十二・無色透明
透明だな。
口の中で呟いた。
くらげというのは、どうにもこうにも透明だ。
透明というのは、つまりは丸裸ということではないか。
ここが美味しいところですよと、
無防備過ぎやしないだろうか。
しかし考えてもみれば、くらげの居るのは透明な海の水の中。
深海生物にも透明な種は多い。
魚の稚魚も透明だ。
無色透明と言うステルス装備。
いや、単なるスケルトンか。
トランスルーセントという名の魚を思い出す。
熱帯のナマズだったろうか。
実に見事な透明だった。
魚屋の水槽で見惚れて立ち尽くしたのを覚えている。
違った。
ああいう店は魚屋ではなく熱帯魚ショップと言うのだったか。
自然界には殊の外、透明という色が溢れている。
無色と言う色。
色のない色。
ありふれた透明。
けれども、人工物に透明なものは多くない気がする。
今でこそ珍しくもないけれど、きっと昔はそうではなかった。
絹の衣、麻の服、陶器の茶碗、磁器の皿、石の矢じり、
硝子くらいだろうか。
その昔、人が作り出したもので透明な色をしていたものは。
それだって、昔の硝子は黄みがかっていたり気泡が入っていたりで、
無色透明とは違っていただろう。
だがいつの間にか、透明は人工物の世界でも当たり前になった。
ベランダの窓硝子やビニール傘やワイングラスや――
台所には透明なプラスチックの計量カップや軽量スプーンが置いてある。
そのうち、透明な包丁だって登場するかもしれない。
……危ないか。
だけどあれば美しいだろう。
透明な刃の、透明な柄をした包丁。
どうしてか、透明なものは美しい。
透き通っていればいるほど、無色であればあるほど、美しく感じられる。
見えない物ほど美しいのか。
くらげの泳ぐ水槽に額を押しつけながら、とりとめなく考える。
これを設置するのは一苦労だった。
くらげというのは常に水が流れていないと生きられないらしい。
しかも、水流のままに流される運命だから、
壁面に激突しないよう、水槽は円柱形である必要がある。
もちろん、くらげ同士がぶつかりあわない十分な広さも確保しなくてはならない。
温度管理もデリケートだ。
くらげを飼育するのは容易くない。
水族館ではよくふわふわと気楽そうに漂泊しているのを見かけるが、
あれだって多分、しょっちゅう死んだ個体と新しい個体とが入れ替わっているのだ。
個人でくらげを入手するのは、飼育以上に容易ではない。
生きたくらげを売っているお店自体が少ないうえ、けして安くもなかった。
お盆の頃の海水浴場では馬鹿みたいにうようよしているくせに、
いざ捕まえようと思うとそう大した数が捕まらない。
投網でもすれば話は別だろうが。
個人でそこまでしたら密漁だろう。
いずれにせよ、生きて連れて帰るのも至難の業だ。
それにしても透明だな。
円柱に沿って横切る寒天状の生き物を目で追いかける。
ゼリーフィッシュとは上手いネーミングだ。
ちっとも魚らしくは見えないが。
くらげ。ゼリーフィッシュ。透明の魚。
トランスルーセントグラスキャット。
ああ、そうだ。
あの熱帯ナマズの商品名は、正確にはそんな名前だった。
あれは透明標本に似ている。
透明標本とは、
その名の通り透明な標本だ。
生き物を特別な液に浸し、肉を溶かして骨だけにする。
さらに残った骨からも色を抜いてしまう。
すると透明な骨格の標本ができあがる。
中には紅や青と言った色をわざとつけたものもあるが、あれはよくない。
以前、ためしにくらげに金魚用のカラフルなフレークフードを与えてみた事がある。
好んで食べはしなかったようだが、
水流を泳ぐ間にたまたま口(と呼ぶのかわからないが摂食器官)に入るのだろう、
内臓が極彩色に染まったくらげが幾つかできあがった。
あれは悪趣味だったな。
やはり透明であるほど美しい。
無色透明こそが、もっともきれいだ。
ひんやりとして感じられる水槽に頬をあてる。
視界にもうひとつの水槽が映る。
くらげが泳いでいるのと同じ、円柱形の硝子水槽。
中にはたっぷりと液体が満たされている。
九分目程度だろうか。
人が収まってちょうど満杯になるくらいの量。
大きさも、ちょうど人が一人、膝を抱いてゆったり座れるくらいの広さと高さだ。
無論、くらげは泳いでいない。
硝子面から頬を離し、もう一方の水槽へと歩みを進めた。
幾分不釣り合いな梯子段がかけられている。
両手をかけた。
一段ずつ、慎重に登る。
苦しいだろうか。
苦しいだろう。
何しろ肉が融けるのだ。
焼けるような痛みを味わうのだろう。
だが、そうして浮かんだ苦悶の表情も、所詮は肉の上だけの事。
骨には関係ない。
人骨の透明標本。
ああ、楽しみだ。
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