三十二、天万
昼下がりの車内は人もまばらで、コトン、コトン、と連結部の度にかすかに振動するのと同じ温さの静けさに満ちている。日差しがどうにも心地よい。
円環をずっと廻っていられたらいいのに。
そんなことを微睡みながら思った。ぐるぐる、ぐるぐる、環状線は悠久に回り続ける。そんなはずはないけど。悠久も永遠も、ありはしない。少なくとも人工物には。人間が作り出せる程度の物なんて、きっとそうだ。
永久に継続するものなんてない。地球だって宇宙だって、いつかは潰える時が来る。――らしい。本当のことは知らない。本当だと言われていることが本当であるとは限らない。真実が真実である証明は真実にしかできない。つまり、真実を真実だと保証するもの、それ自体がまず真実であらねば真実は真実たりえないということ。真実を証明する真実とはなんだろう。真理、と呼ばれるものだろうか。
では真理が真理であることはどうやって判明する? それもまた、真理が真理であることを保証する真理によってだろうか。堂々巡りだ。その理論には果てがない。つまり、永遠。
だからきっと永遠はあるのだろう。天の神様みたいにあるのだろう。誰にも届かないところで、誰にも触れられないままに。
宇宙みたいだと思った。
銀河の写真を見たことがある。ビッグバンだとかブラックホールだとかについて書かれた一昔前の科学雑誌を読んだことがある。木星だか火星だかの映像をモニター越しに見たことがある。宇宙とか、原子だとか、素粒子だとか、遺伝子とか進化とか、一般人にも分かりやすいように色々端折って単純化しているのだろう説明をしている偉い先生の言葉に耳を傾けたことがある。全部ハッタリだ。
それは、その人が辿り着いた本当の事かもしれないけれど、本当に本当のことかはやっぱり分からない。人間は知ったかぶりだ。あれもこれも解明して分かった気になる。自分に見える世界なんて、たかが知れてるのに。
そういう人が間違っているとは思わない。どんどん追及して、究明して、多分きっと数えきれないくらいの実験や実証を繰り返して、飽き飽きするほどトライ・アンド・エラーに挑んで、諦めないで探求し続けている。それって凄いことだ。凄まじい執念だ。だから、偉い人はやっぱり偉い人で間違いない。
でもやっぱり、分からない。どうして電車の振動はこんなに眠気を誘うのかとか、どうして車窓からの陽光はこんなにも心地いいのかとか、お日様はどうして温かいのかとか、温もりは感じられるのにどうして触れも見れもせず実体が捉えられないのか、とか。多分、博識な人に尋ねたら理路整然と納得のゆく説明を受けることは可能なのだろうけど、そういう言語化された理解と、体で感じて心にストンと落ちてくるものとは、全然、近くて遠くて果てしなく遠い。それこそ、永遠くらい遠く隔たった違うものだ。天の神様と、絵の中の聖母やイエスくらい違っている。
……イエスは神の子で神様じゃないんだっけ。
詳しくは知らない。クリスチャンではないから、キリスト教の教義がどんな体系で神様って結局誰のことなのかなんて知らない。父はカトリック系の孤児院で育って旧約聖書も新約聖書も持っていたけど、クリスチャンではなかった。古事記が好きで、奈良が好き。でも、別に仏教家なわけでもない。仏教家なんて言葉があるのか知らないけど。天台宗も真言宗も禅も念仏踊りも区別がつかないし、ゴータマシッダールタも観世音菩薩も美音天も
多分、現代日本に居がちな無神論者ですらない無信心者。神様仏様と口走ったり南無阿弥陀仏を唱えて柏手を打ったりするタイプ。
天の神様なんて言っているけど、神様が天上におわして我ら人類を見守っているだなんてことはさらさら本気で思ってはない。でも、それに近い何かはあると思う。宗教家が神様と呼ぶもの、それは哲学者が真理と呼んでいるもので、科学における公理みたいなもので、けど絶対唯一なんてガチガチのものなんかじゃきっとない。ような気がする。
気がするだけ。
気がするだけだ。
本当に本当の事なんかわかりはしない。分かる程度のことは本当に本当の事じゃない気がするから。気がするだけ、だけど。
多分、真実とか真理とかっていうのは、スピリチュアルな人が言う幽霊だとか気だとか怨念だとか魂魄だとかに近くて、でも全然違うもっと全体で曖昧で茫洋として稀薄で濃密なものだと思う。柔軟で強靭な、とろとろした蜂蜜みたいなもの。
