二十六、鼓動

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、――

 心臓の音が、鼓膜が脈打つように感じられるであるとか、鼓膜の内側に響くであるとか、それらの小説内に見るような表現が事実であることを、僕は初めて知った。



 彼女の母は美しかった。

 彼女が美しいのと同じくらいに、母親もまた大層美しかった。

 正しくは逆なのだろう。彼女の母は美しく、それと同じに娘も大変美しく生まれついた。けれども僕にとっては、やはり、彼女が先だ。

 彼女の母は彼女に瓜二つと言ってよかった。初めてそれを目にした時、僕は恐怖すら覚えた。もちろん、彼女の母親には、歳相応の衰えが感じられ、対して彼女は今まさに最も美しい年頃の瑞々しさに満ち溢れていた。しかし印象として、彼らは非常によく似ていた。

 少し癖のある長い髪。それを結わえずたっぷりと背に流しているところ。女性にしてはやや骨ばった、細い腕の、肘から手首の線。聡明さと神経質さを匂わせる皮膚の薄い額や、顎の小さい輪郭。美し過ぎる清らかな瞳。薄っぺらな体、背格好、――

 ありとあらゆるものが同じ素材でできた二体の人形みたいに、彼ら母娘はよく似通っていた。父親という存在が欠落したみたいだ。実際、彼女は父を知らなかったが、そういう意味ではなく、父の血の介在なく彼女が生まれ落ちたかのようだった。

 彼女の母がどういう人であったかを僕は知らない。

 僕が見たのは、やわらかい日差しの照らす静かな病室でじっと、それこそ人形じみてベッドに座っているだけの女だ。彼女の母は一言も口を利かず、娘の連れてきたボーイフレンドを一目見ようともしなかった。

 神経を病んでいるのだ。もうずっと前からそうであるらしい。

 ぼんやりと、瞬きすら忘れたようなその姿からは、知性の片りんも見受けられなかった。けれども僕はこう思った。彼女の母は、恐らく厳しい人だったろうと。

 きっとベジタリアンだろう。どの種類かはわからないけれど、恐らく信仰を持っている。己と己の娘が美しいことを知っており、しかし異性に媚びるような浮ついたことは嫌悪していたはずだ。背筋は常に伸ばされ、食事のマナーにうるさい。幼いうちから敬語を使えるように躾け、入念な下調べをして学校を選び、宿題は常にそばで見守る。他の同世代の子供たちに対し、娘が遅れを取ることは許さず、スポーツであれ学業であれ優秀であることを望む。しかし奢ることは、劣ることより一層の悪だと教え込む。惨めさを嫌い、残酷を嫌い、無邪気さを嫌い、聡明さを求めながら、必死さは厭い、野放図さを厭い、且つ純真さを欲する。美味しい手料理、手縫いの洋服、市販の菓子は与えずティータイムは手製のクッキーかシフォンケーキ、もしくはオーガニックのドライフルーツ。ハーブと花がいっぱいの丹精された庭、小さく清潔な家、すべてを取り仕切る完璧に美しい母――

 彼女は自身の生い立ちについてあまり多くを語らなかった。なのに彼女の母を目にした僕の脳内では、知らないはずの彼女の幼少期、少女期、思春期の家庭での姿が、いや、彼女を取り巻いた家庭そのものの光景が、次々と浮かんできた。

 それが正解だったかどうかは、訊ねていないので知らない。

 彼女が彼女の母を愛していなかったのは確かだ。それとも、それは深すぎる愛の別な形だったのか。いずれにせよ、ごく一般の世間における親子の情愛がそこにないのは明らかだった。

 彼女の目はとても大きい。そこに嵌った一対の瞳は、大変に美しく、怖いくらいに綺麗だ。透き通って、今にも毀れそうに思える。壊れてしまいそうなほど、繊細な心を、豊かな感情を、如実に映し出す。

