三十三、天万・2

 月は高く昇っていた。遠くて形がはっきりしない。満月かもしれないし半月にも見えなくはない。あまり視力が宜しくないのだ。

 月が高く遠いせいで、あまり明るい夜ではない。

 しかし闇夜でもない。現代日本に闇夜が存在するのか知らないけれど。田舎の方ではまだ夜は真っ暗ケッケの烏の濡れ羽色なのだろうか。そこまで田舎で暮らしたことがないからわからない。別に都会人でもないけど。中途半端な市街地育ちだ。

 ここもけしてド田舎ではない。当たり前だがすぐそこに駅があるし、電車が通っている。大きい建物や広い道路があるのも知っている。田園風景もない。でも、空が広い。

 海のせいだ。

 砂浜の向こうに海がある。

 当然か。海のない砂浜は浜ではなく砂漠だ。

 海は滔々と揺らいでいた。黒く見える。夜だからだ。空より濃い、黒色をしている。空はほんのり藍色がかっている。群青ほども明るくない。ウルトラマリンブルーの絵の具の色。空のくせに。海は墨汁色。ちらちらと波頭に月明かりだか町明かりだかを浮かべている。漂う光。泳いでいる。くらげみたいに。

 くらげは水の母と書く。もしくは海の月。海の月はわからなくもないけど、水の母はよく分からない。どうして水の中を漂っているものがその母たりうるのだろうか。水の子というなら分かるけど。でも水子じゃ意味が違ってくる。

 唯一、親友と呼べる子の顔が浮かんだ。親友と呼べるのは自分にとってであって、彼女にとっての自分は親友ではないと思う。友達の一人だとは思うけど。彼女が水子を出した時、何もしなかった。水子参りに行こうとか、そんなことをフッと思ったくらい。実行はしなかった。いかにも酔いしれているふうなのが気に食わなかった。自らの浅ましさに気づかずにおれなかった。かと言って慰めのセリフも思い浮かばず、そばに居てくれと言われればそばに居るくらいしただろうけれど、それほど頼りにされもしなかった。

 過ぎたことだ。

 他人の不幸で感傷に浸ることほど醜悪なことがあるだろうか。

 嫌いだ。そういうのは、特に。だから、母が嫌いだ。心底。

 考えるのをよした。目の前に好きなものがあるのに、嫌いなものを考えるなんて、自虐が過ぎる。

 滔々と揺らぐ海。黒い水。存在感の乏しい星月。潮の匂い。潮騒のうねり。ぬるい夜風。砂の感触。

 クツは駅の近くで脱ぎ捨てた。今頃ゴミになっているかもしれないし、後で回収可能かもしれない。親切な誰かが交番に持っていくかもしれない。どれでもよかった。

 帰ることをまったく考えていないわけではない。所持金の心配もそれなりにしている。少女漫画のヒロインみたいに、例えば森を彷徨って怪我をして動けなくなっても、素敵な王子さまや小人や妖精が助けてくれるまで、腹の虫も鳴かず糞尿も垂れ流さず、綺麗なままで居られるなんて幻想は抱いていない。まずそれ以前に美人じゃない。モデルやアイドルなら万が一、人形みたいに劣化も排泄もない生き物の可能性もあるかもしれないけれど、自分はそうではない。その程度の自覚はある。

 醜形嫌悪、と言うのだそうだ。己を醜い、みすぼらしいと信じ、厭うことを。

 でもそれは、そうでもないのにそう思い込んで自身を苦しめている人のことだ。摂食障害の人が痩せても痩せても、傍目にはガリガリで魅力さえ削ぎ落したような惨めな状態になっても、まだ太っている、痩せなければという強迫観念にとらわれるのと同じで、醜形嫌悪というやまいの患者と呼べるのは、美人ではないというのは事実にしても取り立ててブスでもないのにブスだと思い込んでしまった人のことだ。本当にブスだったら、ブスをブスと感じて厭わしく思うのに誤りはない。

