手折られぬ花のように
澤田慎梧
第一話「ガール・ミーツ・ボーイ」
1.バラック街にて
西暦一九五五年。先の敗戦から十年後の春が来た。
日本は着実に復興しつつあり、焼け野原だった場所にはビルが建ち並び始めた。新聞もラジオのニュースも景気の良さをアピールしている。
――けれども、その復興の裏には沢山の「取り残された人々」も存在した。
首都・東京のそこかしこには、未だにバラック街――いわゆる「掘っ立て小屋」の集まった街で暮らす貧しい人々がいた。
好景気と言っても、全ての人が恩恵を受けるわけではない。戦争で何もかも失った人々が、たかだか十年で全てを取り戻せるわけでもない。
バラック街で暮らすのは、そういった時代に取り残された人々だった。多くの人々が、日雇いの仕事やくず拾いなどで糊口をしのぎ、日々を慎ましく暮らしていた。
しかし、バラック街は人種のるつぼ。戦災孤児や流れ者、傷痍軍人やヤクザ崩れまで、様々な人々が暮らしている。暮らし自体は慎ましいものの、彼らの気質や価値観は様々で、騒動のない日の方が珍しいほどである。
そして今日もまた、何やらひと騒動起こっているようだった――。
「オラァ! 待てやクソガキ!」
「待てって言われて待つ奴があるかよ!」
無駄に広いバラック街の中で、少年が男に追われていた。
男は腰布くらいしか身に着けていない、ほぼ全裸である。髪も髭も伸ばし放題で、山賊さながらの風貌だ。
少年の方もボロをまとっていたが、男よりは幾分かマシな恰好だ。髪はボサボサで顔も薄汚れてはいるが、きちんとした身なりをすれば、きっと愛らしい顔立ちをしている。
「その屑鉄はオラんだぞぉ! 返せやクソガキ!」
「なぁに言ってんだ! 早い者勝ちがここの決まりだろ!? オレが先に見付けたんだから、オレんだろ!」
どうやら二人は、屑鉄を巡って殺伐とした鬼ごっこを演じているらしかった。
やや余裕のある少年に対し、男の方はやや足元がおぼつかない。目もギラギラとしていて必死さがにじみ出ている。
それもそのはず、男はここ三日何も口にしておらず、殺気立っていたのだ。
しかし、男にどんな事情があろうとも少年には関係ない。少年は、界隈の屑鉄拾いの掟に従って「早い者勝ち」を実践しただけなのだ。遠慮する理由は無かった。
だが――。
「あっ!?」
果たして少年に慢心があったのか――それとも運が悪かったのか。ちょうどバラック街の外れまで来たところで、彼はちょっとした地面の出っ張りに足を引っかけて、盛大に転んでしまった。
屑鉄が少年の手を離れ、鈍い音を立てながら地面を転がっていく。
「グヘヘヘ! 追いついたぞクソガキ!」
「くそっ! 離せ! 離せよう!!」
男が追い付き、覆いかぶさるように少年を組み伏せる。痛めつけて動けなくしてから、屑鉄を奪おうというのだ。
ガリガリに痩せているとはいえ、大人の男だ。華奢な少年の不利は明らかだった。
「ふん! ついでに服ももらっていこうか! ちょうど着るもんが無くて困ってたんだ!」
「や、やめ――」
男が下卑た表情を浮かべながら少年の上着を剥ぎにかかる。少年は必死に服を抑えるが、大人の力にはかなわず、胸元近くまで一気にめくられてしまう。
やけに白い少年の腹とへそが露わになり――男はそこで、予想外のものを見た。
「ああん? おめぇ……女だったのか?」
――そう。必死に押さえつけているので大部分はまだ隠れたままだったが、少年の胸は明らかに膨らんでいた。慎ましい、未だ発展途上のそれではあるが、明らかに男ではなく女のものである。
少年は少女だった。
「く、くそ! ジロジロ見んなよ助平!」
「ああ~ん? 馬鹿言うんじゃねぇ。おめぇみたいなガキに誰がムラムラするかって……いや、待てよ。おめぇ、よく見るとキレイな顔してんじゃねぇか。へへ、気が変わった。少し楽しませてもらうとするか」