なんて思うのは、そろそろ窓から射しこむ光が西日に変わりつつあって、なんとはなしに甘くて豊かな黄金色に染まろうとしているからかもしれない。
随分長く揺られていた。殆ど眠っているのに近い状態で、夢うつつに好き勝手思考を遊ばせていた。
こういう時間が好きだ。こういう時間だけでいい。そう思う。そうであればいいのにと願う。願いと言う程、強くはない、もっとふわふわした感傷だから、祈りという言葉の方が近いかもしれない。だとしたら、まったく馬鹿だ。
祈りは、嫌いである。
違うか。
祈る人間が嫌いなのだ。
まだ違うな。祈ればいいと考えている人間が嫌いだ。
まだ齟齬がある。つまり、つまり……、
祈りに縋る人間が、いやむしろ、祈りに逃げる奴が嫌いなのだ。
多分それが一番近い表現だろう。本気で信じて祈祷している人のことは恐らく嫌いではない。そうやって、交霊ができるとか、神に通じるとか、心の底から信じて行っている人は、それはもうその人の自由で勝手だと思う。傍目に滑稽でも、ちゃんちゃらおかしくても、狂気の沙汰でも、本人が信じてやってることなら別にいい。
もしくは全然本気じゃなかったとして、他人を騙して金銭を巻き上げるためだとか、思い込みの激しいタイプの人に崇め奉られて高慢な気分を味わいたいからだとか、そういう目的がはっきり自覚されているのなら、それもそれで構わない。良いことだとは思わないけど。自分が巻き込まれない限りはひとまず勝手にしてくれと思える。どこかで誰かが殺人を犯したり強姦したりするのと同じで。遠い場所で飢え死にする人やエイズにかかる人や戦争する人が居るのと同じで。ほんとは認めちゃいけないんだろうけど、熱心にどうにかしようとは思えないし、兎にも角にも、嫌いでは、ない。
嫌いなのは、祈りに逃げる人。本気では信じていないくせに、祈ればどうにかなるなんて、神様だか仏様だか聖者様だかが救いの手を差し伸べてくれるだなんて、本当は思っていないくせに、誰かを騙すためじゃなく、自分を騙して祈る人。そうやって、それでいいんだと、信じようとする、信じきれない、信じたふりをして祈る人。
それは嫌いだ。
イヤらしい。浅ましくて醜い。不愉快だ。
嫌悪する。侮蔑する。忌憚する。
ああ、違う。これもやっぱり、少し違う。祈るだけなら別にいい。それが逃避だろうが自己満だろうが知ったことではない。やはり、個人の自由だと思う。嫌なのは、祈りを見せつけられること。自己アピールされること。
私は祈っています。善なるもののために。善であるために。善良な世界を願うために。善人であるために、祈りを捧げているのですよ。だから、さあ、あなたも善になりなさい。私の祈りに応えなさい。
それだ。『善』でも『神』でも『真理』でもなんでも構わないけど、つまり祈っている姿勢を見せて応答を求める、そのやり口が気に入らない。そこで言う善、もしくは神とか真理とかは、実のところ自身の都合に過ぎず、自身の願望に過ぎず、それを口当たりよい耳障りよい言葉に挿げ替えて、善意なふうを装っているのが気に入らない。それで結果を求めるのが気に入らない。結果が欲しいなら、結果に至る過程をなせばよいのに、過程を怠けて祈りで済まそうという狡猾さが気に入らない。
気に入らない。
要するに、嫌い。
大嫌いなのだ。
嫌いという感情を分解してみる。それは不快感だとか不満だとか憤りだとかの集合体だ。そういう感覚の積み重ねが、嫌いという事象を結ぶ。結実する。
だから嫌いという感情を解決するには、不快を除き、不満を満たし、憤りを……憤りはどうすればいいのだろう? 発散すればいいのか? それは、対処療法的で根本的解決と思えないけど。
根本的解決。それは、不快にせよ不満にせよ憤りにせよ結局はひとつだ。原因の消去、もしくは改善。ここで言う善は飽くまで自分にとってよい方向、という意味の、言い換えれば変化だ。
変えればいい。嫌いなものは、嫌いじゃないものに。単純なことだ。
理屈としては。
理屈では単純明快簡単なことでも、実際となると難しい。祈る人が不愉快だからと、祈りをやめろと言うのはそう難しくないけれど、祈る姿勢を、その性質を、変容させるのは容易じゃない。人間はそう単純ではない。