 その瞳が、はっきりと告げていた。この女を憎んでいると。或いは憎しむ価値もないほど侮蔑していると。

 ――ママよ。

 そう言って微笑んだ彼女のふっくらと可愛らしい唇が、あれほど空々しい形に見えたのも、その目が凍ったように冷たく見えたのも、あの時が初めてで、以降もあの場所だけに限定されていた。つまり、彼女の母の居る病室。彼女は彼女の母のそばでだけ、そのゾッとする貌をした。

 但し、そこにあるのが愛情であれ、憎悪であれ、彼らは強く深く結びついていた。であればこそ、彼女は彼女の母を嫌悪していたのだろう。逃れられるものならば、そこまで嫌う必要はない。逃げ切れば、断ってしまえば、もうそれきりのことなのだから。例えば僕がコンプレックスだった商社マンの父との関係を、修復する努力を放棄して家出したみたいに。それはもう、随分前の学生時代の話だけれど。

 彼女は彼女とそっくりの美しい母が紡いだ透明で強靭なテグスみたいな長い糸に、がんじがらめに絡めとられた可哀そうなお姫さまだった。だから彼女は神経を病んで話の通じやしない母の世話をし、時折、車いすに乗せて庭を散歩させたり、彼女の母が作っていたのと同じレシピのケーキと丁寧にいれた紅茶で、ティータイムを過ごさせたりしていた。

 ――仕方がないの、娘であることからは逃げられないもの。

 そう言って彼女はちょっと苦しそうに微笑んで見せたけど、だったら父の息子であることを投げ出した僕はなんなのだろう。その質問は、彼女にぶつけることができなかった。そんな暴力を振るったら、彼女が毀れてしまうと思った。彼女はとても繊細だった。日頃は大胆そうに振る舞って、己の美貌を鼻にかけた自信家なそぶりを見せていたけれど、本当は臆病でか弱い女性だった。その細くて長い、真っ白な指みたいに、力を加えれば簡単に折れてしまう。そんな脆くて薄い刃のような心を持っている。

 彼女は彼女の母の娘で永遠に在り続けるだろう。僕は予感を持った。

 いつか僕が彼女の夫になる日が来たとしても、彼女が僕の妻であることが、彼女が彼女の母の娘であることに勝ることはない。

 それでもいいと思った。彼女が彼女の母の娘であったことは、今に始まったことではなく、それを僕が知ったのがその時だったというだけで、それ以前から、生まれた、或いは母体に命として宿ったその瞬間から、彼女はずっと彼女の母の娘であり、そうして生きてきた彼女に僕は、惹かれ、恋してしまったのだから。そういう彼女を愛せばいいのだ。そう考えた。

 つもり、だった。

 違ったのだろうか。

 違ったのだろう。僕は受け入れてなどいなかったのだ。

 彼女が「もう無理」と言った時、僕は確かに喜悦を抱いた。

 ――もうダメ。無理なの。ママを愛せない。いいえ、愛してなんか、一度だってないわ。それは分かってる。分かっていたことなの。でも、そうじゃないの、そうではなくて……、ねえ、わかるでしょう?

 分るよと、僕は言った。もうこれ以上、母の面倒はみたくない、母の束縛から逃げ出したい。彼女はそう訴えているのだった。

 彼女の美しい顔は、泣き濡れて腫れぼったくなっていた。彼女は酷い罪悪感に見舞われていた。でもそれは、そんなに罪深いこと? 心身を喪失した親を背負い続けることは、その子供の生涯果たすべき責任なのだろうか。育ててもらった恩を返さないことは、そう、確かに褒められたことじゃあない。義理とか人情とか、そういう世間で正しいとされることに背く行為だ。だったら、育てられてしまった報いは?