 まあ、ブスを下劣で醜い下等なものだと捉えるのは、認識として正しいと言い切れないかもしれないけど。

 でも美男美女の条件は、突き詰めれば遺伝子の美しさだという話を聞いたことがある。異常がない、欠損がない、優れた遺伝子。それが外観上に表れたものを、人は美しい顔だ、美しい肢体だと認識する。だったら、美人がエラくてブスはしょうもないというのも、生物的には間違っていない判断だ。生き物は優れた遺伝子を次世代に残す、繁殖のために生きて死ぬのだから。文明的思想的人間的道徳的倫理的にどうであるにせよ、ある一元でそれは事実だと思う。

 だから、子供が欲しいとは思わないのだろうか。ブスだから、遺伝子的に劣化しているのが明白だから、次に繋ぐべきではないと認知して生まれた目的を放棄しているのだろうか。

 だとしても、生きられる。それこそ文明やら倫理やら社会やらが許してくれる。生殖のために生きるなんて原始的だとむしろ糾弾するくらいの勢いで許可してくれる。社会参加者としては落第者の烙印を押しつつも。

 変なの。

 男とか女とか性欲とか性愛とか、中性とか無性とか両性とか同性とか貞淑とか淫奔とか、ぐずぐず考えるのなんて人間くらいだ。クマノミは性転換するしアメーバは単体生殖する。松の木の雄株と雌株は引っくり返らないし、女王アリは飛翔しながら乱交する。

 くらげは……、

 くらげの繁殖の仕方は知らないなあ。

 そんなことを、乾いた砂を踏みながら思った。そもそも、理科は得意じゃない。生物の授業はちんぷんかんぷんだった。五臓六腑と言うけれど心臓と肺と胃しか場所が分からない。あと、大腸と膀胱も一応わかるか。これで五臓? 多分違う。

 砂は昼間の熱を残してまだ温かい。サクリ、サクリ、足の裏が沈む度、ふんわりと熱を放出する。気持ちいい。夜風も、潮気が混ざって少しべたつくほかは概ねいい。夏には遅く、秋には早い季節だ。家出にもってこいかもしれない。

 斜めに下げた青いカバンは、ピンクの小花が散った布製で、言わずもがなノーブランドの、セレクトショップとすら呼べない雑貨屋で買った代物だ。いかにも貧乏くさい。でも、ちょっと気に入っている。自分で買ったから。高校生の頃、友達と一緒に選んだから。

 ほんとにそうだろうか。

 駅に置いてきたクツだって多少は気に入っていた。くるぶしのところでクルクル巻く合皮の紐が可愛いと思って。ベージュ色のサンダル。麻で包んだウェッジソールの。母がくれた。多分、誰かのお下がり。中流家庭と呼ぶのはおこがましく、かと言って貧乏と明言するには気合の足りない、中の下、もしくは下の上寄りのしみったれた家庭に温情でものをくれる知らない誰かの贈り物。

 母にはたくさん友達が居る。宗教絡みの。

 全員が全員、信者というわけではない。そもそも、母を信者と呼ぶことに抵抗がある。感情として認めたくないという意味ではない。信者とは、もっと狂信的だったり敬虔だったりするものではないのか。あれではただの互助会だ。そういう、感触の問題。まあでも繰り返しそこをほじくっても仕様がないから、信者と呼ぶことにしよう。

 彼女の友人のすべてが信者というわけではない。でも、繋がりはある。信者の誰それの友達の誰それ、とか、信者の誰それの旦那の親戚の誰それ、とか。知り合いの知り合いのまた知り合いとかそういう具合に、繋がっている。

 そうなると、友達の友達が自身の友達とは必ずしも呼べないように、その友人知人も『宗教絡み』とは言えないのかもしれないが、元を辿れば宗教に行きつく、そういう友達ばかりが、母には居る。それ以外は多分居ない。せいぜいご近所さんくらい。それだって付き合いのある相手は同じ宗教に属していたりする。その程度には広く信仰されている宗派なのだ。新興宗教とは一応違うとする所以である。