ああ、だから、祈るのか。祈って、どうにかしてくれるのを願うのか。でも祈りでどうにかなるとは信じきれないから、祈りを利用して狡猾な手段で変化を求めるのか。意志表示。それは心底祈りを信じて祈っている人のそれよりもよほど具体的方策かもしれない。
そう考えれば……、いや、無理だ。そう考えたとて腹が立つ。イヤらしい。気持ちが悪い。許し難い。
それで、
立ち向かい切れない、嫌いなものを嫌いなものじゃなくする努力をできない怠惰で狡猾で情けない自分は、逃げ出した。物理的に。祈りでこそなかったけれど、実際のところ似たようなもんだ。同じ穴の狢である。祈りに対する嫌悪は同族嫌悪とか同類嫌悪とか呼ばれる種類のものかもしれない。
延々、回り続ける環状線で揺られ続ける逃避をした。
私は今、家出中だ。
家出なんて言っても、ただ電車に乗っているだけだ。それもぐるぐる廻る環状線。遠出にすらならない。
理由は簡単。遠くへ行く資金がないからだ。食事をしたり、日用品を買い揃えたり、ホテルに泊まったり、そりゃあ数日か数週間程度ならできなくもないかもしれない。でも、それがなんだって言うのだ。尽きたらしまいだ。その間に見知らぬ土地で履歴書こさえて就職できるほど器用な人間ではない。そんなことができるなら、もうとっくに中学生か高校生の頃には家出して自立していただろう。母が嫌いなのは今に始まったことではない。
祈っているのは母親だ。たった一人の女親。当たり前のことだけど。一人の女親に、一人の男親、が一般的だと思う。離婚だ再婚だ同居人だ間男だゲイだバイだと違う環境にある人も居るかもしれないが、大多数はそうではないはず。
我が家は父、母、娘の、最小に近い核家族だった。核ってなんだ。誰のことだ。少し思うけど、今は置いておこう。
家に帰ると、母は祈っている。勿論いつもではない。大抵は買い物に出かけていたり夕飯の支度をしていたり、パートに出ていたり洗濯物を干していたり、近所の人と話していたり回覧板を回していたり、たまに派手な模様替えで家中とっ散らかしていたり、まあそういう普通の主婦らしい日常を過ごしている。
祈りの時間は概ね昼過ぎが多いらしく、たまに朝一や夕方のこともある。出くわすことは多くない。少なくもない。
出くわすと、居た堪らない。
反吐が出るとはこういう気分を言うのだろう。不快の余り吐き気がする。怖気が立つ。きぃぃいいいやぁああああぁぁぁとか、気狂いじみた奇声をあげて暴れてみたくなる。
彼女の祈りは喧しい。
黙祷ではない。十字を切ってアーメンとは言わないし指を汲んだりもしない。クリスチャンではないからだ。かと言って東だか南だかに向かって立ったり座ったりを繰り返しながらアッラーに祈るわけでも、勿論ない。あまり日本人でヒンドゥー教とかイスラム教とかを信仰している人に、少なくとも自身はお目にかかったことがない。無論、祝詞を上げているのでもない。神主以外にそんなことができる人を、やっぱり少なくとも自分は知らない。
分類するなら仏教だ。仏壇があるし、数珠を垂らしている。祈りは
仏教徒でもないくせに、笑わせる。
飽くまで私見に過ぎないが、彼女は仏教徒ではない。彼女の仲間たちも、恐らく。同じ宗教をして、座談会などと呼ばれる勉強会を披いてはいるが、その集団を仏教徒だとは感じられない。どうであれば仏教なのか、ほんとのところは知らないし、お釈迦様がどうだとか念仏の意味はどうだとか言っているから、それはやはり仏教で間違いないのだろうけど。
それを、新興宗教だとすることは、多分幾らか間違いなのだろうし、方々からクレームを受ける発言なのだろうとは思うから、言い切りはしないけれど、ものすごくそれに近いと感じる。少なくとも自身の母に限っては、仏教徒ではなく新興宗教の信者みたいなものだ。
縋っている。
自身に都合のいい教えに。
その真偽など問うてはいない。道を追求してなどいない。
たまたまいくらか新興宗教よりはましな仏教の一宗派に属する宗教を選べただけで、ただそれだけのことで、ほんとは仏様でも神様でも霊能者様でも教祖様でもなんでもよかった節がある。自分を満たしてさえくれれば。
宗教なんてそんなもの。と言ってしまえば、その通りだろう。生きる寄る辺が欲しいのだ。正誤を決める指針が欲しい。それが法律か政論か経典か四方山話か、多分その程度の違いしかない。それは、わかる。
