二十九、五色

 丘だった。

 視界を遮るもののない、広々として小高い丘。下ばえの緑が風にそよぎ、淡く晴れ色の空が開けている。涼感。静穏。

 その小さな頂きに、佇むか弱げな人影がある。

「リウ」

 呼びかけを放った。

 相手が誰であるかを見極めるには十分で、しかし手を触れるには遠い距離。瞬間、吹き抜けた一陣の風に、自身の声は掃き散らされ届かぬのではと疑う。斜面を登る己が歩みがもどかしい。

 もう一度、呼びかけを発そうとしたとき、相手が振り返るのが見えた。

 ゆったりと、静かな動作で。長い髪が華奢な肩を、薄い背中を、撫でている。形のない風にすら、強く押されればよろめきくずおれそうな頼りなさ。細く清らかな指先が、顔に掛かる髪を掬いとり、幸薄い耳にかけて流す。

 静的な仕草。その一連の動作の先で相手はそっと振り返り、こちらに目を向けた。

 微笑み。

 ――が、あると思った。静謐を湛える麗しやかな微笑が、浮かんでいるものと思った。

 こんな場所に居ては体を冷やす。そう小言して、その手を取り、引き寄せて、衣に包み、温めてやろうと、考えるともなく考えていた。思慕の滲む微笑に迎えられると予期していたから。

 けれども。

 睫毛まつの長い、陰の淡い、肌色の白い、端麗なその顔に微笑はなく、代わりにあったのは侘しく物悲しそうな眼差しだった。

「リウッ」

 由のない焦燥に駆られる。鋭く呼んで、足を速めた。何故こうももどかしいのか。思う速さに肉体が追いつかない。

 手が、届く――。

 長く思えた束の間ののちに、ようやくその手を掴もうとしたとき、不意に相手の体が倒れた。絹に包まれた細い両脚の白々と滑らかであろう膝が折れ、体が畳まれるようにして緑のしとねへ落ちようとする。無造作に、呆気なく手折られる草木のようであった。

