8.その答えは夕暮れも知らない
「あれが……荒魂だって?」
「負の霊力」の塊から分かたれ鎧武者の形をとったソレを視て、小町は瞠目した。
先程、霊脈の中で視た巨大ナマズの荒魂は、生物の姿をしてはいたがその霊力はどこか無機質であり、一切の感情を感じなかった。だが、目の前にいるコレは違う。
『――
鎧武者の荒魂が、そう吠えた――ような気がした。実際に音が聞こえた訳ではない、小町の霊的な感覚へ重低音のように体全体に響く圧が伝わって来たのだ。
途端、小町の全身を凄まじい悪寒が襲った。
「グッ……な、なんなんだこいつ。何を、何をそんなに恨んでやがるんだ?」
「怨」の咆哮で伝わって来たのは、圧倒的な恨みと憎しみ、妬みの感情であった。はっきりとした言葉ではなく、ただひたすらに「恨めしい」「憎い」「妬ましい」といった負の感情が、あの荒魂からは滲み出ている。
巨大ナマズの荒魂とは異なる、明らかな感情が感じられたのだ。
「感じますかな、小町嬢。あの荒ぶる負の感情を。あれこそが我らが祓うべき荒魂のもう一つの姿ですぞ」
「――っ」
原田に何か言葉を返そうとして、喉が詰まる。酷い吐き気が小町を襲っていた。とても口など開けるものではない。
荒魂から向けられる負の感情は、それほどまでに濃厚でドロリとした密度と粘度をもっていた。
(くそっ! なんなんだよ、あれ。あれじゃあ正真正銘のバケモノじゃねぇか!)
心の中で何とか悪態をつくが、気を抜けば意識を失いそうだった。
荒くれ者に組み伏せられ乱暴されそうになった時にも、集団で襲われそうになった時にも感じたことがない、文字通り気絶するほどの恐怖。その波を前に、小町の心は蝋燭の火よりもなお、か細く弱かった。
しかも――。
「気をしっかり持つのですぞ、小町嬢。恐怖に呑まれれば命を落とします」
「っ!?」
原田が今更とんでもないことを言いだした。
「たかが補習」で命の危険があるなど、詐欺もいいところだ。途端、小町の心に闘志の火が灯る。
「――ふざ、けんじゃ、ねぇ! こんな
震える膝を叱咤し、眼前の荒魂を凝視する。「負けてたまるか」という気合を込めて。
すると、そんな小町の気迫に圧されたかのように、鎧武者の荒魂からの圧がほんの少しだけ弱まったように感じられた。
「その調子ですぞ小町嬢! 荒魂との戦いの半分は、精神の戦い。相手の感情に呑まれた方が負けるのです」
「ハンッ! つまりはビビった方の負けって奴か? 分かりやすいじゃねぇか! で、館長先生。もう半分は何なんだ!?」
未だ胸に渦巻く吐き気を必死に押し殺しながらも、小町がいつも通りの勝ち気な口調で問いかける。
その雄姿をチラリと窺った原田は、荒魂に向き合い小町に背を向けてから口元を嬉しそうに歪め、答えた。
「無論、これの出番という訳です」
言いながら、太刀を正眼に構える原田。その全身からは、高密度の霊力が立ち昇っている。
だが、特に小町の目を引いたのは太刀の方であった。原田の身体よりも太刀の方が、濃密な霊力をまとっているように感じられたのだ。しかも、その霊力は太刀自身が放っているものではない。
小町の霊的な視界は、太刀から一筋の光が地中深くへと伸びていることをはっきりと捉えていた。光の筋が向かっている先は――霊脈だ。
太刀は霊脈と繋がっていた。
「我らサムライは、姫巫女と異なり自分だけの力では霊脈へ辿り着くことは出来ません。霊脈と接続し、そこから莫大な霊力の加護を得るには、姫巫女の力を借りるか……この太刀のように霊的な力を持った武具に頼る必要があります」
原田が太刀をゆっくりと頭上へ掲げ、大上段の構えを取りながら呟く。
太刀を包む霊力の輝きはますます増し、蒼き輝きを放っている。
「この太刀は鎌倉時代以前より伝わる名刀――荒魂だけではなく、邪なる心を抱いた多くの者共を斬り捨てて来た、稀代の霊刀です。この太刀と私の霊力が合わされば、この程度の荒魂ならば恐れるに足りません」
「この程度……? な、なんでぇ館長先生。もしかして、この荒魂は雑魚だとでも言うのか!?」
目の前の荒魂は、気を抜けば呑まれそうな負の霊力を放っている。
とてもではないが「この程度」等と思える相手ではない。だが、原田の答えは残酷であった。
「ええ。所詮は結界術式の隙間から抜け出た小物ですぞ? 我らが戦うべき荒魂は、もっと邪悪で強大です。最初に申し上げた通り、ここは修練場ですからして。あの荒魂は練習用の相手として手ごろなのですよ――もちろん、油断すると命を落とすレベルですが……と、長話が過ぎましたな。あちらも痺れを切らしたようです」
原田の言葉通り、荒魂に変化があった。
出現して以来、直立不動のまま「怨」の咆哮を小町達に浴びせてきていたのが、気付けば刀のようなものを構え、一歩踏み出そうとしていたのだ。
だが――。
「よく視ていなさい小町嬢。これが荒魂を『祓う』ということです。――破っ!!」
裂帛の気合と共に、大上段に構えた原田の太刀が振り下ろされる。荒魂との距離はまだ数メートル残っているにもかかわらず、である。
だがしかし、原田の神速の袈裟斬りは太刀の間合いを遥かに超え、霊力の長大なる刃となって奔り――荒魂を斬り裂いた!