人間は弱い。愚かで、怠けものだ。仏教を信仰したとして、そこで真理に至るため悟りを拓かんとするのはごく一部だ。多くは、説法を聞いて、感銘を受けたり分かったような気になって、それで十分。衆生は救済される。極楽浄土に行けずとも、行ける気になって輪廻を信じて最期を迎えることもできよう。そのために日頃の行いを改めもしよう。それでいいではないか。そうも考えられる。
偽善だって善である。それもまた、嫌いな論ではない。
ではなぜ、彼女の勤行はこうも不愉快なのか。
信仰していないからだ。信じているふりで縋っているだけで、縋って助かりたがっているだけだ。
でも、そんなの別に彼女だけじゃない。大半の人は仏に拝もうが神を崇めようが、それが実在しているとは考えていないだろうし、慈悲も免罪符も本当に、つまりここでいう本当は物質世界の物理的な意味で、自分を救ってくれるとは信じ切れていない。それでも助かりたくて祈る。幸せが欲しくて願う。
その、理屈は分かる。理屈の上では、彼女を責める道理はない。自身の中を探し回ってもそうなのだ。でも、度し難い。
なぜか。
多分、本気で助かりたがっていないからだ。本気で助かりたかったら、他にもっとやるべきことがある。やれる手段がある。それを怠けて、ズルして助かろうという浅ましさ、本気の努力も出来ないくせに他者に影響しようという醜さが疎ましい。
けど、それだって、人間はそう実直に勤勉にばかりあれるものでないことを知っている。自分だってそうだから。それはもう、既に考えたことだ。
堂々巡り。
永遠が広がっている。
母と娘の間隙。永久に悠久に埋まらない溝。
唯一の橋渡しは父で、しかし父も父でちょっとどうかしている類の人だと思う。最近、少しずつ気づき始めた。
まるで外国人みたいだと思う。自身の良識と、父の良識が、実は全然違う可能性に。子供の頃、あんなに大好きでお嫁さんになるのだとまで豪語した相手である父が、異邦人のように異星人のように思える。分かり合える気がしない。討論する気勢も削がれる。諦念と侮蔑。
自分が間違っているのか。相手が間違っているのか。多分、どっちもだ。正解しかない正しい人間なんて、知る限りでは居ないのだもの。だけど相手を見下してしまう自分は、だから家族の誰より怠け者でズルっこい。
家出のひとつもできないくらいに。家出のつもりで環状線をぐるぐる回ってしまうくらいに。そうして項垂れて家に帰って、水道光熱費を払わずシャワーを浴び、母の手料理よりスーパーのお惣菜の方が美味いと喜びながら食い散らかし、皿を運びもせずに父と談笑しながらテレビを見て、一度も自分で干したことのない布団で眠るくらいに。
グズグズに腐っている。母の祈りより、車内を満たす西日の蜂蜜色より、コトン、コトン、と温く繰り返す振動より、喉を灼く甘さで際限もなく腐敗している。
そんな、詮無い事をだらしなく考えるうちに、いつしか円環は尽きていた。
環状線内回り。
それが悠久に廻り続けないことなどハナから分かっていた。
何故なら終電というものがあるからだ。駅舎はコンビニではない。二十四時間は営業しない。終電があり、始発がある。その間は休業期間だ。終日禁煙の文字の『終日』の意味を勘違いしていたのは小学生までだ。ちゃんと知っている。
が、まさか終電を待つまでもなく、環状線という出口のない円環が終わることがあるとは知らなかった。
世間知らずなのだ。別にいいとこの子という意味ではない。母が過保護で、且つ自身に抗う気概がなかったから、あまり電車に詳しくないのだ。切符の買い方も知らないご令嬢なわけではない。路線図を把握している程、自身の足で、意志で、電車に乗って出かける経験をしていないというだけの話だ。
環状線には出口があった。
営業中、ひたすらぐるぐる回り続けるのがここを走る電車の宿命ではなかったらしい。別の路線に切り替わることもあるのだ。
知らなかった。
知らずに、気づいたら円環から放り出されて隣の県まで運ばれていた。
聞き覚えのある駅名が聞こえたので顔を上げたら、そうなっていた。環状線内にはないはずの、他県にあるはずの駅名。聞き間違いではなかった。びっくりしながら、降車した。