 自身の知る限り彼女にママ友は居ない。そういう言葉の流行る以前の子育て世代というのもあるが、言葉はなくとも形態は存在しただろう。母親同士のコミュニティ、友達付き合いが、かつては存在しなかったなんてこと、あるとしても母よりもっと前の時代の話だろう。

 しかしこれは多少なり弁解の余地がある。母娘は同じ干支の生まれだが、母が第一子を出産したのは二十四の歳ではなく、さらにもう一回りした三十六歳の時のことだからだ。それ以前も妊娠はしたが流産したらしい。ようやく得た一粒種、と女の子供にも言うのかは知らないけれど、ともあれそうだったのである。だから、我が子の同級生の母親たちとはちょっと世代が違っていた。

 とは言え、何人も子供を産んで一歳児を抱えた四十代だって居なくはなかったろうから、全く仕方のないことだったとも言えない。それでもまあ、多少友達作りがしにくかったのは否めないところだろう。

 けれど、のみならず、母には友達が居なかった。専業主婦の時代もあったがパートに出ていた時期もある。しかし職場で友達の輪を広げることはなかったようだ。そういう人を紹介されたことがない。瀬戸内海を渡って上京した人だから学生時代からの友人と言うのも居ないらしかった。

 この親にしてこの子あり。人付き合いが苦手なのは母も同じだったのである。心細かったのだろう。そりゃあそうだと、幼心には気づかなかった母の侘しさも今なら理解できないでもない。ましてや、肝心の娘は物心つく前から「お母さん嫌い」が口癖だったのだ。ああ、可哀そう。

 今も大嫌いだけれど。ちっとも反省はしていない。覆す気はない。

 ともあれ、そんなふうに寂しかった母がその当時、なんらかの関りで多少なり親しくなった女性に紹介された宗教に嵌ったのは、致し方ない流れであったろうと思う。そうして彼女は多くの友達を得た。

 そのうちの一人がくれたんだろう。駅に脱ぎ捨てたサンダルは。そんなものでも、好みにあいさえすればそれなりに気に入れるのだから、自分で買ったとか友達と選んだとかは大した理由じゃないのかもしれない。

 悲しい。

 それは、なんだか悲しいことだと思って、腰の辺りにぶら下がっている斜め掛けバッグの布地を撫でた。

 無関係に海は銀色の光を揺蕩わせている。墨色の奥にくらげもゆらゆらしているのだろうか。砂の孕んだ熱の心地よさも知らないで、行き当たりばったりにプランクトンを食みながら、波打つままに運ばれている。うっかり岸に打ち上げられても戻れないのに。馬鹿みたいに素直な奴らだ。だからあんなに透き通っていられるのだろうか。

 くらげとは似ても似つかないイカが干してあるのを横目に通り過ぎた。白くなって、ひょろりんと十本脚を垂れ下げている。いかにも哀れっぽくて、間抜けな姿だ。

 振り返ってみると、ぽつぽつとした足跡が砂浜に続いていた。ちっとはまっすぐ歩けよ。そう言いたくなる軌跡を描いている。他には誰も居ない。駅舎の灯かりが温そうに滲んでいる。別に寒くないから羨ましくないけど。

 人の姿はないが、人の気配はあった。住宅街ではもちろんないが、民家が一軒もないということもない。台所だろう換気扇の回る音。フライパンで何かが焼ける匂い。食卓のざわめき。そういう夜浅い時間らしい人の気配が耳をくすぐる。

 どこにでも行けそうな気分がわいてきた。どこにも行けやしないのに。どうせ帰るしかないのに。ムスっとして玄関をくぐって、悲壮さを露わにか細い声で泣き言を呟く母を無視して、だんまりと不満を露わにした父の脇を素通りして、足音荒く階段を駆け上がって自室に閉じこもるしかできないくせに。弁解することすらできない卑怯な臆病者のくせに。今だけは、どこへでも自由に行ける気がした。

 それでつい、歌を歌った。控えめな声で、好きな歌手の歌を。音痴なのは知っている。カラオケは苦手だ。でも今は聴衆なんて居ないから、気にしないで好きに歌う。

 痛々しい歌だ。可哀そうな歌詞だ。切実なメロディだ。自己憐憫に溢れた歌だ。

 それを好む自分は、無意味な祈りのデモンストレーションをする母と、どこが違っているのだろう?