 君は充分よくやった。僕はよく知りもしないのにそう言って、泣き咽ぶ彼女を抱きしめ、慰めた。

 自身の生い立ちをあまり多く語らない彼女が、いつ頃から病身の母を抱えてきたものか、僕は知りもしない。まだ若い彼女が十年も前からそんな暮らしをしていたはずもなく、けれど昨日今日に始まったことでもないのは確かだ。そろそろ解放されたっていいではないか。

 君は何も悪くない。君は充分、君の役目を果たした。君はもう、自由になっていいんだよ。

 浮ついた、薄っぺらな言葉だと、今でも思う。僕はただ、彼女を彼女の母の手から奪い取りたかっただけなのだろう。けれどもそれは本心からの言葉だったし、とにかく、もうこれ以上、彼女が悲しんでいるのも苦しんでいるのもつらかった。

 大体、神経を病んで口も利かず目も合わさない母親が、娘を煩わせる必要がどこにあろうか。他人が面倒をみたって、それこそ看護師や介助師に委ねたって、当人には理解できやしないではないか。むしろプロに任せた方が、何かと快適スムーズに違いない。

 そんな簡単なことが、けれども世の中の理屈では薄情と批難されてしまう。例えば年老いて身体機能も脳の働きも衰えた両親を施設に預けることなんかを、人に非ざる悪行であるかのように言う風潮。

 だけど、彼女を苦しめているのは、そんな世間一般の批判なんかではなかった。彼女自身の心の声が、彼女を責め、苛むのだ。そんなことは僕にも分かっていた。彼女を絡めとる彼女の母の紡いだ糸が、彼女をきつく縛り上げ、締めつけて、キリキリと薄い皮膚に食い込んで、赤い血を流させるのだ。

 それでも、そうして皮膚を切り裂かれても、四肢が切断されるとしても、そこから抜け出したい、逃げたいと、初めて彼女は心から望んで、僕に泣き縋っていた。本当は、どこかでずっとそう願っていたのだろう。何故なら彼女は、彼女の母を憎んでいたから。憎い女の面倒をみることを心の底から喜んで、進んでできる人間がどこに居る? あるのはただ、義務感と、正義感だ。道徳観念と言っても良い。そしてそれは、憎む対象そのものによって植え付けられた忌まわしいものに過ぎない。

 深く根を張ったその幻想の植物。親が子に与える価値観というもの。それは、人が子供から大人になってゆく過程で、徐々に変容し、自分の形にあった花を咲かせたり、実を着けるように成長させてゆくものだろう。

 或いは違った種を蒔き、幾つもの小さい植物が芽吹く、花壇みたいなものを築く人も居るのかもしれない。僕のように、幾らか痛い思いをしながら雑草をむしるように引き千切ろうとしたり、除草剤を撒いて枯らそうとする人も居るだろう。そうして得た新たな土台に、何か違うものを育てるために。

 彼女は、ずっと、そんなことができることを知らずに生きてきたのだと思う。彼女は彼女の母が与えた種を、彼女の母が望むままに芽吹かせ、育て、望むとおりに水をやり、望む通りの肥料を与えて、深く根付かせ、たった一つの大輪の花だけを丹精してきた。それを、引っこ抜こうというのだ。どれほど恐ろしいことだろう。どれほど痛いことだろう。幻想の植物が根を張っているのはただの土くれなんかじゃない、心そのものなのだから。

 掘り返された土に穴ぼこがあくみたいに、その植物を抜いてしまったら、心に大きな穴があいて、もう埋めることはできないかもしれない。あまりに根が複雑に伸びていて、引き絞られた心がバリンと割れてしまうかもしれない。そうして二度と、なんの植物も生えてはこないのかもしれない。

 きっと彼女は、そんな恐怖も覚えていたと思う。何より、どんなものであれ、慣れ親しんだものと決別するのは恐ろしいことだ。

 だからこそ、僕は彼女に必要だった。もしも穴があいてしまっても、僕がそこに土を分けてやれること、新しい種を一緒に探して、そこにそっと植えられること、彼女の隣で一緒にその成長を見守ってやれること。僕は彼女に教えてあげなくてはならなかった。

 だからずっとそばに居た。彼女が慟哭にも近い烈しさで泣きじゃくるのを、身もだえて苦しい嗚咽をし続けるのを、背中を撫でて、抱きしめて、何度も頬や額にキスをしながら、彼女の中の嵐が彼女の心の中の植物を根こそぎなぎ倒してしまうまで、ずっとそばで待ち続けた。

 ――恥ずかしいわね。

 ようやく、長い夜が明けた後、彼女は腫れぼったい顔を上げて笑った。

 ――嫌いになってない? こんな、みっともなく泣くような女の子のこと、呆れて嫌になってない?

