの居場所を察知させられたから、オレたちもニグレド獲得のチャンスが巡ってきたわけですけどね。」

「・・・プルウィウス?」


 コダは訝しそうに眉根を寄せた。

 『プルウィウス』は、この国の人間なら誰もが知る《創世の始祖プルウィウス》と同じ名で、この国では国民に命名禁止の布令が出ている禁忌の名でもある。


 始祖プルウィウスは、この世を作り出したといわれる天の使徒で、有翼人だった。そしてこの国が有翼人に襲撃されるようになったきっかけを作った哀れな生命体でもあった。











 

 

 



 

 


 

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