十一・ジェミニ
「もっと早く! ねえ、もっとよ! ああ、素晴らしいわ、
腕の中で碧がはしゃぐ。風に飛ばされる甲高い声。少し耳障りだ。
僕の駆る馬は軽やかに駆ける。僕の膝の間で横座りに乗った碧は、大きく揺さぶられながら歓声を上げる。時々ぎゅっと馬の首にしがみつく。馬の負担になるのでやめて欲しい。僕が言うと、今度は僕の腰にぎゅっと抱きついてくる。小さい手、細い腕、ひらひらと布地の多い服に包まれた華奢な躰が感じ取れる。
どうしてだろう。
碧の声は高らかで、鈴を転がす音ような愛らしさだ。僕も同じ声をしているはずなのに、僕に聞こえる僕の声は、碧のそれとは違って聞こえる。例えるなら、碧の鈴は小ぶりな銀製で、軽やかに揺れてリンリンと高く澄んだ音を響かす。僕の鈴はくすんだ銅製で、重そうに転がってヂリヂリ濁った音を響かせるだけ。
一度そのことを言ったら、自分の耳に届く自分の声は、頭蓋骨を通して聞こえるものだから、他人の鼓膜を打つのとは違う音に聞こえるのだと教えられた。本当だろうか? 僕の声も碧のそれみたいに、他の人には銀製の鈴の音をたてているのだろうか。だとしたら、僕はそのことを喜んでいいのだろうか。清い響きは澄み渡ってよく通り、少し厚かましい。
「何を怖い顔をしているの?」
腕の中から僕を見上げた碧が、腰を捻って腕をもたげ、僕の額の辺りに手を伸ばした。
「皺ができてるわ」
「危ないだろ」
小さな手に視界を塞がれそうになって、僕は慌てて身をのけ反らせる。手綱が幾分引っ張られ、馬の駆ける速度が落ちた。
「ダメよ、王子様の眉間に皺があるなんて、みっともないわ」
なおも伸ばしてくる碧の手を、右に左にと避けながら、僕は馬を駆け足から並足へと変える。ポッカラ、ポッカラ――そんな牧歌的な音が聞こえそうな速度まで緩めた。
「怒らないでよ」
「別に怒ってないよ」
「そうなの。じゃあ、何を怒っていたのよ」
「だから怒ってないって」
本当に? そう言葉以外の全身で表現して、碧は僕の顔を覗き込む。なんて円らな瞳だろう。とても明るい綺麗な碧色の瞳だ。僕の瞳は、同じ青でももっと深い色をしている。双子なのに瞳の色が違うだなんて、髪は二人とも同じ淡いブロンズで細さも癖も一緒なのに。
これも声と同様に自分と他人で違って見えるのだろうかと思って尋ねたことがあるけれど、そういうわけではないらしい。音とは違い、色や形は自分で見るのと他人が見るのは同じであるそうだ。本当だろうか。だとしたら、僕の瞳は碧のそれほど明るく綺麗な色ではない、暗く沈んだ色で間違いないということだ。少し悲しい。
「碧があんまりはしゃぐから、ちょっと腹が立っただけだよ。馬が怯えるから」
「やっぱり怒ってたんじゃない」
ほら見ろとばかりに碧は言う。
嘘だよ。だってそっちの言い分を認めてやらなくちゃ、碧は納得しないじゃないか。
僕は心の中だけで返事した。
碧は天真爛漫だ。無邪気で、無垢で、声高に笑う。世界のすべてが自分のものであるかのように、楽しそうに、嬉しそうに、満面に笑う。そんな碧をみんなが愛して、だから碧もみんなを愛する。生まれながらのお姫さまだ。僕は時々、そんな碧が憎たらしい。その小さく天を向いた鼻を、右手の親指と人差し指でぎゅっと抓んで、ぐいぐいと引っ張ったり圧し潰したりねじったりしてやりたい。
碧は悲鳴を上げるだろうか。やめて、やめて、と言いながら涙を浮かべたりするだろうか。僕に懇願するだろうか。抓んだ鼻の先っぽは赤くみっともない色になるだろうか。まるでつるつるの小鼻の先から毛穴を割って白い皮脂が飛び出したりするだろうか。白い皮脂を搾り取ったら、その後にあばたができたりするのだろうか。そうなったら碧は一生、人に自分の鼻を見せたがらないだろう。高慢な鼻をへし折る、とは、もしかして無理矢理に鼻の皮脂を絞り出す行為を言うのかもしれない。
「怒らないでよ」
さっきと同じセリフを吐きながら、けれど先ほどよりしおらしくなって碧が上目遣いに僕を見る。つやつやの薔薇色の頬を、そっと僕の胸の辺りにすりよせた。
「怒ってないよ。ちょっと腹が立っただけ」
「同じじゃないの?」
「同じじゃないよ、多分」
言いながら、僕は馬に緩やかな方向転換をさせる。草ばえの揺れる丘の上を、環を描いてゆっくり流させた。