 まさかそんなはずがない。僕は即答した。くしゃくしゃになった髪が濡れた頬にはりついているのを、出来る限りの優しい手つきで整えてやった。

 ――遠い所へ行きたいわ。ママからずっと遠いところ。

 そうしよう。それがいいよ。

 僕は彼女の手を取った。骨ばって、あまり女性らしい感触のしない、細くて脆い手だった。彼女の手首には、くっきりと仙骨が浮いて飛び出している。いつだったか「まるでロボットみたいでしょ。ネジかボルトが埋まっているの」と冗談交じりに彼女が言ったことがある。彼女の母も同じ手首をしていた。

 僕らは互いに手を取り合って、階段を上って行った。

 長い階段だ。

 何度も折り返している。その度に、踊り場がある。小さくて四角い開けた場所。

 彼女はそこに着くたびに、ちょっと後ろを振り返った。階段が折り返すから、向きを変えるために自然とそうなるだけ、そんなふうを装いながら、でも実際は後ろ髪を引かれるように、己の罪を確かめるみたいに、悔やんでいるみたいに、後悔などしないのだと言い聞かせるみたいに、僅かに階下に向かって目線を投げていた。

 それでも彼女は僕の手を握ったまま、一歩ずつ、ステップを踏んで上って行った。

 階段は赤かった。鉄製の、冷たい、無機質な、でもゾッとするほど情熱的な赤色の階段だった。酷く長い。何十階ぶんもある。それを上り続けた先に、扉があるのを知っていた。

 遠い場所。新しい、世界に繋がる扉。僕らが飛び立つべき世界へ通じる一枚の扉。

 開くと、縦長の四角い形に切り取られた光が、白く眩しく差し込んでくる。そんな扉だ。それを目指して、僕らはずっとずっと階段を上り続けた。

 だんだんと彼女は振り返らなくなった。むしろ率先して僕の手を引き、上へ上へと進んでいった。彼女の細くて長い脚が、その身長の女性の平均的なサイズよりいくらか大きくて土踏まずの綺麗に弧を描く両足が、交互にステップを踏んで上昇していくのを、僕は美しいと思って眺めた。時折振り向くのは、もう下を覗くためじゃなく、僕の顔を見るためだ。

 数えきれない踊り場を超えた。天国までも届きそうな階段の中で、僕ら二人だけが生きていた。少しだけ息があがった。だけど苦しくはなかった。むしろ体が軽いくらいだった。彼女もそうだということが、その表情から伝わった。言葉はなかった。

 幾つかの踊り場で、彼女は楽しそうに踊って見せた。まさに踊り場だ。その時だけ、僕らの手はつか離れ、またすぐに繋ぎ直された。

 どれほど上り続けただろう。もはや地面があることも想像できない。高く、高く、僕らは上り――だけどまだ、扉は見えない。

 不意に、彼女の手が泳ぐ小魚いさなのようにスルリと僕の手の中から逃げ出した。そして流線型の身をくねらせるようにして、彼女の華奢な体が崩れ落ちた。

 ――いけないわ。

 それが、「行けない」なのか、よしとしない意味の「いけない」なのか、僕には判断がつかなかった。でもどちらでも同じだ。

 不可。

 という意味においては。

 ――いけない。

 彼女はもう一度呟いて、まるでポッキリ折れてしまったかのような、自身の膝を見つめて項垂れた。冷たい鉄の、でも燃え滾っているかのような、赤色をした踊り場の床で、彼女は座り込んでいた。美しい彼女によく似合う、真っ白なワンピースの裾が、花びらみたいに広がっている。

 ぽたり、ぽたりと、透明な滴が清らかな布を濡らした。

 突如、彼女は髪を振り乱した。己を襲う、何か酷く凶悪で強大なものと戦うように。気の触れた女が暴れ狂うように、激しく頭を振って呻いた。

 僕は、立ち尽くしてそれを見ていた。

 彼女が戦っているものは一体なんだろう?