『オオオオオォォォ……オオオォォォ!』
断末魔のような叫びを上げながら、荒魂が蒼い炎に包まれる。
鎧武者のシルエットは炎に焼かれるように次第に形を失い、やがて蒼い炎ごと霧散した。後には何も残らない。
まるで初めから何ものも存在しなかったかのような静寂が、辺りを支配した。
「倒した……のか?」
「いいえ、祓ったのです。荒魂を討つという事は、その存在を滅する事ではありません。形を成した悪意を破砕し、無垢なる霊力の粒子に帰すことで、彼らが霊脈という大いなる故郷へと還る手助けをする……と言えば分かりましょうか」
「……ぶっ倒してやれば成仏できるってことか?」
「ハッハッハッ! ユニークな表現ですが、そう考えても差し支えはありませんな」
納刀しながら、原田が鎧武者の荒魂が立っていた方へ向けて深く頭を下げる。なんとなく「そうしなければならない」という空気を感じ、小町もそれに倣う。
部屋の中央では、「負の霊力の塊」が相変わらず炎のように揺らめいているが、蠢く気配無い。不快感はあるが、危険は感じなかった。
「なあ、館長先生」
「なんですかな、小町嬢」
「サムライは……アルトは、いつもさっきのよりもヤベェ荒魂と戦ってんのか? 命がけで」
「ええ、それが『貴き血』を持つ者の務めですからな。――恐ろしいですかな? いつか自分もその戦場に立つことが」
「怖いは怖いけどよ。それよりも、オレは……」
視界の利かぬ暗闇の中、それでもはっきりと感じる「負の霊力の塊」が放つ冷気にも似た気配を浴びながら、小町はそれ以上の言葉を紡げずにいた――。
***
外へ出ると、まだ夕暮れ時であった。小町の感覚では、地下に数時間もいたような気がしていたのだが、案外と短い時間だったらしい。
「修練所」の前には、小町を迎えに来てくれたのだろう、安琉斗がいつになく憂いに満ちた表情を浮かべながら佇んでいた。
「小町……大事ないか?」
「おうアルト! わざわざ迎えに来てくれたのか。オレはこの通り、ピンピンしてるぜ!」
本当は膝がガクガクするほどの疲労感に満ちているのだが、小町は何となく安琉斗相手に弱みを見せたくないらしく、強がってみせた。
そんな小町の様子に、安琉斗はますますその表情を曇らせ――
「館長先生! 小町はまだ初心者です。それを修練場に……命の危険がある場所に連れて行くなんて!」
いつぞやのように、原田に食ってかかった。
だが、当の原田は例の貼り付けたような笑顔のまま動じた様子もなく、静かに口を開いた。
「安琉斗くん、小町嬢がとても危うい状態にあるのは君も分かっているのではないかね? 能力の高さに対して、知識も覚悟も経験も、何もかもが足りていない。だから、何も知らぬまま霊脈に触れてしまい、あわや命を落とすところだった。――霊なるものの危険性について、肌で感じてもらい危機感と覚悟を持ってもらおうとするのは、それほど間違ったことかね?」
「それは……」
「どうにも君は、小町嬢のこととなると過保護ですな。陛下に世話役・指導役を仰せつかったといっても、一切合切を君が手を引いてあげる必要はないと、私は考えますぞ」
それだけ言うと、原田は最後に安琉斗の肩をポンと叩いて、校舎の方へと去っていった。
後に残されたのは、小町と安琉斗の二人だけである。
「あ~、アルト。そろそろ帰ろうぜ?」
「……そうだな」
それだけ言って頷きあうと、二人は五ツ木家の自家用車が待っている駐車場の方へ向けて歩き出した。
会話はない。何となくだが、気まずい雰囲気が二人の間に横たわっていた。
(アルトが心配性、ね。確かになぁ、こいつ、オレにスゲー気を遣ってくれるもんなぁ。まるでお姫様でも扱うみたいによぅ)
夕日に照らされ、安琉斗の整った顔がオレンジ色に染まっていた。その様を盗み見ながら、小町は胸に微かな痛みを覚えていた。
(でも、オレは……お姫様扱いは嫌なんだ。なんでか分かんねーけど、アルトに守ってもらうだけってのは、嫌だ。……何なんだろうな、この気持ち)
自分でも正体不明の感情を抱えながら、小町は無言のまま、夕暮れの中を安琉斗と歩き続けた――。
(第三話 了)
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