第28話『脱走』





 ルイーザが投げた物は煙幕の類だった。


 いったいいくつの煙幕を使ったのか、分厚い煙が瞬く間に広がって視界を白く染め上げる。


「ぐっ……げほっ……!」


 しかも、急に喉が痛み出して咽返り、目にも染みて涙が溢れ出てる。どうやら毒とまでは言わないが、ただの目暗ましではないようだ。


 踏み込んで来た複数の騎士達からも、悲痛と混乱の怒号が飛び交っている。


「がほっ……あ、あんじぇ……っ」


 近くに居るはずのアンジェラの声が聞こえない。こんな状況で怖がっているだろうし苦しんでいるかもしれない。


 僕は彼女を探さがすべく手探りで捜索を始める。


 すると――。


「ごめんなさいね……」


 突如、耳元でルイーザの声が聞こえ、次の瞬間には側頭部に強い衝撃を受けた。


 身体が平衡感覚を失って崩れ落ち、煙幕によって真っ白だった視界に黒色が侵食して行く。


 そして、朦朧とする意識の中、黒く塗り潰されて行く視界で最後に目にしたものは、こちらに向かって振り下ろされる騎士達の拳だった――。







 次に目を覚ました時、僕は地に足が付かない浮遊感の中にあった。


 手首に食い込む痛みと両腕の痺れ、身体が頭上から引き伸ばされるような感覚に、どうやら手枷を嵌められた上で天井から吊られている状態であるらしい。


 さらに、ほとんど開かない目蓋の隙間から辺りを見渡せば、薄暗い中でも殺風景な石壁に囲われている場所であることが視認できた。雰囲気的に、地下牢のような場所に思える。


「うっ……ぐ……ぅ?」


 次いで感じたのは、顔の突っ張りと舌の貼り付きと鉄臭さ。そして、軋みを上げる全身が、異常を告げる激痛をそこかしこから上げている。


「ぐぶっ……ふっ……っ」


 言葉を発そうとして、失敗する。口が動かせないのだ。


 その異常を狭い視界で確認すれば、自分の両頬が鼻先の高さまで腫れ上がってるのが見て取れた。


 どうやら僕は、気を失っている間にも随分と痛め付けられたらしい。


「お目覚めかね?罪人職レナード」


 突如、前方から声がした。


 それは聞き覚えのある声で、確か以前に僕とセリーナを施設長の下まで案内し、僕をアレックスの凶刃から寸でのところで救ってくれた黒服の物のはず――。


「非常に残念だよ。君とは上手くやって行けると思っていたのだが……実は状況が変わってしまってね。他国を通じてアンジェラ嬢の両親からの訴えと騎士団からの横槍で、アンジェラ嬢を誘拐した犯人を捕まえなければならなくなったのだ」


 その誘拐犯が僕ということなのだろうか。


 こちらとしても聞きたいことは山程あったけれど、僕の口はもう使い物にならず、血の混じった涎を垂らして、ひゅーひゅーとか細い呼吸をもらすのみだった。


「今後の君は誘拐の罪で斬首となる。まぁ、経緯が経緯だからアンジェラ嬢の両親は納得しないだろうが、国はその筋書きで押し通すつもりらしい」


 現実感のない理不尽な未来に、僕はただ呆然とするしかない。


「それと、君に面会者が来ている。くれぐれも粗相のないように――」


 黒服は言うだけ言って出て行き、それと入れ替わるように一人の老人が入って来た。


「お前がセリーナの知人かね?」


 大切な幼馴染の名に、反射的に顔が上がる。


「私は医術院でセリーナの教育係をしている者だ。今彼女は謹慎処分を受けている」


 謹慎処分?セリーナが?


「べ、ぃ、ば……ぁ、ぃ……ぉぅっ」


 彼女の安否を確認したくとも、口を塞ぐまでに腫れ上がった両頬と血で貼り付く舌が回らず叶わない。


 しかし、老人は察してくれたようだ。


「安心したまえ、希少な司祭天職者にして国を挙げて推進している医術の分野で表彰まで受ける人材だ。無下には扱われんし、私も決してさせんよ。謹慎はあくまで彼女の身柄を保護するためだ」


 こんな状況で人を信用するのはどうかと思うけど、僕はその言葉に救われた。


「彼女には才がある。本来、長年の修練と経験が必要な医術を天職による補正とスキル効果のみでやって見せたのだ。彼女はいずれ医術を大きく発展させるだろう。私個人としても医術分野の遺産を彼女に継承させようとも考えている」