 己の中の罪悪感か。一人では生きてゆけない病身の母を見捨て、逃げ出そうとした己の罪の意識か。

 それならば、どんなに良いだろう。それと戦い、それに抗い、母の呪縛を逃れるための闘いであるならば、僕はひしと彼女を抱きしめて、なんとかして彼女が負けないように、精一杯に支えてやれる。例えそれになんの意味もなくても、僕が力になれることなど、本当のところはまったく無いに等しいとしても、僕は彼女を助けたくて必死になるだろう。

 けれど。

 もしも、彼女が戦っているのが、ここまで来てしまった自分そのものだったら? その罪悪感ではなく、罪を犯そうとする自分自身と戦い、打ち負かして、正しさを、母に教えられた正しさを、貫くための戦いだとしたら? 母を見捨てようとする弱い自分を、愚かな自分を、恋人と手を取り新しい世界に行きたがっている我が儘な自分を、殺すための戦いだとしたら?

 僕には見分けがつかなかった。髪を振り乱し、獣のように咆哮をあげたがって、崩れ落ちた姿勢のまま、もがき苦しんでいる異様な姿が、どこへ辿り着きたがっているのか、僕には判別ができなかった。

 ああ、壊れてしまう――

 ただ茫洋と立ち尽くしながら、僕はそう思い、見守っていた。

 毀れるのは、僕と彼女の未来だろうか。それとも、彼女の心だろうか。

 どちらも壊れて欲しくはなかった。どちらも失いたくなかった。僕は心の壊れていない彼女と、彼女の母親のいない二人の未来へ、共に進んで、旅立ちたかった。

 でも。

 ――無理なの。

 絶え絶えの息の間から、そう彼女が声を絞り出すより前に、僕にはもうわかった気がした。

 帰ろうか。

 僕は言った。できる限り優しい声で、できるだけそっと優しく彼女の肩に触れながら。

 帰ろう。僕の居たい場所は、君の居たい場所だから。君の行きたいところに行こう。君の生きたいところで生きるよ。

 逃げ惑う小魚のような、恐ろしい獣のような、気の触れた娘のような、彼女の悶絶がフッと途切れた。代わりに小刻みな振動が、彼女の瘦身を突き上げる。

 ――ごめんなさい。

 美しく掠れた声で彼女は言った。「ごめんなさい」何度も。僕の期待を裏切ったことを、二人の希望を打ち砕いたことを、何度も何度も謝った。掠れた声は、涙に湿った。どんな形であれ、彼女が潤っていることを、僕は少し嬉しく思った。

 良いんだ。

 僕は言った。心の底から。

 悲しみがないわけではなかった。悔しい気持ちも確かにあった。けれども、彼女が彼女であること以上に、大切なことなどなかった。

 もしも無理に僕が彼女を立たせ、手首を掴んで引きずって、この階段を上らせて、扉の向こうに連れ出したとしても、きっと彼女は僕を責めないし、むしろ感謝の言葉をくれるだろう。だけどその時、彼女の瞳は、あのゾッとするほど冷ややかな目をしているに違いない。罅割れて、キラキラと光を乱反射する、撥ね返すだけの、ビー玉みたいな。或いは完全に砕け散り、彼女の母がそうであるような、何も映さない目に変わり果てるだろう。そうなるくらいなら、これでいいのだ。

 本当に、本心で、僕はそう納得した。

 本当に――?

