三十、端午
『誰か――』
女の声を聞いた気がして顔を上げた。
振り返って室内を見渡すが、誰も居ない。それはそうだ。独り身の侘び住いなのだから。
しかし空耳とも思えない。他所の宅内の声が届いたという気もしなかった。
腰をあげ、なんとはなしに足を運ぶ。雨でもないのに濡れたように景色を波打たすガラス戸を開き、縁側に出た。ツッカケをその名の通りに突っ掛けて庭に降りる。
『誰か
また、聞こえた。
声のしたと思しき方へ向かう。庭師などとんと呼んでいない野放図な緑の陰に、石で囲んだ
そこに、女が居た。
何しろそれは浮いていた。瓢箪池の水の上に。
浮いているだけなら水鳥だって傍目には浮いて見えるし――実際には水面下で酷く慌ただしく脚を泳がせているという話だが――
それは僅かばかり水面を離れて浮かび、留まっているのである。加えて透けてもいた。女の体に遮られるはずの向こう側の景色がけぶるように透かし見えている。
人ではない。人でないなら、化生であろう。
いと美しい女の姿ではあった。
古臭い衣装を着ている。古臭いが、古くはない。つまり、傷みも汚れもない真新し気な絹の衣だ。
『おお、居った』
女は嬉し気に声を弾ませた。
それには応えず、池を覗く。魚影を捜す。
見当たらぬ。
ならば――
あまり真っ当な考えとは思えなかった。しかし他も思いつかぬ。池に居たはずのものが女に化けてそこに居るのだ。
美しい女に。
何故、とは考えない。化生に理屈を問うのも虚しい。日頃の恩返しか、恨みを晴らすためか。日毎のエサは与えていたし、たまには掃除もしたかもしれぬ。それを有り難く思われたとておかしくはないし、しかし水を入れ替えてやったのはもう随分昔で、苔も藻も生えてはいるし、日夜愛でるほど大事にした覚えはないから、恨みつらみを抱かれていたとて不思議でもない。とは言え所詮は魚であるから、大した理由などない気紛れの類かもしれぬ。
ただ。
「お前さん、よりによって……」
そんな艶姿にならずともよかろうに。
とは、思った。
魚が化けて姫になる。それはなんとも麗し気な話である。
それが例えば
「
つい、言ってしまった。
言った途端に、しおしおと気の抜けるように艶やかな美女は姿を縮めた。
――ボチャン。
水音ひとつ、水飛沫みっつ、残して池に落ちたのは果たして真鯉で違いなかった。
黒と言うより茶色く、茶色と言うより鼠色の、地味な、大きさだけは立派な、何の変哲もない真鯉である。
すぅイ、と瓢箪池を一周すると、それきり常の通りに陰に潜んだ。
いったい、何のまねだったのだ。とは、考えない。ただ、
「あれがねぇ」
と、囲いの石の陰と一体となってもはや輪郭の掴めない魚影を眺望しながら、感嘆を漏らした。
メス、だったのだろうか。メスだったのだろう。魚にも女心はあるのか。どうせなら美しく着飾った姫の姿をとりたいと願うものなのか。その艶姿を飼い主に一目見せてやりたいと思ったりするのか。
何の為に、とは、考えないけれども、つらつらと思いは巡る。
愛情に応えようと。もしくは求愛の意を込めて。
否。
鯉は人間に求愛はせぬ。化生といえどもそれは変わるまい。竜宮城の姫だってタイやヒラメそのものではないのだし。まあしかし、鶴が人に嫁ぐことはあるようだから、鯉にはあり得ぬとも言い切れはしないのか。
だが。
どちらかと言えばやはり鯉は鯉の伴侶がよかろう。つまり――
「婿が欲しいか」
なるほどなと、池に話しかけて頷いた。
実体の地味さに反して如何ばかりか過ぎたる姿であった気もするが、化生なりに美しく
いずれにせよ、鯉が一匹増えたところでそう困らぬ。飼うのもよかろうかと思う。知り合いの養魚場に顔を出してみるのも悪くはない。
そう考え、屈めていた腰を伸ばす。ついでに天を仰いでみる。
青い空だ。
そよ吹く風に白い鱗片の雲が浮かんでいる。
青い水など見たこともないが、青空は水を思わせる。雲が泳ぎ、風が流れているからか。
五月晴れ。とは、旧暦五月――つまりは梅雨時――の晴れ間のことに過ぎぬらしいが。
「五月晴れよなあ」
言ってみた。
カラカラと回る矢車の音がする。
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