6.楽しい夕食と怪しい影

「――ということがあったんですよ」

「あらあら、まあまあ。それで、小町さんの制服の件はどうなったの?」

「館長先生が『検討します』と仰っていたので、また後日連絡が――」


 既に日は暮れて、夜。

 小町達は皇居から五ツ木家へと帰り着き、夕餉にありついていた。

 聖来はあまり堅苦しい夕食を好まず、食べながらでも会話を楽しみたい質らしく、静香から皇居での出来事を聞き出すことにご執心だった。


 静香は相変わらず聖来の前では猫を被っていて、小町の背筋が寒くなるような「上品な」口調だ。小町としては、あまり気持ちの良いものではない。

 とは言え、そうやって静香が聖来の話し相手をしているからこそ、小町は言葉も発さずに黙々と目の前の料理を食べることが出来るのだが。


 本日の五ツ木家の夕餉は、「ビーフシチュー」と白いフワフワのパンだ。

 いずれも、今まで小町にとって縁遠かった所謂「洋食」だが、小町は素直に「うまい」と感じていた。なんでも、ばあやのお手製らしい。

 今までに食べたことのない柔らかい牛肉と、火を通しても新鮮なことが分かるほど色鮮やかなニンジンやジャガイモ――小町はすっかりそれらの虜になっていた。


 当初は、噂に聞く「テーブルマナー」とやらを守らなければならないのかと戦々恐々としていた小町だったが、それは杞憂に終わった。

 ビーフシチューはスプーンですくうか、パンに染み込ませて食べるのが作法らしい。それなら、小町にも出来る。静香からは「大きい音を出したり、器を持ち上げて食べないように」とだけ言われていた。


(……そう言えば、昨日も手掴みで食べられるメシだったな)


 昨晩、ばあやが小町達に振舞ってくれたのは、「サンドイッチ」という様々な具材を白いパンで挟んだ食べ物だった。ハムや野菜、崩したゆで卵などが具になっていて、小町には全くなじみのないものだったが、これもまた美味であった。

 何より、手掴み食べられるのが良い。この分ならば、今後も食事のマナーで悩まされることはないだろうな、等と小町は思った。


 ――実際には、テーブルマナーに慣れていないであろう小町を気遣って、聖来やばあやが簡単に食べられるものを出してくれていたのだが、小町がそれに気付くのは、もっと後になってからのことである。


   ***


「ふう、食った食った~」


 夕食後、未だ話の弾んでいた静香と聖来を尻目に、小町はあてがわれた部屋へと戻っていた。まだ一晩しか過ごしていないが、今の小町にとっては既に最もくつろげる空間となっていたのだ。

 ――が。


「小町、ちょっといいか?」


 ノックの音と共に、扉の向こうから安琉斗の遠慮がちな声が聞こえて来た。


「ん? なんでぇ、お前の家なんだから勝手に入ればいいじゃねぇか」

「そうもいかないだろう。この部屋はもう、小町と静香さんの部屋なんだ。女性の私室に勝手に入る訳にはいかない」

「……そ、そんなもんか? まあ、いいや。遠慮なく入れよ」


 安琉斗の言葉に頬が熱くなるのを感じながらも、小町は彼を部屋に招き入れた。

 なるほど、言われてみれば確かに男が夜中に女の部屋を訪れるのは、どこかいかがわしい雰囲気がある。とはいえ、自分と安琉斗とでは間違っても「そんなこと」にはならないだろう。

 そう高を括った小町だったが、結果としてその判断は間違っていた。彼女はこの後、予想もしなかった目に遭うことになった――。


   ***


「フ~ンフフフ~フフフ~ン♪」


 安琉斗が小町を訪ねてから、約一時間後。ようやく聖来とのおしゃべりを終えた静香が、鼻歌を響かせながら部屋へ戻ろうとしていた。

 バラック街で「歌姫」と呼ばれていただけあって、鼻歌だというのに見事なものである。聞く人がいれば惜しみない賞賛を受けただろうが、残念なことに今の聴衆は屋敷の壁や窓ガラスだけであった。

 ――と、その美しい鼻歌が突如として止まった。


「……んん?」


 自室を目と鼻の先に捉えたその時、静香の耳に何やら不穏な話し声が聞こえてきたのだ。声は間違いなく、静香たち母子があてがわれてる部屋の中から聞こえてくる。

 他人よりも鋭敏な静香の聴覚が、それらは小町と安琉斗の声であると知らせていた。


(……なにかしら?)


 不審に思いながら聞き耳を立てる。

 すると――。


『もう無理だよ……こんな……入らねぇよ』

『ああ、いきなりは無理だが……徐々に慣らしていけば……ほら、ここをこうして……』

『いや、無理ムリむり! なんか……ズキズキするし……こっちは……初めてなんだから……』

『大丈夫だ、小町。僕に任せて……今は辛くても……慣れてくれば気持ちよく……』


(……え、ええっ!?)