男の言葉に少年――いや少女の顔色がサッと青ざめる。
未だ色恋も知らぬ少女であったが、男が女にする下卑た行為の存在は知っていた。しかも、今いるのはバラック街の外れ。土方仕事の男衆ばかりが住んでいる辺りで、昼間の今時分は、殆どのバラックが留守のはずだった。
つまり、助けを呼んでも誰も応えない。
「くそ! 離せ! ……離せよう!!」
「ジタバタすんじゃねぇ! この! この!」
なおも抵抗する少女の顔を、男が一発、二発と殴りつける。それでも少女の抵抗は止まない。
男も意地になって、少女の鼻っ柱を殴りつける。鼻血が吹き出すが、それでも少女はジタバタと抵抗を止めない。
業を煮やした男は、遂に少女の細い首に手をかけて力を込め――。
「――おい。そこまでにしておけ、下衆野郎」
その時、バラック街に凛とした青年の声が響いた。
その声につられて男が顔を上げる。少女もその視線を追う。
そこにいたのは――白い青年だった。
青年の体を包むのは学生服――だが、その色は黒ではなく白。学帽までもが白い。バラック街に不釣り合いなほどの清潔さが眩しいくらいである。
更に目を引くのが、青年の髪と眼だ。髪の色はややくすんだ金髪であり、その瞳は碧い。だが顔立ちは西洋人ではなく日本人に見える。かなりの美男子だ。
そして何よりも奇異なのが――青年の手にした棒状の物体だ。それは明らかに、鞘に収められた日本刀だった。質実剛健な拵えの日本刀を、左手に携えているのだ。
「な、なんだてめぇ……?
男が吠える――が、それは明らかに虚勢であった。日本刀を持った人間を前にして、明らかに腰が引けている。
「……僕がこの刀を抜くかどうかはそちら次第だ。その少女をおとなしく開放すれば、このまま見逃してやる。もし抵抗するというのなら……」
青年の声は落ち着いていたが、不思議な迫力があった。まるで魂にまで響くような、不思議な何かが感じられる。
男は青年が本気であることを察すると、「けっ! これじゃぁあ、たつもんもたたねぇや! やめやめ!」等と捨て台詞を残して、そそくさと立ち去って行った――。
後には、少女と青年だけが残された。
「君、大丈夫か? ……女子の顔を殴りつけるとは、呆れ果てた男だ。鼻血が酷いな……しばらくこれで押さえておくといい」
「あ、あんがと……って、こんな奇麗なもんで鼻血なんて拭けないよ!」
青年が差し出したのは、純白のハンカチだった。少女が今までに殆ど見たことがないような、上等の品だ。
鼻血を抑えるのに使えば、二度と使い物にならないだろう。
「いいから。血が止まるまで、しっかり押さえておくんだ」
やや強引にハンカチを押し付けてくる青年の勢いに負け、少女は渋々と言った体でそれを受け取る。
サラサラでつやつやの生地だ。売ればそこそこの金になるだろうなぁ等と思いつつも、仕方なくそれで鼻をつまむ。
乾いたハンカチにたちまち赤黒いシミが広がっていく。
「結構な出血だ。鼻を抑えたまま、十分ほどは下を向いているといいぞ」
「あ、あんがと……」
おとなしく言うことを聞いた少女だが、鼻をつまんでいる上に下を向いたので、「あんがと」の声もくぐもっていて、なんだか気恥ずかしさを感じていた。
男になど全く興味のない少女だが、何だかキラキラと輝いて見えるこの青年を前にすると、羞恥心のようなものが湧いてきてしまうのだ。
青年が懐中時計を取り出し、少女の方へ向ける。どうやら時間を見ろということらしい。
「オレなんて放っておけばいいのに」と思いつつ、少女は自分でもよく分からない感情に流されて、そのまま十分ほど鼻をつまみ続けた。
その間、青年は何も言わずに傍らに立っていてくれた――。
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