 だけどここには、そうなのか君はそんなに傷ついているんだね可哀そうに、なんて言って、抱きしめたり慰めたり態度を改めたりする人なんて居ない。そんな観客を求めたりなんかしていない。どれだけ自己憐憫に溺れようとも、自己愛に酔いしれようとも、そこだけは違う、決定的に違う。

 そう、信じたい。

 信じられたらいいのにな。

 信じるには、きっと黙るしかないんだろう。誰にも、何も、言わない、告げない、明かさない。そうあって初めて、自身は無為な祈りなどしない、押し切れもしない自己主張で同情を求めはしないと、どこまでもいつまでもどれだけも自己完結でしかないと、信じて許していいのだろう。

 土台無理な話だ。

 歌うのは聴かせたいからだ。絵を描くのは誰かに見せたいからだ。文字を綴るのは読まれたいからだ。表現は見られるためにある。評価を求めない自己表現なぞあるものか。そしてえてして、それは自分に都合のいい、肯定的な評価以外欲していない。

 少なくとも、私は。

 虚しくなって歌うのをやめた。

 もっとなんでもなくなりたい。感じるだけ、訴えない、欲しない、在るだけのものになりたいと願う。

 くらげより、波間に跳ねる光より、もっともっと、無いみたいに在るものに、なれたらいいのに。全部をやさしく包んで、けど締めつけない、稀薄で豊かな、何かになりたい。



「何してるの」

 と彼は言った。

 彼、だろう。女には見えないから。歳は……おじさんの年齢。おじさんと呼んで「はいはい」とにっこり応じるのではなく、ちょっとしかめ面しそうなくらいの、でもお兄さんと呼ぶと媚びた感じがしてしまうくらいの、おじさん。

 腹が出ている。それもおじさんっぽい。デブではないが中肉中背よりやや小太りな、中年に差し掛かった感じの体形。背は余り高くない。こっちがチビだから見上げる格好にはなるものの、平均的な男性の身長よりは多分結構低い。と言うより、女性の平均身長くらいだと思う。

 清潔だがお洒落じゃないTシャツにジーンズ、ダサいのかダサくないのかわからない革靴ではないがスニーカーと呼ぶにはかっちりした印象の重そうなクツを履いている。

 そんなところに目が行ったのは、見知らぬ他人の顔を真っ直ぐ見つめ返せるほどの対人技能が自身にないせいと、彼の頭が薄かったせいでもある。ハゲと言ったら憤然と怒られそうな、でも確実に薄毛ではある頭髪をしていた。それが夜目にもはっきり見受けられて、つい視線が引き寄せられかかったので、咄嗟に目を逸らしたのだ。

「何してたの」

 と、もう一度彼は言った。

 二十歳そこらの若者が、少し年下の女の子を引っかけようとする時の軽薄な口ぶりとは違っていた。

 尤も、そんな扱いを受けたことは数える程度しかない。男が女で旨味を味わおうとして、女が男を値踏みする、変に甘ったるく白々しい会話が厭わしく、すぐにそういう遊びはやめた。どっちみち、男が積極的に欲しいと思える女性では、自分はない。ただ若く、穴がある。それだけでオーケイな排泄処理に役立つだけの種族だ。声をかけてきた男も、いかにもオボコそうで騙し易そうに感じたからちょっかいかけてみただけだろう。

 目の前の彼から発された言葉には、その種の軽薄なくせに粘っこい感じの響きが含まれていなかった。それでいて、年長の、正しい者が、若輩の愚か者を弾圧するときの偉そうさもない。ただ訊いている、そんな感じだった。

 だからだろう。真ん前から歩いて来て声を掛けられたからって、立ち止まってやる義理はない。見ず知らずの他人なのだから無視して素通りすればよかった。なのに、立ち止まって、相手を観察しようとして、禿げかけの頭に目を逸らした。