 丈夫な扉越しなので所々しか聞き取れなかったが、小町と安琉斗の会話には何やら淫靡な雰囲気が漂っていた。

 「まさかあの二人が」とは思ったが、小町も安琉斗も年頃の男女である。何か「間違い」があってもおかしくはないのだ。

 だが、二人はまだ「そういうこと」をするには早過ぎる年齢だ。


「ちょっと二人とも! アタシも混ぜ――じゃなかった、何やってるの!」


 母としての使命感から来る叫びと、ほんのちょっとの欲求不満の本音と共に、扉を勢いよく開ける。

 果たして、そこに広がっていたのは――。


「ほら、ここはこの式を使うと簡単に解けるだろう? 中学校程度の数学なら、公式を覚えれば楽なものだ。小町ならすぐに出来るようになる。計算問題がスラスラ解けるようになったら、気持ち良いぞ?」

「ん~、そのコーシキってのを覚えンのが辛いんだよ~! さっきも言ったけど、数字とにらめっこしてると頭がズキズキしてくんだよ~」


 教科書らしき本を眺めながら、安琉斗が小町に数学の手ほどきをしている微笑ましい光景だった。

 恐らくだが、育成館への編入までに、ある程度の勉強を小町に教えようという安琉斗の思いやりからの行動なのだろう。


「……あ、あれ?」

「お? なんだカーチャン戻ったのか。シューチューし過ぎてて気付かなかったぜ」


 ひらひらと手を振る小町の姿に、静香の頬が真っ赤に染まる。どうやら自分はとんでもない勘違いをしていたらしい。

 幸いにして、小町は静香が何を叫びながら入って来たのか気付いていないようだが――。


「静香さん……これが勉強している以外の、何に見えるのかな?」


 安琉斗は、この二日間で一度も見せたことがないような、優しげな笑みを浮かべていた。だが、目が笑っていない。

 どうやら、静香が下衆な勘違いをして乗り込んできたことに気付いているらしい。


「丁度いい。数学の次は社会科をやろうと思っていたんだ。良い機会だから、静香さんも一緒に勉強しようか。少し社会というものを知ってもらわないとな。……夜はまだ長い、みっちりとやるぞ」


 何故か静香の方を見ず、窓の外へ視線を移しながら残酷な宣言をする安琉斗。

 その言葉に、静香だけでなく小町も声ならぬ悲鳴を上げたことは、言うまでもないかもしれない――。


   ***


 一方その頃、五ツ木家の前庭ではある異変が起こっていた。

 物陰に隠れるようにして動く、薄ぼんやりとした影が一つ……二つ……否、三つ。夜陰に紛れた侵入者に違いなかった。三つの影は音も立てずにそのまま一路屋敷を目指す――が。


「止まりなさい不埒者共。ここを五ツ木のお屋敷と知っての狼藉ですか?」


 小さく――しかし凛としてよく通る声が、夜の前庭に響く。途端、影たちの動きがピタリと止まった。

 影たちの気付かぬ間に、屋敷と彼らとの間に影法師のような人物が立っていた。月明かりに照らされて淡く浮かび上がったその姿は、五ツ木家のばあやであった。


「お屋敷を預かる者として、これ以上貴方たちを通すわけには参りません。どうぞお引き取りを」


 静かに、しかし投げかけるように影たちへ呼びかけるばあや。

 だが、影たちは「枯れた老人一人」と侮ったのか、ばあやの警告を無視してじりじりと距離を詰め始めた。

 その手にはいつの間にか、夜陰に紛れて鈍く光る金属の塊――棒手裏剣のような凶器が握られている。得物の間合いまで近寄って、確実にばあやを仕留めるつもりのようだった。

 だが――。


 ――ヒュッ! ドッ!


 闇夜を引き裂くような音と共に、影たちの目の前へ何か棒状のものが高速で飛来し、鈍い音を立てて地面に突き立った。

 見れば、それは長い火箸のようなものだった。黒光りする鋼で作られた火箸が、地面に半ばまで埋まり突き立っているのだ。


「……今のはわざと外しました。次は当てます」


 影たちは静かに瞠目した。

 枯れた老人であるはずのばあやが、重量のある鋼の火箸を地面に半ばまで埋まるほどの速度で投擲したのだ。明らかにただ者ではなかった。

 しかも、彼女の右手には既に一本、投擲を待つばかりの火箸が握られており、左手にはもう一組の火箸さえ控えさせている。


 ばあやと影たちの間に横たわる距離は、おおよそ十五メートル。影たちの得物の射程圏外である。

 その距離を、投擲武器ですらない火箸でもって正確に狙ってきたのだ。おそらく、ばあやの言葉はブラフではないだろう。

 影たちが距離を詰めようと殺到すれば、火箸が閃光のような速さで襲い掛かってくるはずだった――何せ、影たちは誰も、ばあやが火箸を投擲したその瞬間を目にしていないのだ。投擲動作が全く見えなかったのだ。


「それにです。既に若様も奥様も、貴方たちの侵入に気付いておられます。この意味が分かりますね? たとえ私を倒したところで、後に控える現役のサムライとを相手に戦って、生き延びる自信がございますか?」


 ――ザワリと、影たちの間に動揺が走った気配があった。

 それに呼応するかのように、月明かりがほんの一瞬だけ雲に遮られ――再び辺りを鈍く照らしたその時には、既に影たちの姿はどこにもなかった。


「……やれやれ。どうやら少しきな臭くなってきたようですね」


 誰にも聞こえぬほどの小さな声で呟きながら、ばあやは未だ明かりの灯る柏崎母子の部屋の窓を見上げた。

 二階の奥まった場所にある、元々は「大事なお客様」に逗留してもらう為の特別な部屋である。


「勅命とは言え、あの母子――いえ、あの娘をお預かりしたことが、五ツ木家の災いにならなければ良いのですが」


 ばあやの杞憂通り、五ツ木家は――柏崎母子は、これから思いもよらぬ災難に見舞われていくことになる。

 だが、部屋で安琉斗の「地獄の特訓」を受けている小町は、まだそのことを知る由も無かった――。


(第二話 了)

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