碧はまだ僕の胸に頬をつけている。本当は頭を撫でて欲しいのだ。怒ってないから心配しないで、僕は碧が大好きだよ。そう、手の平で告げて欲しいのだ。わかっている。だけど僕は手綱を握っているから、碧の希望に応えてやれない。万が一にも落馬したら大変だ。今や馬の歩む速度はほとんど止まっているに近く、地面はやわらかい草地で、馬上から落ちたところで骨折することも馬に蹴られることもないだろうけど、それでも碧はか弱いから足をくじくくらいはするかもしれない。碧に怪我を負わせたらどんな騒ぎになることか。お姫さまはとても大事にされるものだ。
「碧、拗ねないでよ。僕が悪かった」
いつまでも胸に頭を預けて離れようとしない姿に、僕はできるだけ優しい声を出す。碧は更に額をすりつけるようにして、小さくかぶりを振った。
拗ねてなどいないという抗議の意味だろうか。それならそうと口にして伝えそうなものだけど。
「具合が悪いの?」
「……少し。酔ったみたい」
僕はなるべく碧の耳に入らないよう、溜め息をついた。
「だから碧には遠駆けなんて無理だって言ったのに」
「だって……」
悔しそうに唇を噛んだのが布越しの肌の感触でわかる。僕は馬に歩かせるのをやめて、長いこと握っていた綱を離した。僅かに震えているようにも思える碧の華奢な肩を抱く。吐き気を催しているのかもしれない。
「降りられるかい。すぐそこに木陰がある。あそこで休むのはどう」
問いかけに碧は答えない。ぎゅっと小さな拳を両手とも作っている。僕は肩を抱いた手を、碧の背中に移そうか迷った。
優しく背中を撫で摩ってやったら、碧は嬉しく思うだろうか。それとも吐き気が余計に促されてしまうだろうか。気分の悪い時、他者の温かい手の平は心地よく有り難いものだけれど、同時に胃の中のものがせり上がってきて、とても複雑な気持ちになるものだ。僕にも経験がある。吐いてしまえば楽になるには違いないのだけれど。
馬上で所在なく風に吹かれながら、僕は密やかに想像した。
もしも、この場で碧が嘔吐してしまったら。
僕の服は碧の吐き出したもので汚れてしまうだろう。胃酸の混じったツンとした匂いがするに違いない。どろどろの得体の知れない汚らしいものだ。今朝の食事はなんだったろう。紅茶を飲んだのは間違いない。薫り高いダージリン。朝は目が覚めるよう濃い目に入れてくれるから、紅茶と言うより琥珀色の液体に近い。碧が吐き出すものも同じ色に染まっているのだろうか。茶色い、どろどろの、酸っぱい臭いの嘔吐物で僕の服を汚してしまったら、碧はどんな顔をするだろう。蒼褪めて、信じられないといったふうに目を見開くだろうか。自分の中からそんな汚らし気なものが出て来たなんて、そんなものが自分の体内にあっただなんて、碧は許せるだろうか。
馬鹿馬鹿しい。誰でも一度や二度、いや、数えきれないくらいの回数、体調を崩して胃の中のものを吐き出してしまったことがあるだろう。碧だって、いかに美しく飾り立てた豪華な食事もいったん胃の中に納まってしまえば、見る影もない代物に変わることくらい知っているはずだ。どんなに綺麗な人も醜い人も、一皮むけばほとんど同じ血と肉と骨と内臓でできている。
「……ごめんなさい」
随分長い沈黙の後、碧は消え入りそうに呟いた。僕はまた、溜め息をつく。
どうせなら謝りもしないでいてくれたらいいのに。そうしたら、僕はこの我が儘なお姫さまのことを率直に嫌ったり怒ったりできるのに。反省なんて言葉は知らない、どこまでも傲慢で高飛車な性格であってくれたら気が楽なのに。
「いいよ、別に怒ってないから。僕がちゃんと断れば済んだことだ。どんなに碧が遠駆けをしたいと言ったって、僕が馬に乗せなければ君にはどうしようもないんだから。連れてきた僕が悪い」
碧はまたかぶりを振った。先ほどより仕草が大きい。少し気分が落ち着いて来たみたいだ。
碧の頼みを断り切れないのは、僕の悪い部分だと思う。幼い頃から剣や乗馬の稽古に励んできた僕と違い、碧はそれこそ深層の姫君よろしく大事大事に育てられてきた。生まれつき体が弱かったせいもあるだろう。剣なんてとても重くて持ち上げられないし、馬に跨るのも一苦労だ。一人きりでは城を離れた遠くまで、とてもじゃないけど行くことはできない。僕が剣の稽古や馬の世話で城の外で汗を流している時、碧が窓の向こうから羨ましそうな顔を覗かせているのを僕は知っている。碧はとても不自由だ。だから僕は、碧にお願い事をされると、それが本当はいけないことだったとしても、強く断り切れずに最終的には頷いてしまう。