聞き覚えがあるくらいだから来たことはあるのだ。きっとその時には地元の路線から環状線に乗り継いで、今いる路線に切り替わる電車に乗ったはずだろう。しかし、ちっとも覚えちゃいなかった。そういう性分なのだ。誰かが連れて行ってくれる時に、その道順を自分でも記憶しておこうとはしない。前に来たのは学校行事でだった。
水族館に行ったのだ。遠足というやつだ。
人見知りで内弁慶という、いかにも一人っ子にありがちな性格の悪さを備えた十代の娘が友達を作るのは容易ではない。クラスには一人しか居なかった。それも、淋しさを紛らわすためにつるんでいるだけで、別に心底仲が良かったわけではなかったのだろう。その証拠に、友達は前置きもなく遠足をズル休みした。
お陰様で孤立した。
孤独は嫌いじゃない。なんて、強がりを言えるくらいなら無理に友達を作ったりしない。一人は不安だ。大勢で居ても不安だけれど、大勢ならば流されることができる。どこへともなく運ばれて、判断を人任せにしたくせにそこで毒づく身勝手はお手軽で楽ちんだ。そうやって委員会とかグループワークとかをやり過ごしてきた人間に孤立は堪らない。
居ない相手を罵りながら、不安を押し隠して群の最後尾を着いて行った。ちっともいい思い出ではない。が、それは目的地に着くまでの話。水族館に着いてからは、一人で十分楽しんだ。好きなだけクマノミを眺めていられたし、何度も暗闇の中で目の下がギラギラ光る銀色の魚の水槽の前を行ったり来たりできて、キツネによく似たキツネより可愛い気がするフェネックを延々愛でていられた。連れが居たらこうはいかない。散々堪能して、帰路はまったく記憶がない。集合時間に間に合ったのだろうか。お土産は買わなかったと思う。どうやって家に帰ったのだったろう?
回想が尻切れトンボに終わったことを、暈けた頭で不思議がりつつ、改札を出た。当然に乗り越しを機械に注意され、ろくに中身のない財布から追加料金を払った。中身が少ないことよりも、子供じみた財布の
十九歳は大人か子供か、なんてことはどうだっていいけれど、自身は間違いなく子供だった。成人していない。成熟していない。自立していない。自助努力すらままならない。
学生時代、ブランド物の財布やカバンを持つ級友が羨ましかったのを思い出す。
ブランド物を持っているからエライ。そんなことはもちろんない。ブランド品だから価値がある。そんなことも恐らくない。ブランド品には価値があるかもしれないが、それはブランド物だからではない、価値あるものがブランドを纏うのだ。そうした理屈を考えて、だからブランド品なんて欲しくないと結論付けてみたけれど、それは真っ赤な嘘だった。そもそもその結論は飛躍している。ちゃんと連結していない。
しかしだからと言って、ブランド物をもつ子たちが羨ましい理由も考え付けなかった。欲しい理由も分からなかった。今は、少し分かる。羨ましかったのは彼女らが堂々としていたから、欲しかったのは自分も胸を張りたかったから。ブランドという虚構の価値を借りてでも、自信を持ちたかったのだ。と同時に、その浅はかさも理解していた。だから否定したくて分からないふりをしたのだ。
無駄にプライドが高い。
それは矜持とか傲慢さとかいうものではなく、自尊心ですらなく、見栄っ張りな自意識だろう。そんなものを小さいうちから育てて後生大事に抱えているから、友達の一人もまともに作れやしなかったのだ。
はぁ、とため息が出そうになる。ムッと唇を結んで
溜め息を吐くと幸せが逃げる。
信仰は持ってないし幸せが何かもわからないけど、そういうジンクスには弱い。本当だとは思わないまでも、絶対嘘だという保証もないから、ひとまず幸せが逃げちゃわないように溜め息を堪えてみる程度には。
改札を抜け、駅を出ると、いきなり砂浜だった。
そうだった、と思い出す。
気分が明るくなった。
駅名を聞いて降車したのは、何も環状線を外れていて慌てたせいだとか、聞き覚えのある地名だったからだとか、それだけではない。好きだからだ。
遠足の思い出はあまりいい思い出ではないけれど、場所の思い出は好ましいものだった。水族館のお陰ではない。砂浜だからだ。
私は砂浜が好きだ。
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