 馬鹿だ。

 気まずかった。

「近くに知ってる店があるんだけど、行く?」

 問われて、思わず顔を上げた。

 若者とは口ぶりが違ったけれど、これもやっぱりナンパだったのだろうか。しょうもない。そう思って。

 しかし夜目に映る彼の顔は、やっぱりイヤらしい感じではなかった。小首を傾げている。年齢にそぐわない仕草だった。おじさんだが童顔だ。昔はベビーフェイスとか言って可愛がられたクチかもしれない。それが加齢して頬が弛んだり肌がざらついたりして崩れた感じの、残念な醜さがあった。大きめの二重瞼の垂れ目だけが、年齢を無視して少年っぽい潤いを宿している。分類すれば犬顔だと思った。

 さすがにこれ以上、黙っているのは気まずさが飽和しすぎる。何事もなかったかのように横を通り過ぎるのは恐らく可能だ。そこで腕を掴んでくるとかしそうな強引さは彼から見受けられない。自身の人を見る目がアテになればの話だが。

「カラオケもあるよ。歌、好きなんでしょ」

 物好きなおじさんも居たものだ。三度みたび、無視されなおも会話を振って来るとは。

 とは、考える余裕を失くしていた。聴かれていたのだ。痛々しい他人の半生を借りた歌を。そこに自分を重ねて、ありもしない不幸を気取った歌声を。恥ずかしい。とんでもない恥ずかしさだ。

 堪らず俯いてしまったのを、しかし相手は首肯したと勘違いしたらしかった。

「すぐ近くだよ」

 そう言った相手がいともあっさり腰に手を回してきたのにびっくりした。なんだ、結局ただのスケベ親父か。それも穴さえあれば美醜を問わないタイプの。

 最低だとは思わなかった。世の中そんなもんなんだろうと思った。モテる女には二種類ある。魅力的なのと、手軽なの。自身は後者に分類されただけ。モテるわけじゃないけど。たまたまの行きがかりだけど。

 水割り、行きずり、古い傷。

 という歌詞が浮かんで頭の中で勝手に流れた。小さい頃、好きだった歌だ。意味なんか知らない。父とデュエットできるのが嬉しかっただけ。今思うととんでもないアバズレな歌である。よくもまあ。

 父よりはだいぶん年下に見えるが、この人もその歌を知っているだろうか。鼻歌を口ずさんだら「若いのによく知ってるねえ」と彼は笑った。

 やけくそだった。

 犯されるのかもしれない。処女なのになあ。と思った。


 連れて行かれたのはいわゆるスナックという種類の店だった。

 「カラオケある」という意味が呑み込めた。カラオケある店は知っている。カラオケボックスだ。カラオケある店に来たのは初めてだった。

 カランカランと古き良き喫茶店みたいな華やかな音の鳴る扉をくぐると、「いらっしゃ~い」と間延びして高い声に迎え入れられた。

 『ママ』と呼ばれる人種だと思う。やんちゃな部類の友達が居なくても、そういうことは自然と覚えるものだ。多分、テレビドラマとか本とかから知らず知らず知識を仕入れているのだろう。

 ママはかなりご高齢だった。濃い化粧をしたところでどうにもならない深いシワ、スレンダーと言うより老いさらばえてやせ細った体つき、一目見て「老人だ」と思う程度には高齢である。でも声だけは若い娘のように甲高かった。紫色のドギツいドレスを着ている。派手なわけでもゴージャスなわけでもなく、むしろシンプルなサテンかシルクかポリエステルのワンピースだが、大きく開いた襟ぐりや肩が剥き出しなところや体の線がくっきり出る感じがいかにも婀娜っぽく、それを老人が着ているという状態がドギツかった。

 隣には美人だが年増のホステスが立っていた。こちらは「老人」ではなく飽くまで「年増」だ。多分、五十代とかその手前くらいの年配女性である。ママほどはドギツくない黒のドレスを着ていた。ベロア風の生地だが光沢が安っぽい。網目の細かいレース状の透ける長袖部分にスパンコールがチカチカしている。

