2.君の名は
――そして十分が過ぎた。
少女が恐る恐るハンカチを鼻から離す。どうやら、鼻血はしっかり止まってくれたらしい。
「ふむ、血は止まったみたいだな。だが、まだ傷が塞がった訳ではないだろうから、あまりいじらないようにな。じゃあ、僕はこれで」
「あっ! ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
そのまま去ろうとする青年を、少女が慌てて呼び止める。
「ん? 何か僕に用があるのかい?」
「用っていうか……危ない所を助けてもらって、この上等な布切れ――」
「ハンカチ、だ」
「は、はんかち? まで使わせてくれたんだ。何か礼を――」
「いや、助けたのもハンカチをやったのも僕の勝手だ。礼はいらないさ」
青年は、つとめて冷静な表情のまま答えた。そう言えば先程から、この青年には表情の変化というものが乏しいように見える。
「そ、それじゃあオレの気が済まない! いつもカーチャンには『人に親切にされたらきちんとお礼を言いなさい』って、耳にタコが出来るくらい言われてるんだ!」
「ほう、お母上の……。なるほど、それは無下には出来ないな。分かった、じゃあ少し尋ねてもいいか?」
「おう! オレに答えられることなら何でも答えるぞ!」
少女の表情がぱぁっと明るくなったのを見て、青年が少しだけ笑ったように見えた。
「実は、僕は人を探しているんだ。このバラック街に、
「かしわざきしずかぁ? なんだ、そりゃあオレのカーチャンだぞ。アンタ、カーチャンの知り合いだったのか?」
「なん、だと――? それじゃあ、まさか君が……?」
青年の顔が驚愕に染まる。初めて大きく変わったその表情を見て、少女は青年が自分とそれほど歳が離れていないことに気付いた。
「オレがなんだって?」
「いや……それは君の母上にお会いしてから直接話そう。すまないが家まで案内してくれないか?」
「ほーん……? ま、いいや。オレの家はこっちだぜ!」
「あっ、ちょっと待ってくれ」
元気よく駆け出そうとした少女を、青年が引き留める。
「なんだよ? さっさと行こうぜ」
「いや、大事なことを忘れていたんでな。――僕の名前は
「あるとぉ? なんか不思議な名前だな! オレは
***
少女――小町の案内で辿り着いたのは、他のバラックに負けず劣らずのボロ屋だった。
トタンと廃材をパズルのように組み合わせたそれは、建っているのが不思議なくらいに全体像が歪んでいる。だが、一方で扉らしい部分は頑丈な木材を組み合わせて入念に補強してある。女所帯ゆえの用心だろうか。
(……壁を壊されたら意味がない気もするが)
あえて口には出さず、青年――安琉斗は内心で嘆息する。
こういった貧民街の存在は知っていたが、実際に足を運んだのは初めてだ。日本全体が好景気に浮かれている中でも、沢山の人々が戦災の只中に取り残されたままなのだ、と今更ながら実感する。
「ん? どうしたよアルト。さっさと中に入れよ、カーチャンも丁度いるからよ」
「……ああ」
頷きながら、小町の肢体を盗み見する。
ダボダボのボロに身を包んでいるので分かりにくいが、酷く痩せているように見える。安琉斗が事前に知っていた情報によれば、小町は十四歳位になるはずだが、背丈は同い年の女子と比べても大分低い。
恐らくは栄養状態が悪すぎるのだろう。
(世が世なら、この娘ももっと……)
小町に気付かれぬよう心の中で嘆息しながら、安琉斗はボロ屋へと踏み入った。
「カーチャンただいま! 客連れて来たぞ!」
「あらおかえり小町……って、あらやだ。そんな美男子どこで捕まえてきたのよ?」
出迎えた小町の母親の姿を見て、安琉斗は静かに瞠目した。
薄暗く、粗末なゴザの敷き詰められた質素過ぎるボロ屋の中にいたのは、まだうら若い美女であった。
――安琉斗の記憶では、「柏崎静香」は三十を超えているはずだった。だが、目の前の女性はどう見積もっても二十代前半位にしか見えない。
背丈は小町と同じ位しかなく、やはり痩せているが、服の上からでも分かるほど起伏のある体つきをしている。朴念仁の安琉斗でも、色気を感じるほどだ。
「初めてお目にかかります。僕は五ツ木安琉斗と申します。……貴女が柏崎静香さん?」
「そうだけど……あなたは? 初めまして、よね? それにその制服に日本刀。おまけに『五ツ木』って、もしかしなくても五ツ木伯爵家のご縁者かしら?」
「はい。正確には元伯爵ですが……それをご存じということは、やはり貴女は僕が探している柏崎静香さんで間違いないようだ――」
***
――何やら自分を置いて進んでいく母と安琉斗の会話に、小町は少々不機嫌になっていた。
理由は自分でもよく分からない。母親が自分には理解できない話をしているのが嫌なのか、それとも。
「なあなあ! さっきから何の話なんだ? ハクシャクってあれだろ? 昔いたお貴族様だろ。アルトはお貴族様なのか?」
「だから『元』だよ。華族制度はとうの昔に廃止されてる」
「元だろうがなんだろうが、お貴族様の家の子なんだろ? オレ、初めて見たよ。その金色の髪と奇麗な眼も、お貴族様だからなのか?」
無邪気に尋ねる小町だったが、安琉斗は何やら難しい顔をしただけで、その問いには答えなかった。
代わりに、苦い表情を浮かべながら静香に再び向き直る。
「……柏崎さん。娘さんには、何も伝えていないのですか?」
「ええ、まあ。こんな状況で教えても、仕方ないからね」
「……まあ、確かに。でも柏崎さん――」
「静香って呼んで」
「はいっ? ええと……じゃあ、静香さん。その、状況が変わったのです。――娘さんに事実をお伝えしても?」
言いながら、小町を見やる安琉斗。その表情には、どこか気の毒な者を見るような雰囲気があり、小町の心が俄かにざわつく。
一方、母の静香は先程までの柔らかい雰囲気はどこへやら、急に表情を硬化させていた。
「安琉斗くん、それってアタシ達に何か得があるのかしら?」
「……少なくとも今のような暮らしからは抜け出せますが、それが得かどうかは僕には判断しかねます。それにこれは――勅命なんです」
「勅命……? ということは、陛下の!?」
何やら盛り上がり始めた母と安琉斗の会話を聞きながら、小町はまた不機嫌になり始めていた。
どうやら、二人が自分に分からない話ばかりをしているのが気に食わないらしい。
「なあなあ! さっきから何の話なんだよ? カーチャンはオレに何を隠してるんだ? チョクメーとかヘーカってなんだよぉ!?」
「陛下というのは、他ならぬ
「霊皇? 霊皇ってあれか? 昔この国で一番偉かった人のことか? なんでそんな人の命令で、お前がオレ達の所に来るんだよ」
かつて日本の君主であった「霊皇」。それと、貧乏暮らしをする自分達親子が全く結びつかず、小町は困惑した。
安琉斗はそんな小町の様子を気の毒そうに見つめると、気を落ち着かせるようにそっと肩へ手を置き、告げた。
「……小町。君は、元公爵である一色家当主のご落胤――隠し子なんだ。そしてその一色家が、今絶えようとしている。陛下は一色家の後継ぎとして、君をご所望なんだ」
――安琉斗の言葉に、今度こそ小町の頭は完全に混乱した。
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