二十七、アヒル・レストラン~8528~
アヒルである。
旧道であり裏通りであり、バス通りである山近い一車線の道を歩いていると、やや開けた場所のあるのが目に入った。
で、アヒルである。
なんという呼び名であったか。プチダック、ミニアヒル、……北京ダックでないのは確かだ。ともあれ、小ぶりのアヒルが居た。仔アヒルでは、多分ない。ペット用の小型種であろう。改良品種であるのか、生来そういう種なのかは知ったことではない。
真っ白だ。真っ白で、ぷりぷりしている。可愛らしい。
こんなのを飼っている家もあるのだなあと、素直に感心した。道との境に門扉はなく、塀や生け垣もない。砂地に拓けたガレージといった様子だ。前庭と呼ぶ方が相応しいか。石で囲った小さな池が掘られていた。そのぐるりを少し広めに鉄柵が囲っている。鉄と云うよりスチール製であろうか。犬のケージなどで見るような、あの細い銀色の格子である。まさにそれはケージなのだろう。中に飼われているのは犬ではなくアヒルだが。池の円周より広めに囲っているのは、水場だけでなく、砂地でもアヒルが遊べるようにであろう。
アヒルの他に鴨らしき生き物も数羽いた。カルガモなのか、合鴨なのか、種別はこれまた知ったことではない。茶色っぽい体にところどころ色付きの羽根を飾っている。ひよろひろよと揺らめくように、心地よさげに池を渡りもって浮かんでいた。
可愛らしい。
垣根がないのをいいことに、ついふらふらと引き寄せられて、敷地に踏み入れて眺め下ろした。鴨どもは変わらず悠然と泳いでいるが、アヒルは愛想よくこちらを見上げてくる。真っ白なつるんとした小さい頭に、先の丸っこい黄色なくちばし、円らな眼。なんと無害を体現した姿であることか。そのペタペタと不器用に砂地を踏む水掻き付きの脚も愛らしい。
ぷりぷりした尻とぴょんと突き出た尻尾を振り振り、アヒルはこちらに寄ってきた。まったく実に愛想がいい。可愛いなあ。思わず口をついて出た。
曇天である。夏が迫る季節であったが、雲のお陰で過ごしやすかった。風はそよそよと肌を撫で、小池の水面を細波立たせている。時折視界の隅で翻る新緑に目を細めたくなる、そんな陽気であった。やわい日向にアヒルの姿はよく似合う。
ついと口元を綻ばせたりなんぞしながら暫し見入った。
エンジン音が背中側を行き過ぎる。何度目かのそれで、ふと我に返った。他とは少し違って感じられた響きは、バスの走り過ぎる音である。最寄りのバス停を捜していたのを思い出した。それがどこにあって、定刻がいつであるか知れないが、乗り遅れたのは確実だ。
まあ、いいか。次の発車に間に合えばいい。
そういうことにして、ようやくアヒルと見つめ合うのをやめた。一頻り眺める間、お愛想上手なアヒルはこちらに付き合い、じっと顔を向けてくれていたのである。変わった生き物だなあと感心した。丸くて、滑らかで、可愛らしいが、表情はない。犬や猫なら表情に喜怒哀楽が感じられる。尻尾や仕草でも感情表現を伝えてくる。よく無表情の代名にされるものにウサギがあるが、それでも怒ったり怯えたりしていれば顔つきに表れるし、寛いでいる時には柔和さが滲む。アヒルにはそうした一切がない。しかし味気なくもない。かと云って味わい深いわけでもなく、だがずっと見ていられる。無垢、と云うのだろうか。まあ、真っ白なのだし、ペットなのだから、世俗の垢にまみれていないには違いない。
こちらの興味が如何ばかりか逸れたことを察してか、付き合いの良いアヒルは無垢なる
のどかだなあ。
大変に癒された心地になり、満足して顔をあげた。
お邪魔しました、と、勝手に入り込んだ他人様の敷地に胸の内だけで挨拶をする。飼い主のものだろうお宅に目をやった。
軽くたじろぐ。
アヒルに気を取られ、見もしなかったが少々派手なお宅であった。白と桃色に塗り分けられたウッドデッキが張り出している。木製の手すりの部分には、妙にアメリカンな印象のあるこれまた木製の看板が幾つも掲げられていた。なんとなしの雰囲気だけのものなのだろう。ゴシック体風の手書きのアルファベットは、『空』とか『海』とか『風』とかの子供でも読めるような単語である。『鳥』はないのか。と、思わず探してしまった。
ウッドデッキには他に、割合大きなイモ系の観葉植物とテキサスチックなサボテンがにょきにょき緑を広げており、フランス映画に出てきそうな瀟洒な猫脚の丸テーブルがひとつに、海辺で過ごすためのものとしか思えないレインボーカラーの寝椅子がひとつ。真正面に数段だけの幅広い階段がある様子は、少し神社や寺の建物を連想させた。
その先が玄関だろう。両開きの扉は洋風のガラス窓付きで、さっき見たアヒルのくちばしより淡い、卵色に塗られている。手前に小ぶりなイーゼルが据えられていた。
~本日のメニュー~
・日替わりドレッシングの新鮮サラダ
・日替わり具材の冷製スープ
・シェフの気紛れ具沢山パスタ
うむぅ。
思わずうなった。何一つとして特定されないメニューである。きっと年がら年中、来る日も来る日も、同じ文字がそこに居座っているに違いない。ひとまず、イタリアンではあるのだろう。いや、洋食の線もあるか。なんにせよ、ここは個人宅ではなく客を迎えて食事を振る舞うレストランの店先だったのである。門扉がないのも道理だ。
旧道であり裏通りであり、バス通りでもある山近いうねうねとした一車線の通りに戻りながら、横目にちらりとだけ池を眺めた。
合鴨と北京ダックでないことを祈る。
胸の裡で言い残した。
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