「やだぁ、随分若い彼女さんねえ~」

 なんとなく韓国系の顔立ちに思えたが、流暢な日本語で年増のホステスは言った。綺麗な人だが色っぽくはない。言葉遣いに反して媚びた印象もなかった。それはママも同様で、年甲斐もなく高い声でねっとり喋るわりに感じとしてはサバサバしている。こういう場所で働く人はもっとむせ返るぐらいの色気があるものだと思っていた。意外だ。小娘の見識の底が知れる。

 「彼女」と表現されたことに、否定も肯定も返さずに彼はカウンター席についた。予定調和の滑らかさでママが酒瓶を取り出し、グラスを用意する。ご注文は? なんて聞かれない種類の店も初めてだ。

 戸惑いながら、彼の隣の席に座った。深く腰掛けると足先が床に届かない。小さい子供になった気分だ。カバンの置き場所も見当たらない。膝に乗せると斜めにかけた肩ひもがずり落ちた。

 ガシャガシャと不粋な音を立ててママがグラスに氷を入れる。カロン、なんて美しい音で真ん丸な氷が琥珀色の液体の中を回るのは、ドラマの中だけのことみたいだ。そもそもグラスの形が違っている。オン・ザ・ロックとかソルティなんとかとか、子供が無暗に憧れるカッコイイ飲み物は出てこないらしい。ワイングラスでもシャンパングラスでもない、脚のない寸胴型の縦長のグラスだった。二つ並んだそれは、家にあるのよりは細くて少しだけお洒落ではある。

 そこに、ママは透明な液体を注いだ。酒瓶から注がれたからお酒だろう。透明なお酒は日本酒しか知らない。ママはそれを一つ目のグラスの三分の一ほど注いで、ちらりと目を上げる。隣の彼が微かに首を左右に振った。

 ママは続いてカウンターの見えない場所からペットボトルを取り出す。天然水とラベルに書いてあった。だぼだぼと注いで九分目まで満たす。水割りだ。それがどんな種類のどんなお酒か今まで知らなかったけれど、これがそうだ理解した。

「コーラとコーヒーと緑茶があるけど、どうする?」

 カウンターの奥でしゃがみこんでいたホステスが尋ねた。そこに冷蔵庫があるのだろう。注文を取らない種類のお店で注文を訊かれたことが、とても恥ずかしかった。無意識に足をぶらぶらさせていたのにも気づいて、もっと恥ずかしくなった。

「コ――」

 コーラ、と言おうとして、ますます子供っぽいと感じて「コーヒー」と消え入りそうな声で答えた。

 真っ黒な液体が注がれた。氷で透けて茶色くも見えた。気泡のないコーラみたいだった。

 ブラックだ。

 素直にコーラと言えばよかったと思った。甘くないコーヒーは飲めない。正しくは、飲んだことがない。

 コーヒーと言えば、砂糖とミルクが入っているのが当たり前だった。そういう家で育ったし、そういう店しか行ったことがない。勿論、ブラックコーヒーの存在を知らないほど世間知らずではなかったけれど、自分の常識の中に存在していなかった。カフェラテとか、カフェオレとか、コーヒー牛乳とか、名前は違うにしろ、その手合いが自身にとっての「コーヒー」で、精一杯背伸びしたところで砂糖壺とミルク瓶の添えられたアメリカンコーヒーが想像の限界だった。コーヒー=イコールブラックの発想がない。

「やっぱりコーラにする?」

 さすが客商売が長いだけはある。ママの経歴は知らないけれど、まさか定年退職後にスナックを開いた、なんてことはないだろう。鋭い観察眼を発揮して、ママがなんでもない口ぶりで訊いた。こくりと頷きで応える。恥ずかしさで俯いた顔が上げられない。

 追い打ちみたいに流しにコーヒーを捨てる音が聞こえた。貰ってくれるんじゃないのか。そこのところの感情の機微は汲み取ってくれないらしい。自身のせいで捨てられた飲み物と氷の音に、頭が重くなった。