 咄嗟に抱き留めようとした。両の腕を前へと伸ばし、倒れ伏そうとする体をしかと受け止めた。

 ――はずだった。

 相手は倒れはしなかった。腕の中で崩れ落ちた。

 崩れた、のだ。

 霧散した。けれども霧消はしなかった。

 薄桃色の花びら。幾百とない、やわらかな花片。

 差し伸べた腕の間を、手の平を上に広げた五指の隙間を、はらはらと淡い花の欠片がすり抜けて散る。崩れ去った体。幾百の花弁。

 あまりのことに声も無く、身じろぎも出来ない。

 ひらひらと散ってゆくのを、吹く風が舞い上げる。爛漫に咲く桃花の散る如く、風に乗り、花びらが舞い踊った。

 なんと優し気な色であろうか。けれども、受け止めるはずだった重みを失した己の目には、悲し過ぎる。

「リウッ」

 痛々しく叫び、花びらを追った。運ばれた先で薄桃色のやわい欠片が渦を巻く。

 その中に、朧に姿が浮かび上がった。他に遮るもののない、小高い丘の頂で、それよりほんの少し離れた緑の上に、相手が静かに佇んでいる。期待したあの微笑が見えた。

 ――りうと申します

 記憶の彼方で声がした。かつて名を問うた、自身に応えた折の美しい声だ。静けさに満ちて、鏡面をなす水面を思わす澄んだ声。

 ――ことわりそら、或いは理レ宇そらのことわり

「リウッ」

 呼び声に、また相手が振り返る。今度は、こちらに向けていた顔を遠くへと移して。去りゆくもののように背を向ける。

 何故、逃げるのか。行かないでくれ。と、声をやるのももどかしく後を追う。

 袖の長く豊かに広がる衣に隠されたか細い腕を掴んだそのとき、自身の手はまたしても質量を得ることは叶わず。

 花びらが舞った。

 相手の姿が霧散して、飛散する花びらとなった。

 鮮やかに明るい黄色の花びらであった。菜の花か、名もない小さな野草の花か。

 やわらかな桃色と混じり、鮮明に風を描く。幾千となく舞う二色ふたいろの花弁。

 はらり、はらり、踊るように蛇行して、緑もゆる丘を渡る。穏やかに晴れた空の色。遮るものは他にない。

 そしてまた、か弱げな人影が佇む。

 一声鳴いては前をゆき、少し離れては一声鳴く、猫が細道を誘うのに似て。逃げているのではないのか。ならばどうして、捕まってはくれぬのか。

「リウ」

 悲しく呼んで、近く寄る。急く程にもどかしい歩みは、もはや焦りを失った。

 緩慢に相手が振り向く。ちらとこちらを見やって目を伏せる。記憶の中の姿が重なった。

 はにかんだ笑み。稀に見せるその表情に疼いた胸の感覚が蘇る。気恥ずかしそうな様子に自尊心をくすぐられた。けれど、その顔は、傷を負ったものの表情にも見えて、忸怩じくじたる思いも同時に覚えた。

「リウ……」

 どうせまた、掴めない。諦念とともに手を伸ばす。開いた五指が空を掻く。

 花びらが散った。

 菫か菖蒲の青紫。可憐でよそよそしい花色が舞い散る。清らかさとあでやかさ、どちらも備えるその色は高貴なゆえに程遠く。幾万と舞い、舞うごとに散る。

 慰みが欲しかった。

 慰めてやりたかった。慈しみを与えたかった。与えることで赦されたかった。慰めを得たかった。

 己は傲慢だったのだ。

「……リウ……」

 これは断罪なのだろうか。伸ばせども伸ばせども、届きそうで、届いたときには失われている。掴んでも掴んでも、掴めずに、散ってゆく。

 薄桃に黄色、紫の混じる三つ巴の花の渦。その中に佇む影に呼びかける声は萎えかけている。腕をもたげ、手を伸ばすのも、力ない。だが、伸ばさずにもおれない。

 声は風に消されたか、相手は振り向かないまま、きゅっと唇をつぼめる。白い肌に、そこだけ色づいたふくよかな唇。

 くすくすとこぼれる笑みが聞こえた気がした。滅多と聞くことのなかった憂いのない笑い声。鈴を転がすようにして笑い、鈴が毀れるように途切れる。

 散ったのは純白の花弁だった。

 どこにどう触れようとしたのか、腕を掴んだのか、手を握ったのか、衣を掠めただけだったのか、それももう自覚していない。相手の姿は花びらとなった。

 ザッと強い風が吹く。

 草いきれが舞った。

 薄桃色に鮮やかな黄色、青紫に純潔の白、切れ切れの緑。五色の欠片が入り混じり、舞い踊り、舞い上がる。渦を巻き、風に遊び、流水紋を描き出す。空を駆る。幾億とも知れず。

 導くように舞っている。

「ここは、どこだ」

 今更の疑問を口にした。

 遮るもののない丘の上。何もない。己と、相手と、空と花びらの他には。

「理の尽きるところ」

 初めて、相手の肉声がした。けれども体は花びらだ。

「ことわり……とは」

「理とは断り、ことの終わり」

「ことの、おわり」

おれは……」

 お前を失くしたのか。だからお前に触れられないのか。掴めないのか。抱き留められなかったのか。

 抱き留められなかった。

 そうだ、と思い出す。抱き留めてやれなかった。その身を、その身に宿る命を。死なせてしまった。

 違う。

 殺したのだ。

 この手で、お前を。何故。

 抱けなかったからだ。抱き留められなかったのではない。抱かせてもらえなかったのだ。

 抱きたかった。抱きしめて、抱き止めたかった。留め置きたかった。添い遂げたかった。

 許されなかった。

 相手はやんごとないかただった。気高い御身であった。潔白な身代であった。かむさびていた。

 その故に、神に輿入れが決まっていた。それを攫えるほど、己の身の程は優れていなかった。

 神とはなんだ。天皇あまのすめらぎか。天照アマテラスか。ヤマトタケルノミコトか。いずれ横車を押せる相手ではない。それでなお、思いを遂げようとするならば。

 手折るしかないではないか。奉ぜられる献花を、奪うなら、奪い取って逃げるなら、逃げる先などないのなら、天網恢恢疎にして漏らさず神の手から逃げる術などあるはずもないのなら、毟り取って毀すしかないではないか。

