5.大きなお風呂に奇麗なお洋服

「はぁ~……」


 五ツ木家の屋敷を見上げながら、小町は感嘆の溜息を漏らしていた。

 屋敷は和風家屋ではなく洋館だ。それもとびきり大きい。外壁は驚くほど白く、美しい。窓も沢山あり、一体何部屋あるのか、数えるのも大変そうだった。

 前庭も屋敷に負けないくらい豪奢だ。よく手入れされた季節の植物が生い茂っており、今は春の花々が咲き乱れている。


「すっげぇな! さっすがお貴族様の家だぜ」

「だから、もう華族制度は廃止されて……まあいい。さあ、まずは風呂と着替えだ。ついてきてくれ」


 目を輝かせながら屋敷を褒める小町に、しかし安琉斗は非常に不機嫌そうに答え、さっさと玄関を潜ってしまった。


「ん~? なんでぇ、あいつ」


 当然、小町も不機嫌になる。せっかく家を褒めてやったのに、と。

 だが――。


「あのね~、小町。元華族の人達は、戦後に財産の大部分を没収されてるの。五ツ木家も例外じゃないのよ~? おまけに五ツ木家のご当主様は戦死なさってるの。確か、残された僅かな財産を奥様が運用して、自力でお家を再興したはずよ~? お金持ちの間では『女傑』で有名な方なの~」

「あっ、それで……か」


 静香の言葉に、小町は己の不明を恥じた。

 安琉斗の母は、並々ならぬ苦労でもって五ツ木の家を立て直したのだという。それを「お貴族様」の一言で済ませれば、息子の安琉斗としては心穏やかでいられないのは当たり前の事だろう。

 知らぬ事とはいえ、不用意な発言だったのだ。


「……オレ、謝ってくる」


 言いながら、急いで安琉斗の後を追いかける小町。その姿を、静香はニマニマとした表情で眺めながら、自らも跡を追った――。


   ***


「……こ、これが風呂、か?」


 案内された五ツ木家の「風呂場」を見て、小町は絶句した。

 彼女が暮らしているバラックよりもよっぽど広いその部屋は、床が飾りタイルで埋め尽くされていた。そしてその奥まったところには、純白のバスタブが鎮座していた。

 バスタブには既に湯が張られており、温かそうな湯気を漂わせている。


 小町にとって、「風呂」と言えば銭湯か、バラック街でよく見かけたドラム缶風呂のことだ。こんな「風呂」は初めて見た。


「こ、この風呂桶の横にある機械はなんだ?」

「ああ、それはガス湯沸かし器だ。使い方にはコツがいるから、勝手に触るなよ?」

「……ガスユワカシキ?」


 一九五五年の日本では、既に一部の住宅でガス給湯器が普及していたが、小町は今まで見たことも聞いたこともなかった。

 彼女にとって風呂とは、薪で沸かすものだ。分からぬのも無理はない。


「手ぬぐいや石鹸の類はその棚に用意してある。何か困ったことがあったら、そこの鈴を鳴らしてくれ。ばあやが浴室の外に待機してくれる」


 親指でクイッと、先ほどから小町達の傍らで待機している和服姿の初老の女性を指し示す安琉斗。どうやら彼女が「ばあや」らしい。

 ばあやは無言のまま一礼するが、その表情は硬く何やらムッツリとしていた。


「じゃあ、僕はこれで。ばあや、二人が風呂を済ませたら、衣装室で適当に見繕ってあげてくれ」

「かしこまりました、若様」


 今度は恭しく、ばあやが一礼する。

 安琉斗はそのまま浴室を後にしてしまった。後に残されたのは、小町と静香、そしてばあやだけ。


「では、わたくしめは、部屋の外でお待ちしております。今、お召しになっている物はそちらの籠へ。身を清められましたら、そちらの棚にバスローブが入っておりますので、それをお召しになって私をお呼びください。では――」