それに――
僕は知っている。碧が本当は誰の馬の背に乗せてもらいたいかを。誰に頭を撫でて欲しいのかを。誰に優しい言葉をかけてもらいたいのかを。
碧の薄っぺらな胸の内側で、大切に温められている、小さな恋の気持ちのお相手を、僕はとっくに知っている。それがけして叶わないことも――。
僕は、自分の唇の片端が、キュウと持ち上がるのを自覚した。左右が非対称になった醜い笑い方。ああ、こんな顔は身分に相応しくない。引っ込めなくちゃ。
思うけれど、止められない。肩が震えそうになる。黒々とした愉悦が喉にせり上がってくる。
可哀想なお姫さま。君はけして想い人と結ばれない。そればかりか、君が当たり前に思い描いている未来すら、いずれ粉々に砕かれるだろう。侍女を侍らせドレスを纏って素敵な殿方にちやほやされて、なんの責任も負わずにただ笑っていれば周囲に喜ばれる。そんな少女の時代はいずれ終わりを告げる。君はすべてを失うだろう。新たな権利と義務を与えられ、その引き換えにこれまでの満ち足りた幸福を手放さなくてはならない。いずれ誰しもが君に傅く。けれどももう誰も、君を手放しで愛してはくれない。
僕だって、いいえ、私ももう、あなたの願いに応えたりしない。
「藍」
銀色の鈴の音が鼓膜を打つ。僕はハッとして、声のした方へ目線を落とす。淡いブロンズ色の細い絹糸が流れる小さな頭が見える。相変わらず、ぴったりと僕の胸に頬を寄せている。
「なに?」
できるだけ柔らかな声音で尋ねる。ようやく乗馬酔いから立ち直ったらしいお姫さまの機嫌を損ねないように。
「有難う」
僕はちょっと面食らった。碧が感謝を口にすることは珍しいことではないけれど、僕はいつも意外な印象を持ってしまう。碧はいつでも、他人に優しく丁重にもてなされることを当たり前と考えている節があるから。
「こうしていると藍の鼓動が聞こえてくる。私と同じ速さでよ。ぴったり重なって脈打つのがわかるの。心地いい。お陰で気分が悪かったのが収まったわ。ランチにしましょう。さっき言ってた木陰はどこ?」
「ああ、うん。あそこだよ。
「そう、楡の木陰なのね。私、楡より
あんなふうになりたいわ。
そう聞こえた気がして、僕は耳を疑った。気のせいかもしれない。丘の上は風が強くて、軽やかな鈴を転がす音色は一瞬で飛んで行ってしまう。蝶を思った。寒くても暑くても、風が強くても凪過ぎても飛べない蝶ちょ。
「藍はなんだか白樺に似ている」
言って、ひらりと碧は馬の背から草地へと飛び降りた。実際には滑り降りたというのが正しかったが、碧の身のこなしは優雅でずるずるとした印象とはかけ離れている。
「危ないじゃないか」
「このくらいは平気。私を誰だと思っているの?」
ふんと鼻を鳴らすはすっぱな仕草を真似て、けれどとても高貴な仕草で、碧は薄い胸をのけ反らせる。
「まるで女王様だね」
「違うわよ」
「もちろん。君は現国王陛下のご令嬢、誰しもに愛される世界一の王女殿下だ」
「違うってば」
折角ホントウのことを答えてあげたのに、碧は不満そうな顔をする。それから急に笑みを浮かべたかと思うと、馬を降りる僕の腕に、自身の腕を絡ませた。
危ないからやめて欲しい。言いたい言葉を僕は呑み込む。あんまり真っ直ぐ碧色の瞳が見つめてくるから。明るい色の宝石がキラリと陽光を吸って輝いているから。とても綺麗で見惚れてしまう。なんて透き通っているのだろう。黒い瞳孔があいていることが信じられない。どんな瞳にも、誰の目にも、一点の闇の穴倉がある。だけど碧の一対の瞳には、そんな穴は存在しないのではないか。
「私はね」
絡めとった僕の腕を引っ張って、楡の木陰へと急き立てながら碧が言う。馬は僕の手から手綱が離れても、おとなしくついてくる。
「藍、あなたの双子。あなたと同じ血と肉をわけた、あなたと同じ、同じ運命の――」
そこで碧は言葉を探しあぐねる。雲の上から見つけようとするみたいに空を仰いだ。白く咲いた花のような、真っ白な蝶ちょみたいな、碧の小さな左手が風を泳ぐ。
「いいえ、難しいことは言いっこなしね。私はあなた。あなたは私。それだけ。そう、それだけだ」
ふっと、碧は笑った。肩越しにこちらを見上げて。寂しそうに、優しそうに、
チリチリと鈴鳴るように鳥が鳴く。
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