 どうだろう。その時は、本当のつもりだった。少なくとも僕は、その時の僕は、そう信じていた。自分の心を、それが真実だと思っていた。思い込んでいた。

 永遠みたいに長い階段は、降りるとなるとあっという間だった。

 僕たちは失敗した。彼女の、彼女の母からの逃亡は、失敗に終わった。

 挫折。敗北。より深い呪縛の底への帰還。

 絶望。

 だけど、そうではなかった。彼女は僕が思うより逞しく、新たに生まれ変わろうとしていた。

 初めての逃亡を通して、彼女は一歩、彼女の母から遠のくことを知ったのだ。遠ざかることができることを、完全に分かたれることはできなくとも、完全に背負いきらなくてはならないわけではないということを、母と自分とは同じ人間ではないという当たり前のことを、別々の、各々の人生を歩む別個の命だという至極当然のことを、彼女はようやく学んだのだと思う。

 帰ってから、彼女は新しい料理の本を買った。母親に教わったのではない味付けの、これまで名前も知らなかった料理を作って彼女の母に食べさせた。これまで一度も口にした事のなかった、僕の好物のラム肉を食べに僕と彼女はレストランに行った。彼女の母はけして買わなかった、キャラクターもののぬいぐるみをデートのお土産にねだってみせた。僕はもちろんプレゼントした。彼女の欲しがった特大のぬいぐるみはさすがにお財布に響き過ぎたので、小さなキーホルダーをお揃いで。学校行事の遠足でしか行ったことがなかったという動物園や水族館にも行った。彼女の母はそうした施設を虐待と捉えて嫌っていたのだ。

 それらはほんの僅かな変化ではあった。だが彼女にとっては大いなる変革だった。

 そして僕らは人気の少ない公園のベンチで、触れ合うだけのキスをした。例え誰も見ていないとしても、公衆の場所で愛を交わすのはお互いに初めてで、僕らはどちらも震えていたと思う。唇が離れると、二人とも真っ赤になって、まるで思春期の少年少女みたいだった。チラチラと照れ臭い目配せを交互に送り合って、初めて触れ合う二人みたいに、そろそろと指先に触れ合い、指を絡めて手を繋いだ。

 その夜、僕らは彼女の母が軽蔑しただろう場末のホテルで、互いのすべてを見せ合い、溶け合うような愛の行為をした。

 そうして――

 小さな積み重ねの先に、彼女は強い目をして言った。

 ――もう一度、もう一度チャンスをくれる?

 何度だって。

 僕は応えた。もし君が望んでくれるなら、何度失敗したとしても、何度でも、二人で飛び立つ努力をしよう。扉を目指して、何度だってあの階段を上ってゆくよ。

 ……僕は間違っていたのかもしれない。目指す先は、扉じゃなかった。その向こうの世界だった。なのにいつの間にか。

 僕らはまた、階段を上った。前回より、彼女の足取りは軽やかだった。そして力強かった。多くは振り返らなかった。振り返る時は、決意を固めるように、しっかと階下を見据え、振り切るように前へと顔を戻した。

 階段は赤かった。どうしてそんなに赤いのか知れない。鉄製で、頑丈で、永遠に見えて、何度も何度も折り返す。繰り返し踊り場がやって来る。酷く赤いこと以外には、一切の装飾のない階段。

 彼女は繋いだ手を離さなかった。今度は浮かれて踊りだすこともなかった。時折きゅっと唇をつぼめて、思案するように足を止めることはあっても、その後に明るい笑みを見せ、焦らず一歩一歩を上って行った。僕は先に立つことも、後を追うこともなく、同じ高さのステップを踏んで、彼女の隣を歩き続けた。

 少しだけ、息が上がった。苦しくはなかった。だけど胸は張り裂けそうだった。彼女への愛しさで、今まさに殻を脱ぎ、新しい世界へ生まれ出ようとする逞しい精神に、尊敬の念でいっぱいだった。

 僕は彼女が美しいことを知っていた。だけれども、彼女は僕が思う以上に、素晴らしく美しい女性だった。

 彼女が手を繋いでいるのが僕だということが誇らしくすらあった。もう、助けてあげたいなどとは思わなかった。助けたくないという意味ではない。必要ならば、どんな時にだって助けたいと願うけれど、もうそんなものは必要ないだろうほどに、彼女は輝かしくしなやかだった。