 きわめて事務的にそれだけ伝えると、ばあやも浴室から出て行ってしまった。


「……え、ええと。カーチャン、この風呂の入り方、分かるか?」

「お風呂はお風呂でしょ? さ、脱いだ脱いだ! 久しぶりにオカーサマが体を洗ってあげちゃうよ!」

「って、おい馬鹿やめろ! 自分で脱ぐから!」

「まあまあ、そう言いなさんな! ほ~れ、脱~ぎ脱~ぎ! ……ほほう、相変わらず薄い体ねぇ~。アタシがアンタくらいの時はもっと、こう、バイーンと――」


 何とも姦しいやりとりを繰り広げる柏崎母娘。

 その会話は浴室の外にまで漏れ聞こえ、まだ近くにいた安琉斗を大層赤面させることになった――。


   ***


「こ、これ全部、服か!?」


 風呂から上がった小町と静香は、五ツ木家の「衣裳部屋」へと通されていた。

 部屋の広さこそ浴室と同じくらいだが、壁に据え付けられた棚やハンガーラックには、色取り取りの華美な洋服が所狭しと並んでいる。どれも、小町が今までに見たことが無い程の上物だ。


「――はい。奥様から、こちらのお部屋にあるものは差し上げて良い、と仰せつかっております。気に入ったものがございましたら、どうぞこの私めにお申し付けくださいませ」


 言葉こそ丁寧だが、相変わらず事務的な口調のばあや。明らかに柏崎母娘が気に入らないようだが……小町には、もうそんなことは気にならなくなっていた。母の静香も娘と同じく、圧倒的なに目を輝かせている。

 普段着からドレスまで、いずれも二人の目から見てもそれと分かる一級品だ。戦争が終わって以来、静香の一張羅以外にはボロを継ぎ接ぎしたような服しか着てこなかった母娘にとっては、お宝の山同然だった。


「ん~。なあ、ばあやさん。ここにあるのは女物ばっかりみたいだけど……男物はねぇのかい? オレ、スカートとか穿いたことねぇんだけど」

「ええ~? せっかくだから可愛いの着させてもらおうよ、小町ぃ~。フリフリの~、スカートとか!」

「やだよ! オレ、ズボンがいい」


 本当に幼い頃を除いて、小町は今までズボン(と言っても継ぎ接ぎのそれ)しか穿いたことがなかった。今更、スカートのような女っぽい恰好をするのは抵抗があるらしい。

 そんな小町の様子を見てどう思ったのやら、ばあやは二人に聞こえぬよう小さな溜息を吐くと、棚から何やら取り出し始めた。


「……では、小町様。こちらなど如何でしょうか? 米国で最近流行りのもの、とのことですが」


 ばあやが取り出したのは、細身の黒いパンツだった。サイズは小町に合っているようだが、やや丈が短い。八分丈程に見える。

 後年、とある映画にあやかって「サブリナパンツ」と呼ばれる類のものだった。


「へえ、随分と細っこいズボンだな。しかも丈が短い。こういうのが米国の流行りなのか? 面白れぇなぁ」


 物珍し気に「サブリナパンツ」を眺める小町だったが、悪い気はしないようで、素直にばあやからそれを受け取る。

 ばあやは更に、棚から白い薄手のシャツとベージュ色のコットンジャケットを取り出し、小町にそっと差し出す。


「そちらのパンツ――ズボンは、こちらのシャツと上着と合わせるのが、奥様曰く『通』だそうでございます。お色は他にもございますが……」

「いや、これでいいよ! ありがとな、ばあやさん!」


 ばあやに礼を言いつつ、早速とばかりにバスローブを脱いで、服を着ようとする小町。

 だが――。


「お待ちを! 小町様、まさか下着もお召しにならないおつもりですか?」

「えっ? 下着? そんなもん、つけたことねぇけど?」


 小町の答えに、ばあやは天を仰ぐような仕草をし――今度は聞こえるように大きな溜息を吐いてから、別の棚に手を伸ばした。


「お洋服の下には、必ず下着をつけてくださいませ。服を傷めますし、何より……白いものを着た時に?」


 今までになく優しい口調のばあやに、小町は少し赤面しながら渋々と言った体で下着を受け取るのだった――。

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