 老人の興奮振りから、セリーナを高く評価しているのは本当なのかもしれない。


「だから、だ――」


 老人がここまでの空気を断ち切るように言った。


「セリーナの将来のためにも、この国の医術の発展のためにも、お前にはセリーナから離れてもらいたいのだ」


 いや、離れるも何も、このまま行けば僕は斬首刑となると聞いたのだが……。


「ああ、もちろん筋書きは聞いている。しかし、それで実際にお前が処刑されたとなれば……セリーナも後を追いかねん」


 その絞り出すような声からは、老人の苦悩が伝わって来るようだった。


「私もセリーナ本人から話を聞くまでは、まさか司祭候補が犯罪天職者などを……と思ったのだが、あの様子では確実にやるだろうな……」


 老人の怯えすら含んだ呟きに思う。セリーナはいったい何と言ったのだろう。


「そんな話の性質上、一から各所に話を通していたのではお前の斬首の執行までに間に合わん。だから、お前を逃がすことにした――」


 そう言って、老人が壁に寄って何かを動かすと、引っ掻くような金属音と共に吊るされていた僕を床に下ろしてくれた。


「ぃぎっ……ぃっ」


 だが、散々に痛めつけられた身体では、自分で立つことさえできずに崩れ落ちる。


 すると、老人が駆け寄って来て――。


「ふむ……骨折、裂傷、打撲に火傷……爪も剥がされているな、こりゃ酷い」


 自分のことながら聞いているだけで痛々しく、できればいちいち言わないでほしい。


「止むを得ん、この霊薬を使うか」


 それは、一時的に痛みを無くして腫れを引かせ、運動能力まで向上させる薬だと言う。


 正直、そんな物を口にして大丈夫なのかと不安になるが、身体の動かない僕に拒否権は無く、口の隙間から流し込まれた。


「あ、あ……ありぇ、いだぐ、なぃ……?」


 薬は即効性だったようで、頬の腫れも半分程に引いて口が動かせるようになった。


「薬の効果はあまり長くない。疑問はあるだろうが、今はここを逃げて生き延びることを考えるのだ。私も施設長も、さすがにこれ以上の手助けはできん」


 どうやらこの企ては、この老人と斡旋施設の施設長によるものらしい。


 確かに、施設長ならば僕とセリーナが知り合いであることも知っている。


「あぃがど、ごあぃまぅ……せぇりぃ、な、を……よぉひぐ……っ」


 僕は老人にセリーナのことを頼み、深く深く頭を下げた。


「分かった分かった、もう行け。彼女のためにも死ぬんじゃないぞ」


 最後に痛み止めやら解熱剤やらの薬を渡してくれ、老人はこの石壁に囲われた部屋の出口を開けてくれた。


 外に出て分かったが、僕の囚われていた場所は斡旋施設の地下牢であったらしい。


 施設の出入り口にはいつもの警備兵の見張りも居らず、本当に逃がしてくれるつもりのようだ。


 僕は施設から駆け出て早々に、盗賊のスキルを発動させて夜闇に紛れながら貧困街からの脱出を試みる。


 さすがに飛んだり跳ねたりはできないため、小走りで貧困街の裏道を駆けて行き、しばらくすると、もう夜だと言うのに背後からけたたましい鐘の音が響いて来た。


 夜空に、ゴーン、ゴーン、という轟音が響き渡る。


 これについての説明は受けていないが、おそらく僕が脱走したことを知らせる鐘の音なのだろうと思う。


 僕は焦りながらも、薬の効果で身体が動く内に遠くへ行かなければと身体を動かし続けた――。







 そうして、どれだけ移動しただろう?


 行き先など考えずに路地裏から路地裏へ、とにかく遠くへ行くことをだけを考え足を動かし続けた。


 もうここは貧困街でもなければ隣接する倉庫街でも下町でもない王都の中心街付近。


「う、ぁ……っ」


 薬の効果が切れてきたようで、全身に耐え難い痛みが走り意識が朦朧とし始めた。


 しかし、それでも、行く当てのないはずの僕の足は、確かな方向を目指して王都の路地裏を進んで行く。


「ぅあ……ぅぁが……っ」


 そう、歌。歌が聞こえるのだ。


 店が閉まり人通りが消え寝静まった王都の街に、祝いの夜にセリーナと共に聞いた懐かしの故郷の歌の音が――。


 最初は霊薬により強化された聴覚がそれを確かに聞き取ってアンジェラかもしれないと思ったのだが、現在聞こえている物は幻聴かもしれない。


 今では他に行く当てもない身体が、故郷に帰るが如く無意識にそちらへと進んで行く。


 そして、霞掛かる脳裏には、これまでの旅路が思い出される。


 故郷から王都までやって来て、途中で様々なトラブルに見舞われながらも今日まで良く生きて来れたと思う。


 やはり、僕は幸運だったのだろう。


 だから、その帳尻を合わせるように、今回は誘拐犯役というジョーカーを掴まされてしまったのかもしれない。


 ならば仕方がない――と自然と諦観の念が浮かんでくる。


 そして、ついには身体の方も限界が来て、僕は路地裏の地面に倒れた。


 耳には、さっきよりも近くなった歌が聞こえている。


『~~♪』


 僕は意識を失う瞬間まで、その懐かしの歌を聞いていた――。




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