 だから。

「リ……ウ……」

 相手の意志など確かめなかった。だが思いはひとつと確信していた。何故なら相手は己を見ていたから。その微笑も、恥じらう笑みも、屈託ない笑い声も、自身に向けられたものだったから。

 慕われていた。己が慕うのと同じだけ、慕われていた。そこに誤りはなかった。ただ、同じ分量でも、同じ意味でも、同じ種類でもあたけれど、同じ意志ではなかったのだ。

 ――ただ生きていられること。額に汗することもなく、飢えを知らず、貧しさを知らず、取り留めもなく生きていられるということ。これほど豊かなことがありましょうや。これほど幸いなことがありましょうや。ですが、これほど罪深くに沿わぬこともないと思うのです。

 いつか言っていた。聞きながら、悲しく思った。そのことを思い出す。神さびた人は、生きながらに生きた人でないかのごと生きていた。死んではいないだけの生き方だった。神の域は生者の域になかった。死人しびとの域に近かった。のっぺりとして稀薄であった。それでいて鮮やかだった。あでやかだった。気高くもあった。清廉であった。可憐さもあった。咲き狂う花の、瑞々しい生々しさを断ち、千切れ飛ぶ花片のごとくに、美しく、果敢無はかなかった。

 五色の花の舞う中で、花渦に巻かれながら、面影を追う。ただ心の裡だけで。

 命を、与えたのだ。己が。人らしいはにかみや笑い声という、思慕という、命を相手に。与えたのに、受け入れられたのに、尚その身は神のもとへ嫁ぐという。その命ごと去るという。

 毒物であったろうか。刃物であったろうか。自らの手で縊り殺したのだったろうか。思い出せない。いかにして相手の命を絶ったのだったろう。否、絶ったのではない、奪ったのだ。せめてもと、自身の与えた命ごと神のもとへと去る前に、奪い返したのだ。奪い返そうと、したのだ。

「ことわりは尽きました」

 耳を打つ、かの方の声。

 今更に思い出す。

 甘い香りの濁り酒。神へ奉ぜし御身から心をくさすしゅ入りの酒精。神さびた儀式。五色の衣。彫漆ちょうしつさかずき。輿入れの毒杯。命までは奪わぬ。だが人心それこそがいのちではないのか。

 腕を伸ばし、奪い取り、喉を反らせて、一息に呷った。

 どうやって、踏み込んだものか。場を荒らし、気づけば毒を喰らっていた。そうするつもりは毛頭なかった。神に娶られ獲られるくらいなら、共々地獄へ堕ちてやろうと殺意を握って乱入したはずだった。けれども気づけば白い手の、揃えた細い指の支える、花唇のそっと触れようとする、その盃を我がものとして、甘苦い毒を飲み干していた。

 心が融けてゆくのがわかった。一瞬ひととき、目を瞠った相手が、ゆっくりと寂しそうに微笑わらうのが見えた。

 死んだのは己だった。


 花が導く。

 幾百、幾千、幾万を超え、幾億の花びらが。

 薄桃色に鮮やかな黄色、青紫、純白、緑の草ぐさ。

 五色に混じり、理の潰えた先へ、ことの終わったその先へ。

 心を罔くした肉体は罪科人つみとがびととしてすでに処刑ころされたか。そうだとして、どうともない。ここには遮るものなどない。広がる景色のその先に、花の導くその先に、行く末があるだろう。

 果てたる先の、その先へ、最果てへの魂魄いのちの旅路が。


 罪ひとつ、携える。

 花渦に巻かれながら。

 共々に逝けなかったこと。

 抱き留めてやれなかったこと。

 置き去られる己を嘆き、置き去りにお前をしたこと。

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