 新しくコーラの注がれたグラスがカウンターに置かれる。パチパチと気泡の音が軽やかだった。好きな音だ。こんな気の重い状態で聞くのは初めてだ。

「乾杯」

 彼が言ったので、緩慢な動作で顔をあげてグラスを手にした。カウンターの天面を擦るようにして少しだけグラスをぶつけた。

 一口だけ飲む。

 甘い。

 美味しい。

 冷えたコーラは予想通りの味で、予想よりはるかに美味しかった。笑っちゃうくらい。情けないブスな顔で笑った。彼もにっこりした。カウンターの向こうでママとホステスが当たり前の顔して自分たち用の水割りを作って飲んだ。

 それからは、意外なほど居心地が良かった。

 彼がカラオケもある店に誘ったのは、私の歌声を聞いていたからというよりも、本人が歌が好きだからだと知れた。彼は歌が上手かった。歌手になれる類の上手さではないが、スナックで人気者になれるくらいの上手さだった。喫煙者のくせに声がよく通る。抑揚もあり、本当に上手いかどうかは別にして聞かせるのが上手だった。聴いていて気分のいい歌いっぷりだった。

 ママも程ほどで、職業柄歌い慣れている感じがあった。ホステスの方はあまり上手ではなかった。しかし、これぞ水商売の女という感じの酒焼けしたハスキーボイスは好ましかった。

 自身は聞き役に徹した。世代的に合う歌を知らなかったし、知っていても歌いこなせない。父が好きなのは長渕剛で、母が好きなのは美空ひばりだ。自身が好きなのはカルト的な偏った種類のシンガーで、世代に関係なく大抵の人が聞き覚えのある流行の曲は歌えるほどまともに聞いたことがない。仮に歌えたところで音痴が露呈するだけで誰も得しない。

 彼が歌っている間、ママやホステスが話し相手をしてくれた。こういう場所では歌っている人を放っておいておしゃべりしていてもいいらしい。

 カラオケボックスでそんなことしたら、歌っている子に睨まれてしまう。私の歌を聞いてよ、って。上手いでしょう? もしくは、私はこういう歌が好きな感性をしてるのよ、って。自己開示して訴えているのを聞き流すのはルール違反だ。手拍子したり、歌詞に見入ったり、メロディに身を揺らしたり、聞き惚れて賛辞を送ったり、そういうことが必要だ。そういう付き合い方のカラオケしか知らなかった。だからカラオケは少し苦手だったのだ。

 スナックという場所では、カラオケはただ気持ちよく当人が歌えさえすればそれでいい位置づけらしい。カラオケある場所だからかもしれない。それ楽しめるけれど、それ目的の場所じゃないから。お酒を呑んで楽しく過ごす。それだけがルールなんだろう。自身が飲んでいるのはコーラだけれど。お酒じゃなくても、飲んで、楽しむ、つまりそれだけ。

 会話すら、してもしなくてもいい程度のものなんだろうと感じた。だってママの話もホステスの話も、全然意味が分からない。支離滅裂とか外国語だとかいう意味ではなく。多分、内容がない。会話は成立していて楽しくおしゃべりしてはいるのだけれど、何を話しているのか自分でもよく分からない。そんな具合。でも、愉快。

 中身がない、意味がない、あっぱらぱー。

 アルコールを摂取していないのに、酔っぱらったみたいになっていた。無為であることの心地よさに酔ったのだと思う。こんなふうに頭空っぽで会話できることを知らなかったから。人と喋る時は頭の中でぐるぐる考えて、考えてるのに考えられなくて、まとまらない言葉を捻りだして、案の定うまく伝わらなくて、話すそばから後悔の思考が降りてきて、現在進行形の話すための考えとゴタゴタにぐるぐるして――そういう状態での会話が常だったから。そこまで毎度毎度、思考が迷走していたわけではなくとも、だいたいそれに近かったから。

 空っぽの会話は楽しかった。後先考えない酔っ払いだった。時計のない店の中で、どれほどかの時間を過ごして多分真夜中、上機嫌で店を出た。



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