 そしてとうとう、僕らは最後の折り返しへと辿り着いた。

 あとはもう真っ直ぐに上るだけ。それだけで、最後の最後の踊り場に辿り着き、新たな世界への扉が待ち受けている。

 ようやく辿り着いたのだ。

 二人で。

 彼女の意志とひたむきさによって。

 彼女は彼女の母の呪縛から、自らの力で解放される。幻想の植物は、もはや彼女の母だけが育てたそれではない。彼女が自ら手を伸ばし、求めて得た新しい水、新しい肥料で、違った花を咲かせようとしている。もはや引き抜く必要もない。それは別な植物へと生まれ変わりつつある。

 最後の一段を踏みしめた時――

 そこに、女が座っていた。

 少し癖のある長い髪を背に垂らし、聡明そうなやや神経質さを窺わせる薄い皮膚をした額の下に、虚ろで美しい瞳を一対飾った、美しい顔をした女が、白いワンピース型のネグリジェを着て、車いすに座っていた。

 悲鳴が上がった。

 声にならない悲鳴だった。

 ママ。彼女がそう叫んだ、無音の悲鳴だった。

 骨ばった細い指が、十本、彼女のふっくらと可愛らしい唇を、抑えるように覆っている。彼女の発した悲鳴が、その自らの白い指に、閉じ込められて搔き消えたみたいだった。見開かれた大きな瞳には、あの冷たさは宿っていない。ただ驚愕の色を浮かべている。

 僕は咄嗟に凍り付き、最後の踊り場に待ち受けていた女を凝然と見つめた後、彼女を振り返ってその驚愕した姿を目に焼き付けた。喉がつかえ、僕もまた、声が出なかった。息さえも忘れていただろう。

 彼女の手が彼女の口を覆っている。つまり、ずっとずっとここへ至るまでの間、片時も離れずにいた二人の手が、繋いでいた手が、互いに気づきもしなうちにバラバラになっていた。そのことを、やけにくっきりと、頭の隅で感じていた。

 そうして、長い、永い、一瞬ののち、

 彼女の瞳に恐怖と懺悔と絶望の色が混じろうとするのを見た瞬間、

 僕は駆け出していた。猛然と。最後の階段を駆け上っていた。

 真っ赤だ。視界を埋める階段も、頭の中も。怒っているのか、パニックになっているのか、恐れているのか、区別はなかった。

 酷く重たい体だった。枯れ枝みたいに痩せているくせに、簡単に折れて壊れる棒切れみたいな手足のくせに、薄っぺらな板切れみたいな胴体のくせに、酷く重い女の肉体。それを――

 僕は両腕に抱えあげた。抱きついたという方が近いかもしれない。わきの下に腕を回し、介護者が被介護者を抱いて立たせる時みたいに、女の体を持ち上げて――

 踊り場から突き落とした。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、――

 鼓動が鼓膜の内側で響くという、小説に見るような表現が、嘘ではないことを初めて知った。

 「ママを見捨てて生きようというのね」

 折り返し、折り返し、底が見えなくなるほどに高く続く階段の、鋼鉄製の赤く黒い間隙に、墜落していく重い肉体から、女は最期の呪いを吐いた。

 物体が叩きつけられ潰れるぐしゃりとした嫌な音が響いた。

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ――

 鼓膜の内側で鼓動が響く。心臓は、動いている気がしないほど胸にはなんの振動も感じないのに、送られる血液の脈動が、耳の中でだけ響いている。他には何も聞こえない。彼女の声も。

 僕は振り返ることがきでなかった。

 二人で開くはずだった扉は、踊り場のどこにも見当たらなかった。壁もない。壁が無いのに、突き当りだった。何もない。赤く塗られた鉄板の床があり、そこから下へ永遠に続くかの階段と、等しい量の虚無の空間が下方へ続いているだけで、それ以上は何もなかった。

 鼓動が聞こえる。僕の。

 彼女は今、どんな目をしてそこに居るの?

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